4 / 9
4 銭
しおりを挟む
そんな軍師の噂を意識し始めてから何日か後のことだ。早朝、野営地の近くにある小川に水を求めて近づくと、楊然が立っていた。見知らぬ男と何か話している。近くの村人だろうか。彼と比べるまでもなく、ずいぶんと背が高い。
「よう、早いなあ」
高鵬は、近づきながらそう声を掛けた。
「伍長さん」
楊然はいつものように朗らかな声を出したが、一緒にいる男の方は、伍長と聞いたせいなのだろうか、少し脅えるような目つきになった。
「この近くの者かい」
その態度を無視して尋ねた。
「へい」
やはり男の雰囲気は硬い。
「伍長といっても、お役人じゃない。野良仕事していたところを引っ張ってこられただけだ」
高鵬は、先回りして言いわけした。
「はあ」
先回りになっていなかったようだ。どうしてそんなことを自分に話すのだろう、という顔になっている。
ふと気になって別のことを言った。
「羨ましいな。この辺の村の者は、戦に駆り出されなかったわけだ」
「はあ」
話題を変えてみたが変化はない。
どうしたわけか嫌われたようだ、と思い、水を汲んで、その場を離れた。
すると、楊然が後から追ってくる。
「待ってくださいよ、伍長さん」
「どうした」
「見逃してくださいな」
先ほどの様子とは違い、楊然はずいぶん慌てている。
「何をだ」
少し間があった。
「そんなあ、勘弁してくださいよ」
「だから、何を勘弁するのだ」
「そういうことですかい」
卑屈な目が、にわかに険を帯びた。
「……」
高鵬には、楊然が何を言っているのか、まったく理解できなかった。
「どこかへ引っ立てるでも、有無を言わさず斬るでもない。かといって見逃してくれるでもねえってことは、ほかにありゃあしませんやね。伍長さんも、同じ人間てことだあ」
楊然は下卑た笑いで、息のかかるほどに近寄ると、何かを高鵬の手に握らせた。
銭だった。
その銭の感触を確かめた瞬間、高鵬は事情を理解するよりもまず、しまった、と感じた。感じはしたが、どうして良いのか分からない。彼がただじっとしていると、楊然の方が反応した。
「何でい、足りねえって言うのかい。伍長さん、ずいぶんじゃねえか」
目も歯も剥いて、挑んできた。
「いや、そんなことはない」
反射的に高鵬はそう答えた。そもそも銭を要求したわけではない、という意味に違いなかったが、誰が聞いたとしてもそういう風には聞こえない。
「なら、いいんですよ」
楊然は、さっと身を引くと、いつもの笑顔に戻っていた。
しまったという気持ちが重なった。すぐに手の中のものを突き返せば、まだ間に合うのではないか、と考える間もなく、楊然は姿を消していた。
その日は眠りに就くまで、手の中に銭の感触が消えなかった。楊然の恐ろしい表情と笑顔も、脳裏を交互に支配しては彼を苦しめた。
翌朝、楊然の態度は以前とまったく変わらなかった。
楊然は、一体どんな後ろ暗いことがあって自分に銭を寄越したのだろうか、と前日来考えていることをまた考えてみた。
もしかすると、禁制の物でも扱っているのだろうか。塩や一部の薬草などは、個人で勝手に商ってはいけないことになっている。それらを裏で取り引きして、荒稼ぎをしている者もあると、高鵬は噂で聞いたことがあった。
しかし、楊然が大量に品物を所持しているようには思えない。そんな物は、少しだけ売ったり買ったりしても、大した儲けにはならないだろう。ましてや戦の最中に、危険を冒してまで、少量を商いするために足を運ぶ者などあるだろうか。かなり無理がある。
そこまで考えて、彼は思い当たった。戦場で、かさ張らないで金になると言えば情報だ。それなら危ない思いをしてでも取り引きしようという者がいるはずだ。
が、最下層の歩卒ごときの情報が、果たして売り物になるのだろうか。もしかしたら楊然の個性が関係あるのかも知れん。あのよく回る舌で、自分自身を売り込んだのだとしたら、案外敵方も、使える、と考えるのではないだろうか。それに、間諜は一人や二人ではないだろう。大勢いる中の一人が、あの小男である、ということなら納得できるような気がしてきた。伍長である高鵬から得る情報だけではなく、いろいろな場所に顔を出し、さまざまな人間に取り入って、情報をかき集めていることもありそうな話だ。
「よう、早いなあ」
高鵬は、近づきながらそう声を掛けた。
「伍長さん」
楊然はいつものように朗らかな声を出したが、一緒にいる男の方は、伍長と聞いたせいなのだろうか、少し脅えるような目つきになった。
「この近くの者かい」
その態度を無視して尋ねた。
「へい」
やはり男の雰囲気は硬い。
「伍長といっても、お役人じゃない。野良仕事していたところを引っ張ってこられただけだ」
高鵬は、先回りして言いわけした。
「はあ」
先回りになっていなかったようだ。どうしてそんなことを自分に話すのだろう、という顔になっている。
ふと気になって別のことを言った。
