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第三十一話 救済なし
第三十一話 救済なし
エドガーが玉座の間から引きずり出された、その日を境に、三人の世界は完全に分かれた。
王太子だった男。
王太子妃になるつもりだった義妹。
公爵夫人として家を支配したつもりの継母。
かつてはそれぞれ別の形で他人を見下し、奪い、当然のように上に立てると思っていた者たちが、今ではそれぞれ別の場所へ切り分けられ、二度と同じ土俵へ戻れないところまで落とされていく。
しかも、誰一人として一息に終わらせてもらえない。
死で終わる方が、よほど楽だっただろう。
だが彼らに与えられたのは、もっと長く、もっとみじめな形の罰だった。
まず、エドガー。
王族籍剥奪と王位継承権停止が正式に布告されたあと、彼は王宮の奥でしばらく拘束された。
もっとも、それは保護ではない。
王族だった男が暴れて余計な醜聞を撒き散らさぬよう、最低限押さえつけておくための時間に過ぎなかった。
その後、彼に与えられたのは王都から遠く離れた地方の労役場行きだった。
理由は明白だ。
王太子として犯した軽率な判断が王家と王宮に損害を与えた以上、完全な野放しにはできない。
かといって、元王族として甘く囲う理由もない。
ならば、自分で働いて食え、ただし自由は与えない。
それが王家の結論だった。
エドガーが到着したのは、王領にある穀物倉と街道補修のための労務所が隣接した土地だった。
石造りの粗末な管理棟。
泥の残る作業場。
風を遮りきれぬ共同部屋。
王宮の香油も絹も暖炉も、そこには一つもない。
最初の日、管理官は書類を見て淡々と言った。
「お前が新入りだな」
エドガーは顔をしかめた。
「口の利き方に気をつけろ」
管理官はまばたきもしなかった。
「ここでは身分より書類だ。廃嫡、王族籍剥奪、労役管理下。そう書いてある」
「無礼者!」
エドガーが怒鳴る。
だが返ってきたのは、ただ短い一言だった。
「食いたければ働け」
それで終わりだ。
王太子だった名残など、そこでは一文の値打ちもない。
最初こそ、元王族に配慮したのか、軽い帳簿整理や在庫確認の補助が回された。
だが、それすらエドガーには務まらなかった。
数字の確認を嫌がる。
年下の役人に命令口調で接する。
気に入らぬと言って書類を投げる。
自分がこんなことをする立場ではないと喚く。
結果、わずか数日でその扱いは終わった。
「軽作業すら無理か」
管理官は冷たく言い、次の日から彼を荷運びへ回した。
袋詰めされた穀物を運び、泥の残る倉を掃き、雨で崩れた土を掻き出し、夕方には家畜小屋の掃除までやらされる。
給金などない。
あるのは一日働いた者へ配られる黒パンと薄いスープ、そして共同部屋の寝床だけだ。
働かなければ食事も減る。
怠ければ見張りに押し戻される。
エドガーは最初のうち、何度も怒鳴った。
「私は王太子だったんだぞ!」
「本来なら、こんなところにいる男ではない!」
だが誰も相手にしない。
むしろ他の労働者たちは、彼を薄笑いで見るだけだった。
「あれが例の元王太子か」
「働きは遅いのに口だけは立派だな」
「王にならなくて本当によかった」
そんな言葉が、背中に容赦なく刺さる。
それでもエドガーは最後まで認めない。
自分は悪くない。
エルシェナが戻ればよかった。
父王が冷たかった。
セラフィナたちに騙された。
そうやって、責任を自分の外へ押し出し続ける。
だが、押し出した先にもう誰もいない。
だから彼はただ、口だけ達者で働きの悪い落ちぶれ者として、共同部屋の隅で嫌われながら生きるしかなかった。
一方のセラフィナは、もっと別の形で落ちた。
王家との婚姻の可能性を完全に断たれたあと、彼女を王宮へ置いておく理由はなくなった。
かといって、すぐに路上へ放り出せば外聞が悪い。
そこで選ばれたのは、遠縁の下級男爵家への厄介払いだった。
