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二章
17記憶の足跡
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馬蹄の音、耳のすぐ傍を風が流れていく音、露出している肌が寒さで切れそうなほどの痛み。それらを感じながら北へ北へ上って念願の雪景色を見た。
そこでヒヨクの思い出は一旦ぶつ切りになる。ちょうど丸太をいくつか輪切りにして、傷のあった場所や腐った場所を取り除いたような感じだ。
ヒヨクの記憶は一部が飛び飛びになっている。はっきりと抜けていると分かるのは十二歳の時、折れて落ちてくる木の枝で頭を切ってしまう大怪我をしたその前後だ。特に傷を負って昏睡から目覚めた後の一ヶ月あまりはかなり混濁しており今や大部分が抜けてしまっている。
他にも幼少期の記憶が飛び飛びで、ヒオと比較して記憶の整合性を図ると明らかに不足している事がいくつかあった。
ただ、ヒヨクにとっては実感が伴わないものでしかなく、記憶の一部が消えてしまった事をあまり気負ってはいなかった。傷跡は残ったが髪で隠れる位置だったし、何より病弱なヒオの事を守れたというその事実の方が誇らしいくらいだった。
しかし、この国を治める王という立場にいる父にとってはそんなに簡単な話ではなかった。
〈セイシン〉という国には、輪廻転生という考え方がある。生きて死んだ魂は再びこの大地に生まれ変わってくるという命の巡りをいうのだが、その魂は必ず前世の行いに左右されるというのである。善い行いをしたものは来世では苦労をしない。悪い行いをしたものは、その罪を贖うためにあらゆる苦難に遭遇する。その最たる例がセイシンでは双子であるとされていた。
双子は前世の善と悪の行いが分かたれて生まれてきた存在で、それぞれ吉凶を司る。要はどちらか片方は『凶い』を齎す災厄の子という意味であった。
古い時代のセイシンには国を二つに分けて争った歴史がある。王子が双子で生まれ、それぞれに王位を主張したのだ。双子を忌避する考え方はその歴史からきているのだろう。そして双子忌避の風習は都から始まり国の全ての邑にまで及んだ。
双子で生まれてきた子供は、語るのも恐ろしい様な方法で様々に『対処』されてきた。当然双子で生まれたヒヨクとヒオもまた、その存在を徹底して隠される事になる。表向きには王子は一人であるという事にしてしまったのだ。
体の弱いヒオは十歳になるまで空を窓越しにしか知らなかった。外に出るような事は乗馬の訓練に始まり全てヒヨクがこなしてきたおかげで、王宮の者のほとんどが王子といえばヒヨクの方を思い浮かべるだろう。負けん気が強いが純粋で、素直な性格の『アルファの王子』だ。座学を共に受ける事も許されず、教師は別々につけられた。
十一歳になるとヒオだけが療養のために南部へと移されたが、今にして思えば心も体も成長し始めた双子を王宮の一画に隠し続けるのは困難であると、『対処』に手を焼いていたのかも知れない。
こうしてヒオと一年ばかり離れて暮らした頃母がヒオに酷く会いたがり、療養の甲斐あって体調が安定していたヒオが一時的に都へ戻る事になった。
雪を見てみたい。
先に言い出したのはヒオだった。『先生』から色々な話を聞いて外の世界に強い憧れを抱いたヒオは雪だけに留まらず、セイシンの国全てを見てみたいとよく話した。
十二歳という年齢を大人は誰もが一様に『子供』だと評価するだろう。だけど当時のヒヨクたちは自分の事を大人だとは思わずとも、二人揃えば何でも出来ると思い込んでいた。それこそ大人と変わらないくらい出来ない事は無い、と。
夜半、寝所を抜け出して乗馬の訓練に使う馬を厩舎から勝手に連れ出した。『乕門』という王宮の外へ繋がる門の門衛には「幽霊が出たから来てほしい」と嘘をついてその場から離れさせ、その隙にヒオに馬を外へ運ばせた。虎の邑と外を繋ぐ楼門の門衛には迷子になったと言って同じように持ち場を離れさせた。
二人の計画は思い描いた通りに進み、まんまと邑の外へ抜け出した時は今までにないくらい心が踊りわくわくしていた事を今でもはっきりと思い出せる。
