3 / 206
第1部:スーツの中のワタシ
第三章 最初の一歩
鏡の中にいたのは、自分のようでいて、自分でない誰かだった。
淡いピンクのブラウスの襟元から、ほんのり浮かぶフェミニンな胸の丸み。チャコールグレーのスカートはタイトに腰を包み、ストッキング越しの脚をすらりと見せる。そして、艶のあるウィッグが肩まで自然に流れていた。
「うん、綺麗よ。お客様の前に立っても大丈夫」
美月の声が後ろからかかると、直人の心臓は跳ねた。
なぜかガードルの下も熱い。
「……ほんとに、これで?」
「もちろん。完璧に女性にしか見えないわ。直人くんじゃなくて、そうね……新しい名前、つけておこうか」
「名前……?」
「ええ。ここで働く時だけの、もう一人の“あなた”。例えば……」
美月が微笑む。そして、すっと口にした。
「“なお”って呼んでもいい? 親しみやすくて、可愛らしい感じがする」
「なお……」
繰り返すうちに、不思議としっくりきた。男の名前と女の名前の境界にあるような響き。たしかに、自分の中の“もうひとり”にふさわしい気がした。
受付フロアの奥に続くドアが開くと、空気が変わった。
高級ホテルのロビーを思わせる、静かで上品な空間。ガラス越しに自然光が差し込み、観葉植物と控えめな音楽が心を落ち着かせる。カウンターの向こうには、すでにもう一人──制服姿の女の子が立っていた。
「美月さん、お疲れ様です」
「お疲れさま、真帆ちゃん。紹介するわ。今日から研修に入る“なお”ちゃん」
「えっ、なおちゃん……?」
一瞬、彼女の目が驚いたように見えたが、すぐに笑顔になった。
「ようこそ、なおちゃん。私、佐々木真帆。ここで半年くらい働いてるの。何でも聞いてね」
柔らかくて明るい声。どこかおっとりしていて、それでいて気配りのある視線。真帆は“女の子の空気”を自然に纏っていた。
「……よろしくお願いします」
声を出すと、喉の違和感があった。低くないか、響いていないか。不安でいっぱいのままの自己紹介だったが、真帆は微笑んだまま頷いてくれた。
「大丈夫、すごく自然だよ。最初は緊張するけど、すぐ慣れると思う」
「うん……ありがとうございます」
その言葉に救われた気がした。見破られていない──もしくは、見破られても受け入れてくれている。どちらにせよ、真帆のまなざしはあたたかかった。
初日の研修は、ごく簡単な案内業務と立ち居振る舞いの練習だけだった。ドアの開け方、笑顔の作り方、来客への一礼、電話の受け方。どれも小さなことばかりだが、普段の「男の自分」では意識しない所作ばかりだった。
ヒールの高さは、ただ立っているだけでも想像以上にふくらはぎに響く。脚を閉じて座ることが、思いのほかつらい。スカートの中で動かす足や膝の角度にまで神経を使わなければならなかった。
けれど、そうして「女の子の動作」を繰り返すたびに、心の中で何かが少しずつ、確かに変わっていった。
それはまるで、誰かに憧れながら真似していた子供時代に戻るような、不安と高揚の入り混じった感覚。
この制服、この場所、この名前──「なお」という存在が、自分の中に少しずつ根を張り始めていた。
「なおちゃん、帰り道一緒に行く?」
真帆が微笑んで声をかけてくる。直人──いや、なおは、少しだけ考えてから頷いた。
「うん。ありがとう」
そして、小さなヒールの音を鳴らしながら、ふたりは並んで歩き出した。
それが、彼女として踏み出した、最初の一歩だった。
帰り道、真帆がいいづらそうに切り出す。
「ねえ、なお…最初から、なんとなく思ってたんだけど――」
彼女の声が少しだけ低くなる。
「…もしかして、ほんとは男の子?」
その一言で、なおの時間が一瞬止まった。
息が詰まりそうになる。言い訳も、誤魔化しも頭に浮かばない。ただ、黙って真帆の目を見るしかなかった。
でも、真帆はふっと笑った。
「…やっぱり。でも大丈夫。今のなお、すごく素敵だし、女の子としてのなおが私は好き」
その言葉は、驚くほどあたたかくて、優しかった。
「ありがとう……」
ようやく絞り出すように返したその声は、少しだけ震えていた。
真帆は軽く肩を叩くと、何事もなかったように笑った。
「じゃ、明日よろしくね。緊張したら深呼吸だよ」