表向きは“しばらく静養のため預かる”という名目。
だが実際には、行き場のない娘を押しつけただけに過ぎない。
その男爵家は没落気味で、屋敷も古く、余計な客を丁重にもてなす余裕などまるでなかった。
セラフィナに与えられたのは屋根裏に近い狭い一室だけ。
窓は小さく、冬は寒い。
家具も最低限。
暖炉はなく、毛布も薄い。
かつて王太子の隣で絹をまとっていた女が、今では粗末な寝台の軋みを聞きながら眠るしかない。
さらに痛かったのは食事だった。
彼女は主人一家の食卓へつく資格を与えられなかった。
まず主人たちが食べる。
次に使用人たちが食べる。
それでも残れば、最後に彼女へ回る。
パンの端。
冷えた煮込みの底。
肉の骨のまわり。
昨日の残りを煮返しただけの皿。
つまり、彼女の糧は最初から用意された食事ではなく、他人の食べ残しのさらに残りだった。
しかも、それすら当然ではない。
最初の数日、セラフィナはまだ自分を貴族令嬢のつもりでいた。
だから思わず文句を言った。
「これ、冷たいのだけれど」
「パンが固いわ」
「もう少しましなものはないの?」
そのたびに、使用人たちは冷たく笑った。
「では、いりませんね」
そう言って、目の前の皿をそのまま残飯桶へ落とす。
ある日は、やっと回ってきたスープを前にセラフィナが顔をしかめた瞬間、女中が器を取り上げた。
「お気に召さないようなので」
そして、彼女の見ている前で中身を捨てた。
セラフィナは呆然とするしかなかった。
泣けばよかったのかもしれない。
だが、もうそれも効かない。
王太子もいない。
同情してくれる婦人もいない。
“可哀想”と言ってくれる男もいない。
ここでの彼女は、ただ置いてやっているだけの厄介者に過ぎないのだ。
生活のために与えられた仕事もみじめだった。
洗濯物たたみ。
子どもの世話。
野菜の皮むき。
廊下の拭き掃除。
食堂の片付け。
どれも使用人以下の雑用ばかり。
しかも、不器用で遅く、すぐ手を止める彼女は、その程度の仕事ですら満足にこなせない。
そうなると使用人たちの機嫌はますます悪くなり、食事もますます粗末になる。
さらに残酷だったのは、男たちの目だ。
王太子妃になれると思っていた女を、今は誰も尊重しない。
ただ“まだ若く、見目だけは悪くない落ちぶれた娘”として見る。
「囲うなら安く済みそうだな」
「いや、ああいう女は面倒だ」
そんな下卑た囁きが聞こえるたび、セラフィナの背筋は凍る。
愛される女でいたかった。
選ばれる女でいたかった。
姉のものを奪う側でいたかった。
なのに今の彼女は、誰かの持ち物候補として雑に値踏みされる側へ落ちている。
それが何より耐えがたかった。
そしてイザベル。
彼女にはもっとも“立場の剥奪”が似合った。
公爵家内部での不正が完全に認定されたあと、イザベルには正式な処分が下された。
財産没収。
公爵夫人としての地位剥奪。
社交界からの永久追放。
そして、公爵家管理下の女性労働施設送り。
修道院ではない。
それでは保護になる。
親類預かりでもない。
それでは甘すぎる。
彼女が送られた先は、家や商会で問題を起こした女たちが最低限の監視下で労働するための場所だった。
粗末な石造りの建物。
細い寝台。
冷たい水桶。
硬い黒パン。
油気のないスープ。
そこでは“奥様”と呼ばれることはない。
誰も頭を下げない。
誰も香油を選んでくれない。
誰も髪を整えない。
あるのは監督役の短い命令だけだ。
「布を仕分けろ」
「洗濯物をたため」
「手を止めるな」
仕事は体力より屈辱を伴うものが多かった。
粗布の繕い。
洗い終えた衣類の仕分け。
野菜の下処理。
帳面の写し。
干し布の取り込み。
若い娘たちならともかく、贅沢に慣れた女がやるにはきつい。
手は荒れ、腰は痛み、肩はすぐに重くなる。
しかも、働かなければ食事は減る。
それがイザベルには何より堪えた。
かつては、使用人たちに「手を動かしなさい」と命じる側だった。
