受付バイトは女装が必須?

なな

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第1部:スーツの中のワタシ

第四章 出会いの鼓動

「なおちゃん、今日もお願いね」

更衣室で美月が優しく微笑んだ。制服に着替える手も、真帆の勧めでロングに替えたウィッグを整える指も、最初に比べればずっと慣れた。でも、慣れるほどに、そこに潜む“緊張”の種類が変わってきたように思う。

最初は「バレないか」という不安だった。
今は──「見られる」ことへの意識だ。

パンプスのストラップを留め、立ち上がる。鏡の中にいるのは、まだ少しぎこちないけれど、確かに“なお”としてここに存在する自分だった。

背後から、真帆が静かに近づいてくる。

「なお、ストッキングのライン、ちゃんとまっすぐだよ。完璧」
いつもより少し親しげな声色で、真帆がそっと囁く。

「ほんと? よかった……」
なおは小声で返しながら、胸の奥にほんのり温かいものを感じた。

「うん。あとね、緊張してる顔してると、受付では不利だから。笑顔、忘れずに」
真帆は軽くウィンクをしながら言った。

それが、どこか“女の子同士”というより“秘密を共有している相棒”のように思えて、なおは思わず微笑んでしまった。



何日か経つとロビーでの接客にも少し余裕が出てきた。真帆との立ち話では、ちょっとした雑談も交わすようになってきた。

「なおちゃん、今日はお客様多そうだね」

「うん。朝からスーツの人が多かったし、たぶん会議の日なんじゃないかな」

「観察力ある~。もう立派な受付嬢だよ」

「ふふ……ありがとう」

冗談半分のやりとりでも、女の子同士みたいに話せることがうれしい。そう思っていたときだった。

「こんにちは。予約していた河合と申します」

その声に、なおは反射的に顔を上げた。

スーツ姿の男性。身長は180近くありそうで、スリムながらも引き締まった体型。穏やかな目元には知性がにじみ、口元に微かに残る無精髭が年齢を物語っていた。

真帆が素早く対応する中、なおは言葉を失っていた。

──かっこいい。

その感情はあまりにも唐突で、そして、否定できないほど強かった。

年上の男性といえば、大学の講師くらいしか知らなかった。でも、この人は違う。大人の男の余裕と、どこか人懐こい優しさを感じさせる存在感。

「ご案内差し上げますね」

真帆が誘導し始めた時、ふとその男性──河合と名乗った彼が、なおの方へ視線を向けた。

目が合った──そう思った瞬間、心臓が跳ねた。

「……こんにちは」

自然と口をついて出た声は、思ったよりも高く柔らかく、自分のものではないようだった。

「こんにちは。丁寧なご挨拶、ありがとうございます」

彼は軽く会釈をし、ほんのわずかに笑んだ。

それだけなのに、鼓動が止まらなかった。



「さっきのお客様、河合さんって言うんだ。会社の役員の方らしいよ。割と頻繁に会議室を使ってるみたい」

休憩室でお茶を飲みながら、真帆が何気なく言った。

「そ、そうなんだ……」

なおはカップを持つ手をそっと膝の上に下ろした。膝を閉じる姿勢を意識しながらも、頭の中は河合のことばかりだった。

自分はあの人にどう見えたんだろう。女の子? それとも──?

「ねぇ、なおちゃん」

「……うん?」

「もしかして……ちょっとドキッとした?」

茶化すような真帆の声。でも、その表情にはどこか優しい驚きがにじんでいた。

「……わかっちゃうんだね」

「うん。ちょっとね。私も最初、そうだったから」

その一言に、なおの胸が静かに揺れた。

そうか。もしかしたら、真帆も──。

誰にも言えなかった感情が、ふと共有されたような気がして、なおはゆっくりと笑った。

夕暮れの帰り道。制服から着替えたばかりの体に、まだブラの感覚が残っていた。

風がウィッグの跡をなでる。まるで「なお」として過ごした時間を名残惜しむように。

でも今、自分の中では「なお」の時間が、確かに“本物”になりつつある。

誰かに見られたいと思った。あの人に、もう一度会いたいと思った。

それはもう、バイトのための仮装なんかじゃなかった。



バイトが終わったあと、駅前のビルを出た瞬間、なおは少し足を止めた。鏡のように光を反射する自動ドアのガラス。その中にいたのは、髪をまとめて、ブラウスとフレアスカートを着た“なお”だった。

──このまま、帰ってみたい。

ふと、そんな考えがよぎった。

慌ててウィッグを外し、着替えたのは、昨日までの自分だ。でも、その“自分”に戻った瞬間、なぜか少し物足りなさを感じた。



翌週の休み。いつもなら大学の課題をこなす日。でも、今日はふとした思いつきで、街へ出ることにした。

(別に、誰かと会うわけじゃないし……)

そう自分に言い訳しながら、なおはワンピースを選んだ。ベージュの落ち着いた色合いに、控えめなフレア。前は試着さえ怖かった服が、今は手元にある。

家でウィッグとメイクを済ませ、鏡に立つ。

──かわいい、かも。

化粧した顔には少し自信が宿り、首元には自然にスカーフを巻いた。ストラップのあるパンプスのかかとに指を滑らせる動作も、いつのまにか慣れてきた。



少しドキドキしながら外へ出ると、陽射しはやさしく、
すれ違う女性たちのファッションも自然に視界に入ってくる。

駅ビルの下着売り場を、今日はただ素通りしなかった。コーナーを一周するだけで心臓が高鳴る。レースの縁取りや、サテンの手触り。バイトで着けていた下着とは違って、これは自分で“選ぶ”もの。

一番落ち着いたモーブピンクのセットを手に取り、清算した時、何かを越えたような気がした。

その夜、家で新しいブラとショーツに着替えた。

誰に見せるでもない。ただ、自分のために。ストラップを肩に通すと、背筋が伸びる。鏡に映った自分は──少し大人びて見えた。

「……変だな、こんな気持ち」

でも、その“変だ”は、決してイヤじゃない。

もう女装は「バイトの制服」だけではなくなっていた。少しずつ、“なお”としての生き方が、生活に溶け始めていた。

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