僕を閉じ込めてしまったあなたがくれた青色の櫂

沖弉 えぬ

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 この頃、セラフィーノが部屋にやってくる頻度が下がっていた。以前は毎朝必ず「おはよう」と言いに来てくれたのに、三日に一度、誰の声も聞かずに過ごさなくてはならない日があった。それでも風呂に入りたいという希望と退屈しのぎの本だけは、少年たちが世話をしてくれている。おかげで狂いそうになるその瀬戸際で、ずっとつま先立ちをしているような感覚だ。背中を軽くトンと押されたら、レオーネは思考を放棄して何者でもない人間になってしまうだろう。
 ノックがして、飼い主の帰りを聞きつけた犬のように素早くベッドから立ち上がる。
「おはよう」
 あの日から、レオーネが「僕はレオーネではない」と言った日から、セラフィーノは極力名前を呼ばなくなった。笑顔も減った。喧嘩が原因の一つにあるのは確実だが、どうやらそればかりではない事は、彼の顔色を見れば一目瞭然だった。
「眠れていますか?」
 セラフィーノが短く瞬きをして、溜め息のような息を吐き出して笑う。安心させようとしてくれているのかも知れないが、すっかり赤みの消えた頬にえくぼが深く刻まれるせいで余計に疲れて見えるだけだ。
「弱音は吐けないさ。お前――君を、ここから出してやるためにも、俺は俺のすべき事をしない、と……」
「セラフィーノさん!」
 話しながらぐらん……と大きくセラフィーノの体が傾いた。咄嗟に腕を取って支えようとしたが上手くいかず、二人してベッドに倒れ込む。
「大丈夫ですか、セラフィーノさん?」
「大丈夫、大丈夫だ。眠いだけだよ」
「だったら眠って下さい。僕のベッドを使って構いませんから」
 週に一度少年たちがシーツを変えてくれる。だからきっと匂いはもうさほど気にならないはずだ。
 セラフィーノの腕から抜け出して、首元のボタンを一つ外し、足元に屈んで彼の靴を脱がせる。
「君がそんな事をする必要は……」
「いいんです。何かさせて下さい。体が鈍ってしょうがないんです」
 おどけて言って苦笑してみせると、ふ、と眉間から皺が消え、セラフィーノは目を閉じた。目の周りの血行不良ぶりが痛ましい。
 セラフィーノは自分で足を持ち上げベッドに横になった。毛布を掛けてやると、彼の顎の下辺りに小さな傷があるのを見つける。髭を剃ろうとして剃刀で切ってしまったのだろうか。
 なるべく足音を立てないよう静かに扉に近付き少年を呼ぶ。
「救急箱……えっと、消毒薬とガーゼとかそういうのある? セラフィーノさんの傷の手当てをしたくて」
「えっ、でも」
 ちら、と不安げに少年がレオーネ越しにセラフィーノを見遣る。少年の視線を追って振り返ると、会話が聞こえていたのかセラフィーノが肘から先だけを立ててひらひらと手を振った。
「君の代わりに俺が見張るからってさ」
 実際は救急箱なんて要らないという意味だろうと思ったが、少年はレオーネの言い分で納得してくれた。パタパタと軽い足音が廊下の向こうに消えていく。
 レオーネは部屋に一脚しか無い椅子をベッドの傍まで持っていき腰掛ける。
「……逃げる好機じゃないか」
「逃げません」
 目を閉じたままセラフィーノが言う。淡々としていて、どんなつもりなのかは分からない。
「あなたが僕への嫌がらせで閉じ込めている訳ではないんだろうと思うから」
 ぐ、とセラフィーノの瞼に力が込められる。痛みを堪えるような仕草に見え、まさか睡眠不足は嘘かと不安に駆られたが、セラフィーノはレオーネの視線から逃れるように寝返りを打ってしまう。
「君に……謝らなくてはけない事があるんだ」
 セラフィーノの声が壁に跳ね返ってくる。目を見て言ってくれないせいか、謝ると言いながらも彼はそうするのが不本意なのかも知れないと感じた。
「君に、迫っただろう。何度か。君の清拭を手伝った時や、この間も、そこのビューローのところで……」
 その言葉の続きは、何となく予想出来ていた。
「頼む、忘れてくれ。あれは、君に迫った訳じゃなかった」
「……『レオーネ』に?」
「――そうだ」
 喉を引き絞って無理矢理出したような声だった。「レオーネ」が戻らない事への悲嘆が隠しきれていない。青空の下で力強く抱き締めて、歓喜に咽び泣くセラフィーノの声が耳奥に蘇る。
 セラフィーノは「親しい友人だと思ってくれ」と言っていた。本当に彼にとって「レオーネ」は単なる友人だったのだろうか?