今は、自分が命じられ、遅れれば冷たく記録される側だ。
ある日、作業台の前で針を落としたイザベルが苛立って声を荒げた。
「こんな仕事、本来わたくしがするものではないわ!」
監督役の女は、まるで感情のない顔で答えた。
「今のあなたは、それで食べているだけです」
それだけで終わりだ。
反論しても誰も困らない。
泣いても食事は増えない。
怒っても部屋が暖かくなるわけではない。
夜になると、イザベルは狭い寝台で天井を見た。
自分の娘はどうしているのか。
エドガーはどうなったのか。
そんなことを思っても、もう誰にも確かめられない。
一度だけセラフィナへ取り次ぎを願ったが、返ってきたのはつれない断りだけだった。
会っても何になるのか。
むしろ責任を押しつけ合うだけだと、向こうも分かっていたのだろう。
こうして三人は、それぞれ別の場所で生き地獄を味わうことになった。
王になるはずだった男は、泥まみれで働いた日だけ食わせてもらう。
愛されるはずだった義妹は、残飯が回るかどうかを使用人の気分に委ねる。
夫人として君臨した継母は、働かなければ黒パンすら得られない。
救済はない。
誰も助けない。
そして何より残酷なのは、彼らが皆、まだどこかで自分は悪くないと思っていることだ。
だからこそ苦しみは薄まらない。
納得も終わりもなく、ただ日々だけがみじめに続く。
その報告を受けた夜、ヴァルモン公爵邸の居間でグラハムが静かに口を閉じると、部屋には暖炉の火の音だけが残った。
エルシェナはしばらく何も言わなかった。
やがて、低く問う。
「……三人とも、生きてはいるのね」
「はい」
「そう」
それ以上は何も言わない。
喜びも、憐れみも、安堵もない。
ただ確認だけだ。
彼らが死んで終わるのではなく、生きて終わらない罰を受けていることを。
グラハムが静かに続ける。
「エドガーは最後まで、自分は王になるはずだったと喚いているとか」
「でしょうね」
「セラフィナもまた、何かあるたび、お嬢様のせいだと口にしているようで」
「そう」
「イザベルは、まだ自分が公爵夫人であった頃の癖が抜けず、何度か揉めたそうです」
エルシェナは目を伏せた。
どこまでも彼ららしい。
最後まで、自分の醜さを他人へ押しつけたまま落ちていく。
それがこの三人なのだ。
「お嬢様」
「何かしら」
「これで……」
グラハムが言いよどむ。
終わった、と言いたいのだろう。
だが、エルシェナはすぐにはうなずかなかった。
「いいえ」
静かに首を振る。
「まだよ」
まだ終わりではない。
彼らが落ちたことを、自分自身の目で見るまでは。
そして、彼らに最後の言葉を告げるまでは。
エドガーが玉座の間から引きずり出された、その日を境に、三人の世界は完全に分かれた。
王太子だった男。
王太子妃になるつもりだった義妹。
公爵夫人として家を支配したつもりの継母。
かつてはそれぞれ別の形で他人を見下し、奪い、当然のように上に立てると思っていた者たちが、今ではそれぞれ別の場所へ切り分けられ、二度と同じ土俵へ戻れないところまで落とされていく。
しかも、誰一人として一息に終わらせてもらえない。
死で終わる方が、よほど楽だっただろう。
だが彼らに与えられたのは、もっと長く、もっとみじめな形の罰だった。
まず、エドガー。
王族籍剥奪と王位継承権停止が正式に布告されたあと、彼は王宮の奥でしばらく拘束された。
もっとも、それは保護ではない。
王族だった男が暴れて余計な醜聞を撒き散らさぬよう、最低限押さえつけておくための時間に過ぎなかった。
その後、彼に与えられたのは王都から遠く離れた地方の労役場行きだった。
理由は明白だ。
王太子として犯した軽率な判断が王家と王宮に損害を与えた以上、完全な野放しにはできない。
かといって、元王族として甘く囲う理由もない。
ならば、自分で働いて食え、ただし自由は与えない。
それが王家の結論だった。
エドガーが到着したのは、王領にある穀物倉と街道補修のための労務所が隣接した土地だった。