騙した門衛たちに対する罪悪感などまるでなく、馬に跨りひたすら駆けた。北へ、とにかく北へ。
どこかで見つかれば自分たちの冒険は終わってしまう。そう思うと睡魔と闘う事も苦ではなく、一日と半、馬を休ませながら北上し、そして現れた銀世界に二人はいっとき声もなく魅入られていた。
それから夢中でまっさらな雪の上を走り回り、雪の上に寝転がったり雪玉を作って投げてみたり、存分に雪の世界を楽しんだ。
そして。
ここから先はヒオに聞いた話だ。
疲れ切っていた二人は馬を繋いでおいた木のところへ戻り、都へ帰ろうという話をしていた。そこへ雪の重さに耐えきれなくなって折れた木が落ちてきて、ヒオを庇ったヒヨクは頭を強打し怪我をした。頭から血を流すヒヨクを抱きしめヒオはどうする事も出来ずにいたが、運良く通りがかった付近の邑の人間に助けられた。
都へ戻った後、七日七晩寝込んだあくる日の朝目を覚ましたが、そこからの一月ばかりの記憶は朧気だ。だが、父の言った言葉とその表情だけは、忘れない。忘れられない。
――ヒヨク、ヒヨク。良かった。お前は『兄さん』をよく守った。オメガだが、勇敢な子だ。
兄さん、という言葉の響きがはっきりしない頭に引っ掛かっていく。
頬を引き攣らせ、目の下に幾重ものクマをこさえ、ヒヨクの手を握る父の手は微かに震えていた。父は双子が生まれてきてからの十二年、ずっと頭を痛めてきたのだ。
――ベータのヒオならば、身籠って腹が膨れる心配もいらない。
それはつまり、この先王位をヒオに譲ると宣言したも同然である事に気付かないほど、父は憔悴しきっていた。幼心に父の苦慮を思うと、「どうして?」というごく純粋な疑問をぶつける事さえ憚られた。その疑問が父の決心を鈍らせ、また懊悩の日々が訪れると察せられたからだ。
――はい、陛下。俺は『兄上』を助けられた事を誇りに思います。しかしながら此度の事で兄を危険に遭わせたのもまた事実です。どうかお叱りを。
そんなような事を言ったと思うが、この辺りから再びヒヨクの記憶はあやふやになっていく。
日暮れの時刻、休憩小屋の竈につけた火に当たりながらトキと話していた。
「ヒオってやっぱベータなんだな」
「気付いておったか」
何でも知りたい事があるなら訊けというと、トキはおずおずと『王子の番』について訊ねてきた。ひとまずヒオはベータで番を作れない事を話したところだ。
番候補戦の結果が変わった事をトキの口から聞かされた時にはヒヨクも驚くしかなかった。いよいよ自分は王子ではいられなくなるのだと、そう思ったら体が芯から冷えていって、いっとき何も考えられなくなった。
番を募る触れを出す時これまで音沙汰のなかった王子の怪しさを払拭するために『療養を終えて王宮に戻った十八歳のアルファの王子』という体にしてはどうかと提案したのはヒヨクだった。
自分はとっくに王位からは遠のいていて、ヒオが上手く立ち回るための影武者のようなつもりでいたのに、いざ自分の存在を無視して事が決まっていくのを目の当たりにするとその衝撃は想像を超えていた。
ヒオの思惑を確かめようと『あめふり屋』にふらふらと足の赴くままに行ってしまったが、よくよく考えてみればツキヒがトキに事情を訊ねた以上は彼女も『自分が番になる』という事しか知らされていなかったのだろうと気付いた。
「情けないが、正直俺にもツキヒの事についてはよく分からぬのだ」
恐らく誰かがヒオを脅している。ツキヒは巻き込まれただけで、烏の邑の大人役と王宮に仕える誰かが手を組んで画策しているのだろう。
「ヒオはどうするつもりなんだ?」
「さてな。だがあのヒオの事だ、何か策は講じておるだろう」
ヒオは頭が良い。そして策を弄するのが好きだ。『先生』と手を組み侍女をよく騙して揶揄っていた。無論、子供が考えた事なので侍女は騙されてくれていたのだ。だがその性格は病と違って治るようなものでもなく、未だ健在である。廷臣らの企てによって偽の番を取らされたとて、ヒオならば上手く立ち回るだろう。
「後さ、何か言ってたよな? 候補戦は王子がアルファかどうか確かめるための試験でもあったって」
「そうだな。お主には話したのだったな」
