上 下
39 / 54

やっぱり行かないで

しおりを挟む

「……そりゃ、そうだよ」

 偽りの言葉を吐いた自分の声はほんの少しだけ裏返った。

 喉に何かが引っかかったように違和感を感じる。でも、これを悟られてはならないと強く思った。私はメモ用紙をさらに強くソウスケの前に滑らす。

「運命とか信じないタイプだけど。これは流石に運命かなって思っちゃうもん。障害は多いけど、このままスルーはできないよ」

 笑いながらスラスラと答えた。ソウスケは無言で私を見つめている。その夜色の瞳に見つめられると、泣き出してしまいそうになった。

 それでも私はさらに言葉を重ねる。

「それに。ソウスケ言ってたでしょう、春奈も結構すごい陽の気だって」

「まあ、そうだったが」

「じゃあ、春奈の近くにいれば陽の気もらえるじゃない! もし二人が恋人同士になったりなんかしたら、そばにいるだけじゃなくてそれこそ……」

 言いかけて止まる。

 自分が吐いた言葉に自分でショックを受けた。

 そう、そうだ。そうだよね。

 ソウスケが私のそばにいる理由は陽の気が貰えるから。普段はそばにいて少し移るのをジリジリ待ってる状態だけど、もし春奈と結ばれたら。

 キスだって、それ以上だって、そうやって沢山陽の気を貰えるんだ。ソウスケにとって、メリットしかないじゃないか。

 彼が私の隣にいる意味はなくなる、ということだ。

 私とソウスケが一緒にいる理由なんてそれだけのことだった。なぜかすっぽり忘れていたんだ、彼は私の生活の一部になっていたから。

「沙希、本気で言ってるか」

 はっとして前を見る。

 さっきまでの強い眼光はそこにはなかった。ソウスケがこちらに送る視線はどこか脆くて悲しげだった。少し揺れる瞳に見つめられると、私の頭と心は一気にパニックでぐちゃぐちゃになる。

 ソウスケと過ごした時間が一気に蘇った。めちゃくちゃな展開でこの家に居座った男だけど、私のせいで起こる事故の被害者を助けてくれた。

 あやめについては、自分が消えてしまいそうになるくらい力を使ってくれた。

 毎日仕事が終わればテレビを眺めながらむかえるソウスケの姿が目に浮かぶ。光景だけ見れば完全にヒモ男。

 それでもいつでも居心地が良くて、楽しい人だった。口は悪いけど優しい人だった。ソウスケといる毎日は楽しい、行って欲しいわけじゃない。


 でも、彼は、私じゃなくてもいいんだ。私以外にもっと相応しい人がいる。



「……もちろん、本気だよ」

 凛とした自分の声が響いた。

「そしたら万事解決でしょう? 私も一人暮らしに戻れるし、前世で惹かれあってた二人は結ばれるし、ソウスケは一気に陽の気もらえるでみんなハッピー」

 私は肩をすくめて笑った。結構明るく言えたと思った。

 しかし目の前のソウスケは、私の笑った顔を見てほんの少し目を細めただけだった。嫌味の一つも言わない。そんな表情を見て、私の心はまた苦しくなる。どくんと鳴り響いた音はあまりに私を混乱させる。ああ、なんなんだろうこの想い。痛くて気持ち悪くて、できることなら丸めてどこかへ放ってしまいたい。

 ソウスケは何も言わなかった。ただ黙って、私を見ていた。

「……そうか。迷惑かけて悪かった」

 しばらくたって、彼ははその一言だけポツンと呟いた。はっとして何かを言いかけるが、私の口からは息しか漏れなかった。

 違う、別に迷惑なんかじゃない。そう叫びたいのに、何も言葉が出てこない。

 ソウスケは私から視線を逸らして目の前のメモを手に取った。

「……あ」

 ようやく出てきた声はそんな情けない音のみ。そこで一気に後悔の念が押し寄せる。

 どうしよう。私、言い方間違えたのかな。間違えたことは言ってない、でも、これじゃあ私がソウスケが迷惑だから出て行って欲しいって言ってるみたい。

 そうじゃない、そうじゃないんだよ。ソウスケに何度も助けられて迷惑かけてるのは私なの。私は毎日楽しくって仕方ないのに。ただ、ソウスケが幸せになる方法があるなら素直になってって言いたかっただけなのに。

 そう説明しようとした時には、もうソウスケは立ち上がっていた。荷物なんて何もない彼は、そのまま玄関へ向かって歩き出す。

「そ、ソウスケ!」

 私が呼び止めると、彼は一度だけ振り返った。その顔は優しく、それでいて寂しそうに笑っていた。

「ありがとう、世話になった」

 無音の部屋にそれだけが響くと、彼はそのまま玄関へ歩いて行った。眩しいほどに白いシャツの後ろ姿を見ながら、引き留めたい衝動に駆られる。

 それでも、なんて言って引き止めていいかわからなかった。混乱で正常な判断ができない状態で、ただその白い背中が遠ざかるのを見るしかなかった。

 待って、やっぱり行かないで。

 声に出したと思った声は音になっていなかった。心の叫びは相手には届かず、ソウスケは玄関のドアを開く。そしてそのまま、外の世界へ吸い込まれていく後ろ姿を見送るしかできなかったのだ。

 無機質なドアがバタン、と音を立てて閉められる。ただ呆然とそれを眺めていた。

 行っちゃった。ソウスケが、いなくなった。

 何を言っているんだと自分で殴りたい。行けと言ったのは自分で、こうなるように仕向けたくせに。

 それでも心に訪れた喪失感が思った以上に大きくて、私は戸惑いを隠せなかった。

 これからあの二人は会って、前世では悲しい終わりを告げた恋を実らせるのだろうか。

 ソウスケは、私はできなかった方法で陽の気を沢山もらって喜ぶんだろうか。

「……ソウスケ」

 無意識に立ち上がって廊下を駆けた。慌てて開いた玄関の戸から靴も履かずに飛び出しすぐさまあたりを見渡した。

 でももうそこに、ソウスケの姿を見つけることはできなかった。

 ただ、皮肉なほどに空は青くて。それが私の心とはまるで裏腹なのが印象に残っていた。


しおりを挟む

処理中です...