受付バイトは女装が必須?

なな

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第1部:スーツの中のワタシ

第三章 最初の一歩

鏡の中にいたのは、自分のようでいて、自分でない誰かだった。

淡いピンクのブラウスの襟元から、ほんのり浮かぶフェミニンな胸の丸み。チャコールグレーのスカートはタイトに腰を包み、ストッキング越しの脚をすらりと見せる。そして、艶のあるウィッグが肩まで自然に流れていた。

「うん、綺麗よ。お客様の前に立っても大丈夫」

美月の声が後ろからかかると、直人の心臓は跳ねた。
なぜかガードルの下も熱い。

「……ほんとに、これで?」

「もちろん。完璧に女性にしか見えないわ。直人くんじゃなくて、そうね……新しい名前、つけておこうか」

「名前……?」

「ええ。ここで働く時だけの、もう一人の“あなた”。例えば……」

美月が微笑む。そして、すっと口にした。

「“なお”って呼んでもいい? 親しみやすくて、可愛らしい感じがする」

「なお……」

繰り返すうちに、不思議としっくりきた。男の名前と女の名前の境界にあるような響き。たしかに、自分の中の“もうひとり”にふさわしい気がした。



受付フロアの奥に続くドアが開くと、空気が変わった。

高級ホテルのロビーを思わせる、静かで上品な空間。ガラス越しに自然光が差し込み、観葉植物と控えめな音楽が心を落ち着かせる。カウンターの向こうには、すでにもう一人──制服姿の女の子が立っていた。

「美月さん、お疲れ様です」

「お疲れさま、真帆ちゃん。紹介するわ。今日から研修に入る“なお”ちゃん」

「えっ、なおちゃん……?」

一瞬、彼女の目が驚いたように見えたが、すぐに笑顔になった。

「ようこそ、なおちゃん。私、佐々木真帆。ここで半年くらい働いてるの。何でも聞いてね」

柔らかくて明るい声。どこかおっとりしていて、それでいて気配りのある視線。真帆は“女の子の空気”を自然に纏っていた。

「……よろしくお願いします」

声を出すと、喉の違和感があった。低くないか、響いていないか。不安でいっぱいのままの自己紹介だったが、真帆は微笑んだまま頷いてくれた。

「大丈夫、すごく自然だよ。最初は緊張するけど、すぐ慣れると思う」

「うん……ありがとうございます」

その言葉に救われた気がした。見破られていない──もしくは、見破られても受け入れてくれている。どちらにせよ、真帆のまなざしはあたたかかった。



初日の研修は、ごく簡単な案内業務と立ち居振る舞いの練習だけだった。ドアの開け方、笑顔の作り方、来客への一礼、電話の受け方。どれも小さなことばかりだが、普段の「男の自分」では意識しない所作ばかりだった。

ヒールの高さは、ただ立っているだけでも想像以上にふくらはぎに響く。脚を閉じて座ることが、思いのほかつらい。スカートの中で動かす足や膝の角度にまで神経を使わなければならなかった。

けれど、そうして「女の子の動作」を繰り返すたびに、心の中で何かが少しずつ、確かに変わっていった。

それはまるで、誰かに憧れながら真似していた子供時代に戻るような、不安と高揚の入り混じった感覚。

この制服、この場所、この名前──「なお」という存在が、自分の中に少しずつ根を張り始めていた。

「なおちゃん、帰り道一緒に行く?」

真帆が微笑んで声をかけてくる。直人──いや、なおは、少しだけ考えてから頷いた。

「うん。ありがとう」

そして、小さなヒールの音を鳴らしながら、ふたりは並んで歩き出した。

それが、彼女として踏み出した、最初の一歩だった。




帰り道、真帆がいいづらそうに切り出す。
「ねえ、なお…最初から、なんとなく思ってたんだけど――」
彼女の声が少しだけ低くなる。
「…もしかして、ほんとは男の子?」

その一言で、なおの時間が一瞬止まった。
息が詰まりそうになる。言い訳も、誤魔化しも頭に浮かばない。ただ、黙って真帆の目を見るしかなかった。

でも、真帆はふっと笑った。
「…やっぱり。でも大丈夫。今のなお、すごく素敵だし、女の子としてのなおが私は好き」

その言葉は、驚くほどあたたかくて、優しかった。

「ありがとう……」
ようやく絞り出すように返したその声は、少しだけ震えていた。

真帆は軽く肩を叩くと、何事もなかったように笑った。

「じゃ、明日よろしくね。緊張したら深呼吸だよ」

「……うん!」

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