番候補戦では、王宮と各邑の名士の繋がりを強くするという目的の更に裏で、ヒヨクとヒオが王子である事を知っているごく身近な廷臣たちによって秘密裏に『王子』の適性を測っていた。どちらの王子が表に立つにしろ『王子』の役目を務める者がアルファらしく振る舞う事が出来るか否かという適性試験だ。『義』の試験でトキとミスイを護身術で打ち負かしたものと、『礼』の試験で舞を舞ったものがヒヨクに課せられた試験だった。
番候補を募りはしたものの、ヒヨクもヒオも当然オメガとは番う事が出来ないので前もって候補の全員を落とすと決めてあった。
ここまでがヒヨクの知っている『王子の番』にまつわる話だ。
不意に外から風が吹きこんできて腕を擦る。と、トキが「もっとこっち」と言って手招きする。発情期は終わったが、トキの匂いが近くなるとそわそわするので敢えて少し距離を取って座っていたのだが、寒さには勝てずトキの傍に座り直して火に手を伸ばす。
温かい。
トキはとても真剣にヒヨクの話を聞いてくれた。意識したものではないかも知れないが、目をじっと見て、時折くれる相槌が妙に心地よい。
トキに少しずつ自分の境遇を話していくと、心に凝り固まっていたものが流れ出していって、何だか肩の荷が下りていくような気がした。実際には何も成し遂げられてはいないのだが、トキに話を聞いてもらえるだけで気が楽になっていくのだ。
「じゃあ王族にはアルファの世継ぎがいねぇのか。こう言ったらなんだけど、せめて王子はベータだって言っておいたら良かったんじゃねぇのか?」
「『嘘』は、もはや最初に誰が吐き始めたのか分からぬのだ。『アルファの王子』を誰かが渇望しておったのであろうな」
トキは難しい顔で黙ってしまった。閉口する気持ちはよく分かる。どこを見ても『嘘』の出口が無い。ヒヨクもヒオも、一生何かを偽り続けなくてはならないのだ。
「俺に出来る事は一つだ。ヒオが王位を継ぐのなら、ヒオが倒れては元も子もない。故、俺は『先生』を探さねばならぬのだ」
ヒオの病弱を治す。それしか王族に未来はない。
「ヒヨクは納得してんのか?」
「納得も何もそれしか道が無いからな」
オメガであり男であるヒヨクは陰茎と陰嚢を体に備えているが、同じオメガや女を孕ませる事はほとんど出来ないと考えて良い。そうすると子をなすためには自身が孕まなければならないが、大きくなっていく腹を隠して政務をこなすのはほとんど不可能だ。
オメガとして生まれた時点で王になれない事は定められていたも同然。が、ヒヨクは長子として生まれてしまった。不毛な争いを避けるためいかなる事情があれど王は長子が継ぐと決められているせいで、父はおいそれとヒヨクを処分してしまう事も、またヒオに位を譲るという決心も出来ずにいた。
それらが奇しくも、ヒヨクの記憶が消えてしまった事で解消されたのだ。これを怪我の功名と呼ばずして何と言おうか。
「何か、大変なんだな、王族って」
「力の抜ける事を申すな。お主の働きにもかかっておるのだぞ?」
「え、俺!?」
「そうだ。先生の手掛かりがどこにあるか分からぬ以上、時間の許す限り付き合ってもらうぞ。始めからそういう約束であったからな」
「したっけ、そんな約束」
穏やかな笑い声が、火に熱されてふわふわと室内を舞っている。トキの傍はとても居心地が良い。会話に気を遣わないからだ。
『先生』については道中どの邑でも彼の名を聞いて回る事は欠かさなかった。残念ながら今のところ収穫は無い。
カク・ス。それが宮廷きっての名医と名高かった二人の侍医だった男の名だ。生きていれば今年五十になる。
「カク先生はこう、細身でな? 少々暗い感じの人だった。俺もヒオも子供の頃は怖がって近寄ろうとせぬので、菓子で釣ろうとするような不器用な人だった」
「別に先生がどんな奴かなんて聞いてねぇんだけど」
「何故だ? 見た目の特徴くらい知っておかねばお主も探しようがないぞ」
「ほとんどヒヨクと一緒に行動してるんだし別に知らなくてもいいだろ」
何故かトキはツンとした態度になってそっぽを向く。本気で怒っている訳ではないと分かる、知らない話ばかりされて拗ねる子供のそれだ。
「何だ嫉妬しておるのか?」
「なっ、ちっが!」
「安心せよ。お主は……」