「セラフィーノさんは、『レオーネ』が好きだったんですか?」
 呼吸を整えるような間が空いた。
「……無二の、親友だった」
 暫くの間、セラフィーノの震える呼吸だけを聞いていた。すぐにそれは寝息へと変わる。体の上に乗せたセラフィーノの腕が呼吸に合わせて上下するのを見ながら、気付けばレオーネは泣いていた。
 ああ、可哀想に。「レオーネ」が悲しんでいる。きっと「レオーネ」こそが、セラフィーノを好きだったのだ。それをセラフィーノは知っていたから、「レオーネ」に迫ってみせる事で何とか記憶を取り戻せないかと試したに違いない。
 ボタボタと笑ってしまうほど溢れてくる涙を拭い笑ってやろうとしたが、「レオーネ」の体は笑顔が下手くそだった。声を上げて泣きそうになって、ベッドの端に顔を伏せた。
 体は「レオーネ」のもの。知識は「僕」のもの。
 では、心は?
 セラフィーノの笑顔に絆されたのは誰で、裸を見られるのが恥ずかしかったのは誰で、キスをされそうになってドキドキしたのは誰だった?
(僕は……――)
 売り言葉に買い言葉のようにして自分はレオーネではないと訴えてしまった事を今更後悔していた。記憶が戻らなかろうと「僕」ではなく「記憶の戻らないレオーネ」であり続ければ、きっとセラフィーノは「レオーネ」に優しい嘘を吐き続けてくれたのではないか。
 彼がこうしてレオーネを部屋に閉じ込めているのだって、レオーネのためにほかならないのだ。だから、今が逃げる好機だと教えてくれた。
 いっそ、彼の前から居なくなったほうがお互いのために良いのかも知れない。セラフィーノは自分を見て、記憶の戻らない親友を思い出さずにはいられないだろうし、自分は自分越しに「レオーネ」を求め続けられる苦しさに耐えなくてはならない。
 セラフィーノが起きたら相談しようと決める。もはやセラフィーノはレオーネの何かを背負い続ける必要はない。何故なら「僕」は「レオーネ」ではないのだから。

 セラフィーノと一緒になって短い間眠ってしまった。目が覚めるとテーブルに留め具がついた金属の箱が載せられており、中には小瓶がいくつかと清潔そうな布が入っていた。
 ぴっちりと閉じた扉を見る。後でお礼を言わなくては。
 日が暮れる頃、燭台に火を灯しているとセラフィーノが起きてきた。
「よく眠れましたか?」
 レオーネの姿を認め眩しそうに目を細めた表情には安堵が浮かぶ。
「……居てくれたんだな」
「はい」
 居てくれた、という言い回しにほっとしてしまう。逃げなかったんだな、と言われていたらきっと傷付いていた。
 半身を起こしたセラフィーノは大分顔色がよくなっていた。寝ぼけ眼に寝癖がついていて、いつもきちんと身なりを整えているセラフィーノの隙のある姿をつい可愛いと思ってしまう。
「夕方か。随分寝てしまったな。ベッドを奪ってしまってすま――」
「セラフィーノさんは謝り過ぎです」
「わるか、いや、ありがとう」
「どういたしまして」
 ベッドに腰掛けるよう言って、顎の下にある小さな傷を消毒していく。
「あれ? 手にも傷がありますね」
「これくらい大した事はない」
 小指の爪ほどもない小さな傷だが、傷は傷だ。
「こういうところから菌が入らないとも限りません。せっかくアルコールがあるんですから、こっちも消毒してしまいましょう」
 引っ込めようとしたセラフィーノの手を捕まえて、アルコールを含ませたガーゼと呼ぶには目が細かすぎる布を押し当てる。沁みるのかぴくっと眉毛が跳ね上がった。
「初めは大人しくてしおらしい奴だと思っていたが、君は案外押しが強いんだな」
 セラフィーノの反対の手が顔に伸びてきて、目元を擦られた。涙の跡が残っていた事に気付き、ぱっと顔を伏せる。
「それに我慢強い」
「僕は、別に」
「もう少し待っていてくれ。君が安全に外に出られるように、俺が必ずしてみせるから」
 安全に?
