ハンガク!

化野 雫

文字の大きさ
上 下
32 / 161

第三十二話

しおりを挟む
 それでも僕はその事をすぐに忘れた。いや、忘れようとした。それはまるで思い出してはいけない事の様に。記憶の奥に何重にも鎖を掛けて封印し直そうとした。

 でもただ一つ、どうしても気になる事があった。

 何故、板額が僕の目の前で『かつての僕』を再現しているのか? と言う事だ。

 いや、それは単に僕の考えすぎなのかもしれない。そう、単なる偶然なのだと考える方が自然だ。だって、板額はその頃の僕を知らないはずなのだ。僕の記憶に板額の姿はない。これは紛れもない事実なのだから。

 それでもだ。何故か僕には板額があえて『かつての僕』を演じている様に思えてならなかった。


 僕のそんな想いをよそに、僕の席で僕の意思を無視して、板額を中心に行われるダベリングタイムは僕のクラスの恒例行事となって行った。

 その中で僕はある日、ふと気がついた。

 僕の周りに居る連中がみんな楽し気に話をしている中、一人だけ雰囲気が違う人間がいた。

 それは他でもない『委員長』こと緑川だった。

 このダベリングタイムが始まるまでは、僕の横にある自分の席に座ったまま緑川は、僕に良くちょっかいを出して来た。そして今も緑川は、ダベリングに集まった連中に紛れる様にして僕の隣の席に座っている事が多い。でも、今と前とでは緑川の雰囲気が明らかに変わっていたのだ。

 前の緑川は、一人自分の世界に引きこもってる僕を見て、意地悪するかのようにちょっかいを掛けていた。口では引きこもる僕をたしなめながらも、どこか僕をからかう緑川は楽しげだった。

 ところが今の緑川は、何だかつまらなそう……いや、不機嫌そうな感じなのだ。

 基本的に緑川は社交的な方だ。クラスの人間とも積極的にコミュニケーションを取ろうとする方だ。そして誰もが認めるクラスのまとめ役で、二つ名が示すように実際に『学級委員長』もしているほどだ。それが僕の席で板額を中心としたダベリングが始まってからは、その場には居ても積極的に話に加わろうとしていない様に僕には見えた。話に加わらないどころか、迷惑そうにしている様にも見える。もしうるさくて迷惑なら、その場を離れれば良いじゃないかと僕は思った。しかし、緑川は何故か自分の席、つまり僕の隣から動かなかった。

 緑川の性格なら、これだけ賑やかになれば自分からその輪に入ってゆくのが自然だと僕は思った。しかし、緑川は板額を中心に楽し気にダベる輪に決して入ろうとはしなかった。これが緑川と板額がクラスのポジション的に被る所があるが故に反目しているなら、まだ理解できる。しかし、板額によると緑川を『ともえ』と呼ぶほど仲が良くなったと言っていた。それなら普通は、その板額を中心としてる輪がすぐ傍にあるなら、友人となった緑川が入らない方がおかしいのだ。

 その上、緑川は、僕の席でダベリングが始まってからは僕にちょっかい出す事もなくなった。普通に考えれば、緑川以外に誰も寄り付かなかった僕の周囲が、こんなに大勢がたむろする場所に変わったこの機会をあの緑川が逃すはずはないはずだ。こんな雰囲気あるならば緑川は、ここでボッチの僕をあえていじって、周りの人間の勢いを借りて一気に僕が作ってる壁をぶっ壊そうするんじゃないかと。緑川は正義感が強いと言うか、面倒見が良いと言うかそう言う奴だ。僕の様な少しひねくれた人間にとっては少しばかりお節介すぎる奴でもあるのだ。その緑川が僕にちょっかい出す事を一切しなくなったのだ。

 自分の事以外にはあまり興味が無い僕だったが、中学時代から一緒で僕になにかと絡んでくる緑川の事だけはちょっと気になる所があった。まあ、もちろん、緑川が板額並みに美人だってのも理由の一つではある。それはこの年頃の男の子なら仕方ない事だ。

 これは余談だが、緑川自身は自分を美人とは思ってない様だ。それは嫌味な謙遜ではなく、実際にそう思ってるらしい。その証拠に、お化粧はまったくしない。それだけでなく、髪型や服装、持ち物など全部実用最優先である。しかし、周りの者から見れば、今の状態で十二分に美人なら、もっとおしゃれをすればどれだけ美人になるか想像も出来ない程だ。たぶん、誰もが認める板額とタメを張る、いやひょっとすると板額以上の美人になるかもしれない。
しおりを挟む

処理中です...