はて、自分はこの後何と言葉を続けるつもりだったのか。途端に分からなくなってヒヨクは言葉を引っ込める。すると僅かに黄色みがかった緑の瞳が不思議そうに覗き込んでくる。その瞬間、不意に一ヶ月ほど前に見た景色を思い出した。
トキは覚えていないようだが、トキと初めて出会ったのは王宮の塀を飛び越えたあの日ではない。あの日は王宮を抜け出していたヒオを探してあちこち回っていたのだが、それはさておき。
「トキ」
「ん?」
僅かに首を傾げてこちらを振り返る黒髪の青年を見上げる。ああ間違いないなとその顔を見て思う。
黒髪と緑の目。髪はどうやら候補戦に合わせて整えたようだ。短く刈り上げたのがよく似合っている。
顔は凹凸が目立つ男らしい作りをしており、骨っぽい感じの出っ張った額に頬、鼻は高くて唇は厚め。何より、太くて意思の強そうな眉毛が印象的だった。
トキと初めて会ったのは獬の邑近くのナラ林の中だ。一月前、カク先生を探して蛟の邑を訪れた事がある。邑は既に無くなってしまったと知っていたが、番候補戦を前にして気が急いていたのかじっとしておられず、今回とは違って西側から回る経路で馬を使った。今回馬を連れていない理由は今度こそカク先生の手掛かりを掴むまで戻らないと決めていたからだ。王子らしき人が邑の外に発ったらしいと噂されては困るため、王宮の馬を堂々と連れ出す事が出来なかった。
王子は当然双子だとは公表されていないが、兄弟が居るという事さえ疑心を生まないために隠されている。
いずれ、どちらかは王宮を出なくてはならず、それがヒヨクの方だと疾うに決しているならせめて最後にヒオの力になって去りたかった。その手伝いをしてくれるのがトキで良かったと思う。
トキをこの旅の同行者に選んだ決め手はシカと意見が一致したからだった。双子に対する偏見がなく、北の邑の出身であるトキなら案内役として相応しいだろうというそれらしい理由だった。だが今にして、単に自分が気に入っていただけなのではないかという気がしてくる。
候補戦の間は正体を隠す必要があったので多くは会話出来なかったが、それでも少ないやり取りの中で確かにヒヨクはトキが気になっていった。権力を乱用して各試験でトキを合格させるくらには、関心を持っていた。
あの時の自分の行動を褒めたい気分だ。おかげでこうしてトキという男を少しずつ知る事が出来ている。
カク先生を見付けたいというのはもちろん本当だ。だがそれと同じくらい、トキと旅をするという事がヒヨクの中で重要になっていた。
そこでヒヨクの思い出は一旦ぶつ切りになる。ちょうど丸太をいくつか輪切りにして、傷のあった場所や腐った場所を取り除いたような感じだ。
ヒヨクの記憶は一部が飛び飛びになっている。はっきりと抜けていると分かるのは十二歳の時、折れて落ちてくる木の枝で頭を切ってしまう大怪我をしたその前後だ。特に傷を負って昏睡から目覚めた後の一ヶ月あまりはかなり混濁しており今や大部分が抜けてしまっている。
他にも幼少期の記憶が飛び飛びで、ヒオと比較して記憶の整合性を図ると明らかに不足している事がいくつかあった。
ただ、ヒヨクにとっては実感が伴わないものでしかなく、記憶の一部が消えてしまった事をあまり気負ってはいなかった。傷跡は残ったが髪で隠れる位置だったし、何より病弱なヒオの事を守れたというその事実の方が誇らしいくらいだった。
しかし、この国を治める王という立場にいる父にとってはそんなに簡単な話ではなかった。
〈セイシン〉という国には、輪廻転生という考え方がある。生きて死んだ魂は再びこの大地に生まれ変わってくるという命の巡りをいうのだが、その魂は必ず前世の行いに左右されるというのである。善い行いをしたものは来世では苦労をしない。悪い行いをしたものは、その罪を贖うためにあらゆる苦難に遭遇する。その最たる例がセイシンでは双子であるとされていた。
双子は前世の善と悪の行いが分かたれて生まれてきた存在で、それぞれ吉凶を司る。要はどちらか片方は『凶い』を齎す災厄の子という意味であった。
古い時代のセイシンには国を二つに分けて争った歴史がある。王子が双子で生まれ、それぞれに王位を主張したのだ。双子を忌避する考え方はその歴史からきているのだろう。そして双子忌避の風習は都から始まり国の全ての邑にまで及んだ。
