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「このままでは脱走兵が出るかも知れん。そんなことになったらえらいことだ」
呼び出し役の方翼の声は悲痛だった。
「そうだ、そうだ」
対して、呼応する大勢の声は興奮状態だ。
「だったら、みんなも飯を分け合えばいいではないか」
皆を鎮めようと考えた高鵬は、努めて冷静な口調でそう言った。しかし彼が水を注いだのは、焼け石ならまだしも高温の油だったのだ。
「そんなこと、いまさらできると思っているのか」
集団は爆発した。
「それじゃあ、部下の言うことを聞いたことになるだろうが」
確かに、その通りだ。
誰からも言われずに飯を分け合えば、それは器量の大きな上官となるかも知れないが、周囲の圧力に屈する形で仕方なしに飯を分ければ、ほんの微かに存在した伍長の権威は完全に失われ、兵卒たちと同列になってしまう。それどころか、部下たちからかえって蔑まれるだろう。
ここまで来てしまったら、部下たちを威圧して押さえ込むしか方法はない。
腹や背に次々と襲ってくる痛みを感じながら、伍長たちが口にするさまざまな言葉を聞いて、高鵬は自分が善行だと信じたものの本当の姿を垣間見た気がした。
高鵬は伍長だ。五人組の統率者だ。彼は悪い意味でそれに相応しい人物だった。
彼の視野には、彼を含めて五人の人間しか存在していなかった。戦の全容などは問題外で、自分たちの所属する部隊が、その都度どんな目的を持って行動しているのかも把握していないばかりか、すぐ隣の五人組の生死さえも頓着していなかった。文字通り、自分たち五人の都合しか考えていなかったのだ。
高鵬は、部下の四人に良く思われることと、五人が無事に過ごすことにしか関心がなかったと言ってもいい。
意識が薄らいでいるせいか、自分が倒れたことで起きた小さな砂嵐のためか、少しずつ視界がぼやけていく途中、高鵬は自分の間違いを多少は悟っていた。
目を覚ました時、高鵬が見たのは乾いた土だった。日は傾きかけているようで、先ほどのような日差しの強さは感じられなかった。
彼を取り囲んでいた伍長たちの姿はすでになく、心配そうな楊然の表情が、視界の端にあるだけだった。
「伍長さん、大丈夫ですかい」
あちこち痛みはするものの、一応の無事を確かめると、立ち上がりながら高鵬は、
「ああ、何とか大丈夫みたいだ」と答えた。
立ち上がってみると、意識が遠退く直前に聞かされた言葉が蘇ってきた。
「お前の方が、飯を分けるのをやめろ」
「もちろん、理由なんか言うんじゃないぞ。自分が心変わりしたと部下には思わせておけ」
「ついでに部下に対する態度も、もう少し偉そうにしろ」
「それから、いま言ったことを実行しなかったりしたら、命はないからな。そのつもりでいろよ」
「一体何があったんですか」
楊然は心から心配しているように見えた。
「いや、別に何でもない」
「何でもないことはねえでしょう、こんなところで気を失って」
「お前に、話すことではないという意味だ」
驚いて口も利けないでいる楊然には目もくれず、高鵬は一人宿営場所に戻っていった。
高鵬は、伍長たちの言いつけを守った。
その日の炊事当番である洪昌が、いつものように、みんなで分けるために高鵬の飯を勝手に持って行こうとすると、
「それはわしの飯だぞ。斬られたいのか」と凄みのある声で言い、刀の柄に手をかけさえした。
「だって、いつも……」と、洪昌は抗弁しようとしたが、そこで言葉を呑み込んだ。
高鵬が鋭い視線を向けながら、刀を引き寄せたからだ。
「だって、何だ?」
「いいえ、別に、何でも。申しわけありやせん」
慌てて走り去って行く洪昌の後ろ姿を、高鵬は悲しい気持ちを押し殺しながら見つめた。
部下たちと少し離れたところで、高鵬は一人で飯を食べた。四人は、怯えたような、しかし多少は心配そうな顔付きで、彼のことをちらちらと見ながら、小さな声で何やら話し合っていた。
四人が心配そうにしていたのは、はじめの晩だけだった。具合でも悪いのか、と思ってくれたようだ。楊然がほかの三人に、倒れていたことを教えたのかも知れない。
しかし、何かの間違いではなく、高鵬の意思なのだと気付くと、楊然を除いた三人の目は、最初に配属されたあの時よりも冷ややかなものになっていった。