 つまり、外は危険という事なのだろうか。それともレオーネにとって危険なのか。
「それにしても、よくアルコールなんて見つかったな」
「これは、見張りの彼が持ってきてくれたんです」
「マルコが?」
「彼はマルコっていうんですね」
「そうだが、少年たちと話をしないのか?」
「ええ……話し掛けても旦那様の許しがないと、と言ってみんなあまり口を利いてくれませんでした」
 セラフィーノがあんぐりと口を開けて呆れていた。
「それじゃあ君は今までここに誰とも話さず黙って閉じ籠もっていたのか!?」
 熱が入ると肩を掴むのは彼の癖らしく、すぐに気付いて解放する。そしてまた謝りそうになったので、む、と口を一文字に結んで軽く睨むようにすると、セラフィーノは頭を掻いた。律儀で誠実な性分がそうさせてしまうのだろう。
「セラフィーノさんが話しに来てくれましたよ」
「朝だけだ! 最近は来られない日だってあったのに……」
 セラフィーノは「信じられない」と嘆くように言って顔を片手で覆った。
「彼らはこの屋敷の子、という感じじゃありませんよね?」
「俺が雇っている孤児だ。下町に隠し酒場があって、そこで屯していたのを引き抜いてきた」
「隠し酒場……」
 耳慣れない言葉をオウム返しにすると、幾分元気を取り戻したセラフィーノが訊ねた。
「酒は好きか?」
「いえ、あまり飲んだ記憶がなくて。思い出せないだけかも知れませんが」
「では全てが終わったら、共に行こう。今は時世が悪くて酒場は表向きに営業が出来ないが、この辺りは酒が美味い事で有名なんだ」
「行ってみたいです。でも、この間は、今じゃなくてもいいからって言った僕に何も答えてくれなかったのに、どうして急に?」
「それは、君を心配して……いや、結局のところ信用しきれていなかったのかも知れないな。君の事も、俺自身の事も」
「セラフィーノさん自身、ですか?」
「君を外に出してやれる未来を俺が作り出せる自信が無かった」
 セラフィーノは膝の上で拳を握りしめていた。
 そんな彼の様子を見ていると、胸を抓まれているような感覚になって、ああ、と声が漏れていきそうになった。
 この家をすぐにでも出ていくべきだと思っていた気持ちが呆気なく崩れていくのが分かる。やっぱり彼の傍に居たいと思ってしまう。
 でも「僕」にその権利は果たしてあるのだろうか。
「セラフィーノさんは、どうして僕が『レオーネ』ではないと言ったのを、信じてくれるんですか?」
 セラフィーノはあの喧嘩以降、レオーネと呼ばず、気安く「お前」と呼ぶのをやめていた。改めて線引きされたようで寂しくもあるが、彼なりの誠意なのだと思うと、セラフィーノを好ましいと思う一方で疑問も湧いた。
「レオーネ」が記憶喪失なのではなく、「レオーネ」の中にもう一人別の人間が居て、そいつが記憶喪失になっている。これが「僕」に起きている真実だ。だがセラフィーノにはそんな話を一度もしなかったし、親友がそんな訳の分からない状況になっているという発想自体、普通は出てこないものだろう。
「勘としか言い様がないな。目覚めた君を見た瞬間、『違う』と感じた」
「……どの辺りが?」
「レオーネを感じなかった。話し方、目線の動かし方、表情の作り方、他にも色々。ほとんど無意識に違う人間だと感じたんだ」
「無意識に……」
 それほど彼らは長く、そして近くに居たという証だ。本能とも呼ぶべきところで、彼はレオーネの中の他人を感じ取っていた。
 とても「レオーネ」には勝てそうにないと思った。「僕」では「レオーネ」の代わりになれないし、二人の関係を越える事も出来そうにない。
「君は? 名を教えてくれないか?」
 セラフィーノは明るく問い掛けた。もう親友は戻らないのに、彼が守りたかったはずの親友ではないのに、レオーネではない違う人間の存在を認めようとしてくれる。それなのに、彼に聞かせるべき答えを持たない事が悔しい。
「思い出せないんです。僕は僕が何者か分かりません。ここではない『世界』で生きてきた事は確かです。だから僕はレオーネではないと確信を持っています。でも僕は、一体誰、なんでしょうか……」
 呼んでもらえる名が無い事が、こんなにも辛い事だと思わなかった。
「名前が分からない……? では君はずっと自分が誰かも分からず、その事を俺にも黙って、一人でレオーネと呼ばれる事に甘んじていたのか?」
「そう、なりますね。ごめんなさい、僕もあなたの事を責められない。ずっと騙してたんです」
「馬鹿言うな。謝る必要なんて無い」
「だって、僕は、レオーネじゃ」
 こみ上げてくるツンとした鼻の痛みに負けて、目元を手で覆った。もう泣きたくなかった。
「俺のせいだな。俺があまりにもレオーネを求めて泣くもんだから、憐れになったんだな」
「それは……最初は、確かにそんな事も思ったかも知れません。でも僕は多分、自分でも気付かないうちにもっと狡い事を考えていたんです」
 彼の言う通り、「レオーネ」ならば、あなたに求めてもらえる、と。
「狡い? それは何だ? 望む事があるなら教えてくれ。俺は君に酷い事をしてしまった。何とかして償いたい」
「あなたが償うというなら僕だって償いが必要です」
「そんなものは不要だ。俺は君がレオーネではなくとも助けたいと思っている」
 必死になったセラフィーノはいつもの如くレオーネの肩を掴もうとしたが、直前になって気付いてやめ、代わりにレオーネの手を取って握りしめた。彼の真心があたたかさとなってレオーネの中に沁み込んでくる。
「では、こうしましょう。僕に名前を付けて下さい。あなただけが知っている、あなただけが呼ぶ僕の名前を下さい」
 思ってもみない事だったのだろう、青い瞳を驚きに瞬かせる。
「俺で、いいのか?」
「あなたがいいんです。自分で付けようにもこの世界の人たちの名付け方が僕には分かりませんから」
 後半は、自分の気持ちに気付かれないための取ってつけた言い訳だ。
 セラフィーノは随分長い時間悩んでいた。やがて小さく「レモ」と呟いた。
「レモン?」
「いや、レモ、櫂という意味だ」
「櫂ですか? 船を漕ぐための?」
「そうだ。皮肉に受け取ってくれるなよ? 全てが済んだら自由の海原に漕ぎ出してほしいと思ったんだ」
「自由……いいですね。レモ、可愛らしい響きで気に入りました。ありがとう、セラフィーノさん」
 櫂――レモ。胸の内で何度も唱えてみる。うん、馴染む。
「なぁレモ。俺の頼みも一つ聞いてくれないか?」
「ええ、もちろんです」
「俺をセラフと愛称で呼んでほしい」
「それはレオーネが?」
「いや、家人に友人たち、親しい者はみんな俺をセラフと呼ぶ。セラフィーノでも構わないが、愛称の方が近い感じがするだろう?」
「僕なんかがいいんですか? 僕は」
「レオーネではない、か? それとも騙していた、か? それを言うなら俺だってレモをずっとここに軟禁している。お互い様というやつだ。それに」
「それに?」
「俺はレモと、親しくなりたい」
 そう言って、面映ゆそうに笑うのだ。
 これでは断る理由が見つかりそうにない。
「はい、では――セラフ」
 釣られてレモも照れくさくなってくる。
「うん。これからそう呼んでくれ」
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