双子で生まれてきた子供は、語るのも恐ろしい様な方法で様々に『対処』されてきた。当然双子で生まれたヒヨクとヒオもまた、その存在を徹底して隠される事になる。表向きには王子は一人であるという事にしてしまったのだ。
体の弱いヒオは十歳になるまで空を窓越しにしか知らなかった。外に出るような事は乗馬の訓練に始まり全てヒヨクがこなしてきたおかげで、王宮の者のほとんどが王子といえばヒヨクの方を思い浮かべるだろう。負けん気が強いが純粋で、素直な性格の『アルファの王子』だ。座学を共に受ける事も許されず、教師は別々につけられた。
十一歳になるとヒオだけが療養のために南部へと移されたが、今にして思えば心も体も成長し始めた双子を王宮の一画に隠し続けるのは困難であると、『対処』に手を焼いていたのかも知れない。
こうしてヒオと一年ばかり離れて暮らした頃母がヒオに酷く会いたがり、療養の甲斐あって体調が安定していたヒオが一時的に都へ戻る事になった。
雪を見てみたい。
先に言い出したのはヒオだった。『先生』から色々な話を聞いて外の世界に強い憧れを抱いたヒオは雪だけに留まらず、セイシンの国全てを見てみたいとよく話した。
十二歳という年齢を大人は誰もが一様に『子供』だと評価するだろう。だけど当時のヒヨクたちは自分の事を大人だとは思わずとも、二人揃えば何でも出来ると思い込んでいた。それこそ大人と変わらないくらい出来ない事は無い、と。
夜半、寝所を抜け出して乗馬の訓練に使う馬を厩舎から勝手に連れ出した。『乕門』という王宮の外へ繋がる門の門衛には「幽霊が出たから来てほしい」と嘘をついてその場から離れさせ、その隙にヒオに馬を外へ運ばせた。虎の邑と外を繋ぐ楼門の門衛には迷子になったと言って同じように持ち場を離れさせた。
二人の計画は思い描いた通りに進み、まんまと邑の外へ抜け出した時は今までにないくらい心が踊りわくわくしていた事を今でもはっきりと思い出せる。
騙した門衛たちに対する罪悪感などまるでなく、馬に跨りひたすら駆けた。北へ、とにかく北へ。
どこかで見つかれば自分たちの冒険は終わってしまう。そう思うと睡魔と闘う事も苦ではなく、一日と半、馬を休ませながら北上し、そして現れた銀世界に二人はいっとき声もなく魅入られていた。
それから夢中でまっさらな雪の上を走り回り、雪の上に寝転がったり雪玉を作って投げてみたり、存分に雪の世界を楽しんだ。
そして。
ここから先はヒオに聞いた話だ。
疲れ切っていた二人は馬を繋いでおいた木のところへ戻り、都へ帰ろうという話をしていた。そこへ雪の重さに耐えきれなくなって折れた木が落ちてきて、ヒオを庇ったヒヨクは頭を強打し怪我をした。頭から血を流すヒヨクを抱きしめヒオはどうする事も出来ずにいたが、運良く通りがかった付近の邑の人間に助けられた。
都へ戻った後、七日七晩寝込んだあくる日の朝目を覚ましたが、そこからの一月ばかりの記憶は朧気だ。だが、父の言った言葉とその表情だけは、忘れない。忘れられない。
――ヒヨク、ヒヨク。良かった。お前は『兄さん』をよく守った。オメガだが、勇敢な子だ。
兄さん、という言葉の響きがはっきりしない頭に引っ掛かっていく。
頬を引き攣らせ、目の下に幾重ものクマをこさえ、ヒヨクの手を握る父の手は微かに震えていた。父は双子が生まれてきてからの十二年、ずっと頭を痛めてきたのだ。
――ベータのヒオならば、身籠って腹が膨れる心配もいらない。
それはつまり、この先王位をヒオに譲ると宣言したも同然である事に気付かないほど、父は憔悴しきっていた。幼心に父の苦慮を思うと、「どうして?」というごく純粋な疑問をぶつける事さえ憚られた。その疑問が父の決心を鈍らせ、また懊悩の日々が訪れると察せられたからだ。
――はい、陛下。俺は『兄上』を助けられた事を誇りに思います。しかしながら此度の事で兄を危険に遭わせたのもまた事実です。どうかお叱りを。
そんなような事を言ったと思うが、この辺りから再びヒヨクの記憶はあやふやになっていく。
日暮れの時刻、休憩小屋の竈につけた火に当たりながらトキと話していた。
「ヒオってやっぱベータなんだな」
「気付いておったか」
何でも知りたい事があるなら訊けというと、トキはおずおずと『王子の番』について訊ねてきた。ひとまずヒオはベータで番を作れない事を話したところだ。
番候補戦の結果が変わった事をトキの口から聞かされた時にはヒヨクも驚くしかなかった。いよいよ自分は王子ではいられなくなるのだと、そう思ったら体が芯から冷えていって、いっとき何も考えられなくなった。
番を募る触れを出す時これまで音沙汰のなかった王子の怪しさを払拭するために『療養を終えて王宮に戻った十八歳のアルファの王子』という体にしてはどうかと提案したのはヒヨクだった。
自分はとっくに王位からは遠のいていて、ヒオが上手く立ち回るための影武者のようなつもりでいたのに、いざ自分の存在を無視して事が決まっていくのを目の当たりにするとその衝撃は想像を超えていた。
ヒオの思惑を確かめようと『あめふり屋』にふらふらと足の赴くままに行ってしまったが、よくよく考えてみればツキヒがトキに事情を訊ねた以上は彼女も『自分が番になる』という事しか知らされていなかったのだろうと気付いた。
「情けないが、正直俺にもツキヒの事についてはよく分からぬのだ」
恐らく誰かがヒオを脅している。ツキヒは巻き込まれただけで、烏の邑の大人役と王宮に仕える誰かが手を組んで画策しているのだろう。
「ヒオはどうするつもりなんだ?」
「さてな。だがあのヒオの事だ、何か策は講じておるだろう」
ヒオは頭が良い。そして策を弄するのが好きだ。『先生』と手を組み侍女をよく騙して揶揄っていた。無論、子供が考えた事なので侍女は騙されてくれていたのだ。だがその性格は病と違って治るようなものでもなく、未だ健在である。廷臣らの企てによって偽の番を取らされたとて、ヒオならば上手く立ち回るだろう。
「後さ、何か言ってたよな? 候補戦は王子がアルファかどうか確かめるための試験でもあったって」
「そうだな。お主には話したのだったな」
番候補戦では、王宮と各邑の名士の繋がりを強くするという目的の更に裏で、ヒヨクとヒオが王子である事を知っているごく身近な廷臣たちによって秘密裏に『王子』の適性を測っていた。どちらの王子が表に立つにしろ『王子』の役目を務める者がアルファらしく振る舞う事が出来るか否かという適性試験だ。『義』の試験でトキとミスイを護身術で打ち負かしたものと、『礼』の試験で舞を舞ったものがヒヨクに課せられた試験だった。
番候補を募りはしたものの、ヒヨクもヒオも当然オメガとは番う事が出来ないので前もって候補の全員を落とすと決めてあった。
ここまでがヒヨクの知っている『王子の番』にまつわる話だ。
不意に外から風が吹きこんできて腕を擦る。と、トキが「もっとこっち」と言って手招きする。発情期は終わったが、トキの匂いが近くなるとそわそわするので敢えて少し距離を取って座っていたのだが、寒さには勝てずトキの傍に座り直して火に手を伸ばす。
温かい。
トキはとても真剣にヒヨクの話を聞いてくれた。意識したものではないかも知れないが、目をじっと見て、時折くれる相槌が妙に心地よい。
トキに少しずつ自分の境遇を話していくと、心に凝り固まっていたものが流れ出していって、何だか肩の荷が下りていくような気がした。実際には何も成し遂げられてはいないのだが、トキに話を聞いてもらえるだけで気が楽になっていくのだ。
「じゃあ王族にはアルファの世継ぎがいねぇのか。こう言ったらなんだけど、せめて王子はベータだって言っておいたら良かったんじゃねぇのか?」
「『嘘』は、もはや最初に誰が吐き始めたのか分からぬのだ。『アルファの王子』を誰かが渇望しておったのであろうな」
トキは難しい顔で黙ってしまった。閉口する気持ちはよく分かる。どこを見ても『嘘』の出口が無い。ヒヨクもヒオも、一生何かを偽り続けなくてはならないのだ。
「俺に出来る事は一つだ。ヒオが王位を継ぐのなら、ヒオが倒れては元も子もない。故、俺は『先生』を探さねばならぬのだ」
ヒオの病弱を治す。それしか王族に未来はない。
「ヒヨクは納得してんのか?」
「納得も何もそれしか道が無いからな」
オメガであり男であるヒヨクは陰茎と陰嚢を体に備えているが、同じオメガや女を孕ませる事はほとんど出来ないと考えて良い。そうすると子をなすためには自身が孕まなければならないが、大きくなっていく腹を隠して政務をこなすのはほとんど不可能だ。