そして楊然の視線には、憐れみのようなものが含まれていた。
呼び出し役の方翼の声は悲痛だった。
「そうだ、そうだ」
対して、呼応する大勢の声は興奮状態だ。
「だったら、みんなも飯を分け合えばいいではないか」
皆を鎮めようと考えた高鵬は、努めて冷静な口調でそう言った。しかし彼が水を注いだのは、焼け石ならまだしも高温の油だったのだ。
「そんなこと、いまさらできると思っているのか」
集団は爆発した。
「それじゃあ、部下の言うことを聞いたことになるだろうが」
確かに、その通りだ。
誰からも言われずに飯を分け合えば、それは器量の大きな上官となるかも知れないが、周囲の圧力に屈する形で仕方なしに飯を分ければ、ほんの微かに存在した伍長の権威は完全に失われ、兵卒たちと同列になってしまう。それどころか、部下たちからかえって蔑まれるだろう。
ここまで来てしまったら、部下たちを威圧して押さえ込むしか方法はない。
腹や背に次々と襲ってくる痛みを感じながら、伍長たちが口にするさまざまな言葉を聞いて、高鵬は自分が善行だと信じたものの本当の姿を垣間見た気がした。
高鵬は伍長だ。五人組の統率者だ。彼は悪い意味でそれに相応しい人物だった。
彼の視野には、彼を含めて五人の人間しか存在していなかった。戦の全容などは問題外で、自分たちの所属する部隊が、その都度どんな目的を持って行動しているのかも把握していないばかりか、すぐ隣の五人組の生死さえも頓着していなかった。文字通り、自分たち五人の都合しか考えていなかったのだ。
高鵬は、部下の四人に良く思われることと、五人が無事に過ごすことにしか関心がなかったと言ってもいい。
意識が薄らいでいるせいか、自分が倒れたことで起きた小さな砂嵐のためか、少しずつ視界がぼやけていく途中、高鵬は自分の間違いを多少は悟っていた。
目を覚ました時、高鵬が見たのは乾いた土だった。日は傾きかけているようで、先ほどのような日差しの強さは感じられなかった。
彼を取り囲んでいた伍長たちの姿はすでになく、心配そうな楊然の表情が、視界の端にあるだけだった。
「伍長さん、大丈夫ですかい」
あちこち痛みはするものの、一応の無事を確かめると、立ち上がりながら高鵬は、
「ああ、何とか大丈夫みたいだ」と答えた。
立ち上がってみると、意識が遠退く直前に聞かされた言葉が蘇ってきた。
「お前の方が、飯を分けるのをやめろ」
「もちろん、理由なんか言うんじゃないぞ。自分が心変わりしたと部下には思わせておけ」
「ついでに部下に対する態度も、もう少し偉そうにしろ」
「それから、いま言ったことを実行しなかったりしたら、命はないからな。そのつもりでいろよ」
「一体何があったんですか」
楊然は心から心配しているように見えた。
「いや、別に何でもない」
「何でもないことはねえでしょう、こんなところで気を失って」
「お前に、話すことではないという意味だ」
驚いて口も利けないでいる楊然には目もくれず、高鵬は一人宿営場所に戻っていった。
高鵬は、伍長たちの言いつけを守った。
その日の炊事当番である洪昌が、いつものように、みんなで分けるために高鵬の飯を勝手に持って行こうとすると、
「それはわしの飯だぞ。斬られたいのか」と凄みのある声で言い、刀の柄に手をかけさえした。
「だって、いつも……」と、洪昌は抗弁しようとしたが、そこで言葉を呑み込んだ。
高鵬が鋭い視線を向けながら、刀を引き寄せたからだ。
「だって、何だ?」
「いいえ、別に、何でも。申しわけありやせん」
慌てて走り去って行く洪昌の後ろ姿を、高鵬は悲しい気持ちを押し殺しながら見つめた。
部下たちと少し離れたところで、高鵬は一人で飯を食べた。四人は、怯えたような、しかし多少は心配そうな顔付きで、彼のことをちらちらと見ながら、小さな声で何やら話し合っていた。
四人が心配そうにしていたのは、はじめの晩だけだった。具合でも悪いのか、と思ってくれたようだ。楊然がほかの三人に、倒れていたことを教えたのかも知れない。
しかし、何かの間違いではなく、高鵬の意思なのだと気付くと、楊然を除いた三人の目は、最初に配属されたあの時よりも冷ややかなものになっていった。
そして楊然の視線には、憐れみのようなものが含まれていた。
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