「羨ましいな。この辺の村の者は、戦に駆り出されなかったわけだ」
「はあ」
話題を変えてみたが変化はない。
どうしたわけか嫌われたようだ、と思い、水を汲んで、その場を離れた。
すると、楊然が後から追ってくる。
「待ってくださいよ、伍長さん」
「どうした」
「見逃してくださいな」
先ほどの様子とは違い、楊然はずいぶん慌てている。
「何をだ」
少し間があった。
「そんなあ、勘弁してくださいよ」
「だから、何を勘弁するのだ」
「そういうことですかい」
卑屈な目が、にわかに険を帯びた。
「……」
高鵬には、楊然が何を言っているのか、まったく理解できなかった。
「どこかへ引っ立てるでも、有無を言わさず斬るでもない。かといって見逃してくれるでもねえってことは、ほかにありゃあしませんやね。伍長さんも、同じ人間てことだあ」
楊然は下卑た笑いで、息のかかるほどに近寄ると、何かを高鵬の手に握らせた。
銭だった。
その銭の感触を確かめた瞬間、高鵬は事情を理解するよりもまず、しまった、と感じた。感じはしたが、どうして良いのか分からない。彼がただじっとしていると、楊然の方が反応した。
「何でい、足りねえって言うのかい。伍長さん、ずいぶんじゃねえか」
目も歯も剥いて、挑んできた。
「いや、そんなことはない」
反射的に高鵬はそう答えた。そもそも銭を要求したわけではない、という意味に違いなかったが、誰が聞いたとしてもそういう風には聞こえない。
「なら、いいんですよ」
楊然は、さっと身を引くと、いつもの笑顔に戻っていた。
しまったという気持ちが重なった。すぐに手の中のものを突き返せば、まだ間に合うのではないか、と考える間もなく、楊然は姿を消していた。
その日は眠りに就くまで、手の中に銭の感触が消えなかった。楊然の恐ろしい表情と笑顔も、脳裏を交互に支配しては彼を苦しめた。
翌朝、楊然の態度は以前とまったく変わらなかった。
楊然は、一体どんな後ろ暗いことがあって自分に銭を寄越したのだろうか、と前日来考えていることをまた考えてみた。
もしかすると、禁制の物でも扱っているのだろうか。塩や一部の薬草などは、個人で勝手に商ってはいけないことになっている。それらを裏で取り引きして、荒稼ぎをしている者もあると、高鵬は噂で聞いたことがあった。
しかし、楊然が大量に品物を所持しているようには思えない。そんな物は、少しだけ売ったり買ったりしても、大した儲けにはならないだろう。ましてや戦の最中に、危険を冒してまで、少量を商いするために足を運ぶ者などあるだろうか。かなり無理がある。
そこまで考えて、彼は思い当たった。戦場で、かさ張らないで金になると言えば情報だ。それなら危ない思いをしてでも取り引きしようという者がいるはずだ。
が、最下層の歩卒ごときの情報が、果たして売り物になるのだろうか。もしかしたら楊然の個性が関係あるのかも知れん。あのよく回る舌で、自分自身を売り込んだのだとしたら、案外敵方も、使える、と考えるのではないだろうか。それに、間諜は一人や二人ではないだろう。大勢いる中の一人が、あの小男である、ということなら納得できるような気がしてきた。伍長である高鵬から得る情報だけではなく、いろいろな場所に顔を出し、さまざまな人間に取り入って、情報をかき集めていることもありそうな話だ。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末
松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰
第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。
本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。
2025年11月28書籍刊行。
なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
戦神の星・武神の翼 ~ もしも日本に2000馬力エンジンが最初からあったなら
もろこし
歴史・時代
架空戦記ファンが一生に一度は思うこと。
『もし日本に最初から2000馬力エンジンがあったなら……』
よろしい。ならば作りましょう!
史実では中途半端な馬力だった『火星エンジン』を太平洋戦争前に2000馬力エンジンとして登場させます。そのために達成すべき課題を一つ一つ潰していく開発ストーリーをお送りします。
そして火星エンジンと言えば、皆さんもうお分かりですね。はい『一式陸攻』の運命も大きく変わります。
しかも史実より遙かに強力になって、さらに1年早く登場します。それは戦争そのものにも大きな影響を与えていきます。
え?火星エンジンなら『雷電』だろうって?そんなヒコーキ知りませんw
お楽しみください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる