上 下
1 / 84
プロローグ

第1話 魔女は幸せになりたい

しおりを挟む
「ねぇ、クロ。 もしもクロが人間だったとして――」

 床でくつろいでいた黒猫は魔女によって抱き上げられると、互いに同じ高さで顔を見交わし、

「クロは私をお嫁さんにしてくれる?」

 魔女はそう言って揶揄うような笑みを浮かべた。

「――――」

 黒猫は後ろ脚をダランと宙に浮かせたまま、ただただ無表情を貫くだけで無反応。
 魔女は浮かべたその微笑みを僅かに崩した。

 しんとした沈黙が流れ、魔女の儚げな顔を見つめる黒猫の顔が魔女の瞳に映り込む。

 魔女は知らない。
 黒猫が今何を考え、どんな気持ちで魔女の言葉を聞いていたのかを……そして、何を神に願ったのかを――
 


 ◎



 人里から遠く離れたとある山奥――そこに生い茂る草木は日差しを遮り、日中でも薄闇が辺りを包み込む。
 そんな、人が出入りするとは到底思えない場所に不自然に佇む小さな一軒家があった。
 
 そこに暮らすのは寂しがりの魔女と、一匹の黒猫。
 そしてこの一軒家は魔女のこだわりが詰め込まれた自慢のマイホームで、その建築工法はもちろん、魔女による錬金魔法。
 しかし、そのマイホームの自慢も、自慢する相手はただ一人――いや、一匹しかいない。

「見てクロ、ほら!この壁のこの波模様! 綺麗でしょ? これ、職人さんがやる伝説の漆喰、アレを真似してみたの!凄いでしょ? 本当に職人さんがやったみたいでしょ? これを魔法で再現するのって本当に大変だったんだから!」

 世界から疎まれ、誰よりも孤独な日々を過ごす魔女にとって共に暮らす黒猫は唯一の心の支えである。

 しかし、ただ一言に『心の支え』と言うには軽い。

 魔女にとってこの黒猫は文字通り生きる為の『糧』になっている。

 精霊でも聖獣でも使い魔でも無い、いくら話し掛けても返事の無いただの黒い猫だが、魔女の侘しさを少しでも紛らしてくれる唯一の存在だ。
 とはいえ、ただの黒い猫。魔女の冷えた心を温めるにはあまりに不十分な存在でもある。

 言葉を交わせない、一方的なやりとりしか出来ない中で得た僅かな温もり。それを魔女は己の冷えた心に擦り付ける。……心が凍えてしまわないように、迫り来る希死念慮から逃げる為に。
 魔女は必死に、もがくようにこの世界を生きている。

 もしもこの黒猫がいなくなってしまったならば、無論、魔女の心は最後の支えを失い、生きる気力は完全に失われるだろう。

 それほど魔女にとってこの世界を生きるというのは辛い事だ。

 にも関わらず、魔女は己の境遇を悲観的に考えたりはしない。 いや、正確には悲観的に考えないようにしている――と、言った方がいいかもしれない。

 嘆くだけで状況が改善されるならば幾らでも嘆くが、そんな事があるはずもなく、嘆けば嘆く程に辛くなるのが世の常だ。

 だから魔女は嘆くどころかむしろ明るく、気丈に振る舞うように努めている。
 
 辛ければ辛い程、寂しければ寂しい程、魔女は笑顔を顔に刻む。 
 笑えば、心が温まるような気がするから。死にたいなんて事を考える事も無いから。
 
 ――死にたくない!生きたいから!幸せに暮らしたいから! だからそれまでは――、幸せを掴み取るまでは、絶対に死ねない!生きて、いつか「私は幸せ!!」って、そう胸を張って言えるようになりたい!

 この、『幸せになりたい』という執念が魔女の生きる希望になっていた。

 魔女が夢に見る幸せのかたち――それは女としての幸せ、愛される喜びを知る事。 つまり、結婚だ。

 誰かと恋をして結婚して、愛する人の子を産んで、愛する人の支えになって、愛する人との暮らしの中でゆっくりと人生を終えたい。

 側から見れば、魔女の境遇でそれを願うのは笑止の沙汰だろう。

 しかし、魔女は己の夢を、幸せを決して諦めない。

 生きてさえいれば可能性はゼロじゃない。
 いつかこの状況が変わって、自分にも幸せと思える日がきっと訪れるはず。

 魔女は本気でそう信じていた――。

 だが結局、魔女にその幸せが訪れる事はなかった……。

 愛される喜びも、女としての幸せも知らないまま、魔女の一生は終わりを告げた。

 死ぬ直前、魔女が最期に願った事――

「もしも、来世があるなら、今度こそは幸せな人生を……」
しおりを挟む

処理中です...