「……うん!」
淡いピンクのブラウスの襟元から、ほんのり浮かぶフェミニンな胸の丸み。チャコールグレーのスカートはタイトに腰を包み、ストッキング越しの脚をすらりと見せる。そして、艶のあるウィッグが肩まで自然に流れていた。
「うん、綺麗よ。お客様の前に立っても大丈夫」
美月の声が後ろからかかると、直人の心臓は跳ねた。
なぜかガードルの下も熱い。
「……ほんとに、これで?」
「もちろん。完璧に女性にしか見えないわ。直人くんじゃなくて、そうね……新しい名前、つけておこうか」
「名前……?」
「ええ。ここで働く時だけの、もう一人の“あなた”。例えば……」
美月が微笑む。そして、すっと口にした。
「“なお”って呼んでもいい? 親しみやすくて、可愛らしい感じがする」
「なお……」
繰り返すうちに、不思議としっくりきた。男の名前と女の名前の境界にあるような響き。たしかに、自分の中の“もうひとり”にふさわしい気がした。
受付フロアの奥に続くドアが開くと、空気が変わった。
高級ホテルのロビーを思わせる、静かで上品な空間。ガラス越しに自然光が差し込み、観葉植物と控えめな音楽が心を落ち着かせる。カウンターの向こうには、すでにもう一人──制服姿の女の子が立っていた。
「美月さん、お疲れ様です」
「お疲れさま、真帆ちゃん。紹介するわ。今日から研修に入る“なお”ちゃん」
「えっ、なおちゃん……?」
一瞬、彼女の目が驚いたように見えたが、すぐに笑顔になった。
「ようこそ、なおちゃん。私、佐々木真帆。ここで半年くらい働いてるの。何でも聞いてね」
柔らかくて明るい声。どこかおっとりしていて、それでいて気配りのある視線。真帆は“女の子の空気”を自然に纏っていた。
「……よろしくお願いします」
声を出すと、喉の違和感があった。低くないか、響いていないか。不安でいっぱいのままの自己紹介だったが、真帆は微笑んだまま頷いてくれた。
「大丈夫、すごく自然だよ。最初は緊張するけど、すぐ慣れると思う」
「うん……ありがとうございます」
その言葉に救われた気がした。見破られていない──もしくは、見破られても受け入れてくれている。どちらにせよ、真帆のまなざしはあたたかかった。
初日の研修は、ごく簡単な案内業務と立ち居振る舞いの練習だけだった。ドアの開け方、笑顔の作り方、来客への一礼、電話の受け方。どれも小さなことばかりだが、普段の「男の自分」では意識しない所作ばかりだった。
ヒールの高さは、ただ立っているだけでも想像以上にふくらはぎに響く。脚を閉じて座ることが、思いのほかつらい。スカートの中で動かす足や膝の角度にまで神経を使わなければならなかった。
けれど、そうして「女の子の動作」を繰り返すたびに、心の中で何かが少しずつ、確かに変わっていった。
それはまるで、誰かに憧れながら真似していた子供時代に戻るような、不安と高揚の入り混じった感覚。
この制服、この場所、この名前──「なお」という存在が、自分の中に少しずつ根を張り始めていた。
「なおちゃん、帰り道一緒に行く?」
真帆が微笑んで声をかけてくる。直人──いや、なおは、少しだけ考えてから頷いた。
「うん。ありがとう」
そして、小さなヒールの音を鳴らしながら、ふたりは並んで歩き出した。
それが、彼女として踏み出した、最初の一歩だった。
帰り道、真帆がいいづらそうに切り出す。
「ねえ、なお…最初から、なんとなく思ってたんだけど――」
彼女の声が少しだけ低くなる。
「…もしかして、ほんとは男の子?」
その一言で、なおの時間が一瞬止まった。
息が詰まりそうになる。言い訳も、誤魔化しも頭に浮かばない。ただ、黙って真帆の目を見るしかなかった。
でも、真帆はふっと笑った。
「…やっぱり。でも大丈夫。今のなお、すごく素敵だし、女の子としてのなおが私は好き」
その言葉は、驚くほどあたたかくて、優しかった。
「ありがとう……」
ようやく絞り出すように返したその声は、少しだけ震えていた。
真帆は軽く肩を叩くと、何事もなかったように笑った。
「じゃ、明日よろしくね。緊張したら深呼吸だよ」
「……うん!」
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