オメガとして生まれた時点で王になれない事は定められていたも同然。が、ヒヨクは長子として生まれてしまった。不毛な争いを避けるためいかなる事情があれど王は長子が継ぐと決められているせいで、父はおいそれとヒヨクを処分してしまう事も、またヒオに位を譲るという決心も出来ずにいた。
それらが奇しくも、ヒヨクの記憶が消えてしまった事で解消されたのだ。これを怪我の功名と呼ばずして何と言おうか。
「何か、大変なんだな、王族って」
「力の抜ける事を申すな。お主の働きにもかかっておるのだぞ?」
「え、俺!?」
「そうだ。先生の手掛かりがどこにあるか分からぬ以上、時間の許す限り付き合ってもらうぞ。始めからそういう約束であったからな」
「したっけ、そんな約束」
穏やかな笑い声が、火に熱されてふわふわと室内を舞っている。トキの傍はとても居心地が良い。会話に気を遣わないからだ。
『先生』については道中どの邑でも彼の名を聞いて回る事は欠かさなかった。残念ながら今のところ収穫は無い。
カク・ス。それが宮廷きっての名医と名高かった二人の侍医だった男の名だ。生きていれば今年五十になる。
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「別に先生がどんな奴かなんて聞いてねぇんだけど」
「何故だ? 見た目の特徴くらい知っておかねばお主も探しようがないぞ」
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「何だ嫉妬しておるのか?」
「なっ、ちっが!」
「安心せよ。お主は……」
はて、自分はこの後何と言葉を続けるつもりだったのか。途端に分からなくなってヒヨクは言葉を引っ込める。すると僅かに黄色みがかった緑の瞳が不思議そうに覗き込んでくる。その瞬間、不意に一ヶ月ほど前に見た景色を思い出した。
トキは覚えていないようだが、トキと初めて出会ったのは王宮の塀を飛び越えたあの日ではない。あの日は王宮を抜け出していたヒオを探してあちこち回っていたのだが、それはさておき。
「トキ」
「ん?」
僅かに首を傾げてこちらを振り返る黒髪の青年を見上げる。ああ間違いないなとその顔を見て思う。
黒髪と緑の目。髪はどうやら候補戦に合わせて整えたようだ。短く刈り上げたのがよく似合っている。
顔は凹凸が目立つ男らしい作りをしており、骨っぽい感じの出っ張った額に頬、鼻は高くて唇は厚め。何より、太くて意思の強そうな眉毛が印象的だった。
トキと初めて会ったのは獬の邑近くのナラ林の中だ。一月前、カク先生を探して蛟の邑を訪れた事がある。邑は既に無くなってしまったと知っていたが、番候補戦を前にして気が急いていたのかじっとしておられず、今回とは違って西側から回る経路で馬を使った。今回馬を連れていない理由は今度こそカク先生の手掛かりを掴むまで戻らないと決めていたからだ。王子らしき人が邑の外に発ったらしいと噂されては困るため、王宮の馬を堂々と連れ出す事が出来なかった。
王子は当然双子だとは公表されていないが、兄弟が居るという事さえ疑心を生まないために隠されている。
いずれ、どちらかは王宮を出なくてはならず、それがヒヨクの方だと疾うに決しているならせめて最後にヒオの力になって去りたかった。その手伝いをしてくれるのがトキで良かったと思う。
トキをこの旅の同行者に選んだ決め手はシカと意見が一致したからだった。双子に対する偏見がなく、北の邑の出身であるトキなら案内役として相応しいだろうというそれらしい理由だった。だが今にして、単に自分が気に入っていただけなのではないかという気がしてくる。
候補戦の間は正体を隠す必要があったので多くは会話出来なかったが、それでも少ないやり取りの中で確かにヒヨクはトキが気になっていった。権力を乱用して各試験でトキを合格させるくらには、関心を持っていた。
あの時の自分の行動を褒めたい気分だ。おかげでこうしてトキという男を少しずつ知る事が出来ている。
カク先生を見付けたいというのはもちろん本当だ。だがそれと同じくらい、トキと旅をするという事がヒヨクの中で重要になっていた。
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こちらは、『女王蜂』の一真と朔夜の中学生〜高校生にかけての物語です。
ストーリー重視のため、過激な描写はあまり(ほとんど?)ありませんが、中学生×中学生のシーンがありますのでご了承ください。
また、こちらの更新は不定期になりますので、もし興味を持って頂けましたらお気に入り登録をしてくださると嬉しいです。
よろしくお願い致します。
※表紙は『かんたん表紙メーカー』にて作成しています。
泡にはならない/泡にはさせない
玲
BL
――やっと見つけた、オレの『運命』……のはずなのに秒でフラれました。――
明るくてお調子者、だけど憎めない。そんなアルファの大学生・加原 夏樹(かはらなつき)が、ふとした瞬間に嗅いだ香り。今までに経験したことのない、心の奥底をかき乱す“それ”に導かれるまま、出会ったのは——まるで人魚のようなスイマーだった。白磁の肌、滴る水、鋭く澄んだ瞳、そしてフェロモンが、理性を吹き飛ばす。出会った瞬間、確信した。
「『運命だ』!オレと『番』になってくれ!」
衝動のままに告げた愛の言葉。けれど……。
「運命論者は、間に合ってますんで。」
返ってきたのは、冷たい拒絶……。
これは、『運命』に憧れる一途なアルファと、『運命』なんて信じない冷静なオメガの、正反対なふたりが織りなす、もどかしくて、熱くて、ちょっと切ない恋のはじまり。
オメガバースという世界の中で、「個」として「愛」を選び取るための物語。
彼が彼を選ぶまで。彼が彼を認めるまで。
——『運命』が、ただの言葉ではなくなるその日まで。
ヒートより厄介な恋をα後輩に教え込まれる
雪兎
BL
大学三年のΩ・篠宮湊は、何事も理屈で考えるタイプ。
ヒート管理も完璧で、恋愛とは距離を置いてきた。
「フェロモンに振り回されるのは非合理的」
そう思っていたのに――。
新学期、同じゼミに入ってきた後輩は、やたら距離の近いα・高瀬蒼。
人懐っこくて優秀、なのに湊にだけ妙に構ってくる。
「先輩って、恋したことないでしょ」
「……必要ないからな」
「じゃあ俺が教えますよ。ヒートより面倒なやつ」
余裕のあるα後輩と、恋に不慣れなΩ先輩。
からかわれているはずなのに、気づけば湊の心は少しずつ乱されていく。
これは、理屈ではどうにもならない
“ヒートより厄介な恋”を教え込まれる物語。
【完結】Ωになりたくない僕には運命なんて必要ない!
なつか
BL
≪登場人物≫
七海 千歳(ななみ ちとせ):高校三年生。二次性、未確定。新聞部所属。
佐久間 累(さくま るい):高校一年生。二次性、α。バスケットボール部所属。
田辺 湊(たなべ みなと):千歳の同級生。二次性、α。新聞部所属。
≪あらすじ≫
α、β、Ωという二次性が存在する世界。通常10歳で確定する二次性が、千歳は高校三年生になった今でも未確定のまま。
そのことを隠してβとして高校生活を送っていた千歳の前に現れたαの累。彼は千歳の運命の番だった。
運命の番である累がそばにいると、千歳はΩになってしまうかもしれない。だから、近づかないようにしようと思ってるのに、そんな千歳にかまうことなく累はぐいぐいと迫ってくる。しかも、βだと思っていた友人の湊も実はαだったことが判明。
二人にのαに挟まれ、果たして千歳はβとして生きていくことができるのか。
恋した貴方はαなロミオ
須藤慎弥
BL
Ω性の凛太が恋したのは、ロミオに扮したα性の結城先輩でした。
Ω性に引け目を感じている凛太。
凛太を運命の番だと信じているα性の結城。
すれ違う二人を引き寄せたヒート。
ほんわか現代BLオメガバース♡
※二人それぞれの視点が交互に展開します
※R 18要素はほとんどありませんが、表現と受け取り方に個人差があるものと判断しレーティングマークを付けさせていただきますm(*_ _)m
※fujossy様にて行われました「コスプレ」をテーマにした短編コンテスト出品作です
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