石造りの粗末な管理棟。
泥の残る作業場。
風を遮りきれぬ共同部屋。
王宮の香油も絹も暖炉も、そこには一つもない。
最初の日、管理官は書類を見て淡々と言った。
「お前が新入りだな」
エドガーは顔をしかめた。
「口の利き方に気をつけろ」
管理官はまばたきもしなかった。
「ここでは身分より書類だ。廃嫡、王族籍剥奪、労役管理下。そう書いてある」
「無礼者!」
エドガーが怒鳴る。
だが返ってきたのは、ただ短い一言だった。
「食いたければ働け」
それで終わりだ。
王太子だった名残など、そこでは一文の値打ちもない。
最初こそ、元王族に配慮したのか、軽い帳簿整理や在庫確認の補助が回された。
だが、それすらエドガーには務まらなかった。
数字の確認を嫌がる。
年下の役人に命令口調で接する。
気に入らぬと言って書類を投げる。
自分がこんなことをする立場ではないと喚く。
結果、わずか数日でその扱いは終わった。
「軽作業すら無理か」
管理官は冷たく言い、次の日から彼を荷運びへ回した。
袋詰めされた穀物を運び、泥の残る倉を掃き、雨で崩れた土を掻き出し、夕方には家畜小屋の掃除までやらされる。
給金などない。
あるのは一日働いた者へ配られる黒パンと薄いスープ、そして共同部屋の寝床だけだ。
働かなければ食事も減る。
怠ければ見張りに押し戻される。
エドガーは最初のうち、何度も怒鳴った。
「私は王太子だったんだぞ!」
「本来なら、こんなところにいる男ではない!」
だが誰も相手にしない。
むしろ他の労働者たちは、彼を薄笑いで見るだけだった。
「あれが例の元王太子か」
「働きは遅いのに口だけは立派だな」
「王にならなくて本当によかった」
そんな言葉が、背中に容赦なく刺さる。
それでもエドガーは最後まで認めない。
自分は悪くない。
エルシェナが戻ればよかった。
父王が冷たかった。
セラフィナたちに騙された。
そうやって、責任を自分の外へ押し出し続ける。
だが、押し出した先にもう誰もいない。
だから彼はただ、口だけ達者で働きの悪い落ちぶれ者として、共同部屋の隅で嫌われながら生きるしかなかった。
一方のセラフィナは、もっと別の形で落ちた。
王家との婚姻の可能性を完全に断たれたあと、彼女を王宮へ置いておく理由はなくなった。
かといって、すぐに路上へ放り出せば外聞が悪い。
そこで選ばれたのは、遠縁の下級男爵家への厄介払いだった。
表向きは“しばらく静養のため預かる”という名目。
だが実際には、行き場のない娘を押しつけただけに過ぎない。
その男爵家は没落気味で、屋敷も古く、余計な客を丁重にもてなす余裕などまるでなかった。
セラフィナに与えられたのは屋根裏に近い狭い一室だけ。
窓は小さく、冬は寒い。
家具も最低限。
暖炉はなく、毛布も薄い。
かつて王太子の隣で絹をまとっていた女が、今では粗末な寝台の軋みを聞きながら眠るしかない。
さらに痛かったのは食事だった。
彼女は主人一家の食卓へつく資格を与えられなかった。
まず主人たちが食べる。
次に使用人たちが食べる。
それでも残れば、最後に彼女へ回る。
パンの端。
冷えた煮込みの底。
肉の骨のまわり。
昨日の残りを煮返しただけの皿。
つまり、彼女の糧は最初から用意された食事ではなく、他人の食べ残しのさらに残りだった。
しかも、それすら当然ではない。
最初の数日、セラフィナはまだ自分を貴族令嬢のつもりでいた。
だから思わず文句を言った。
「これ、冷たいのだけれど」
「パンが固いわ」
「もう少しましなものはないの?」
そのたびに、使用人たちは冷たく笑った。
「では、いりませんね」
そう言って、目の前の皿をそのまま残飯桶へ落とす。
ある日は、やっと回ってきたスープを前にセラフィナが顔をしかめた瞬間、女中が器を取り上げた。
「お気に召さないようなので」
そして、彼女の見ている前で中身を捨てた。
セラフィナは呆然とするしかなかった。
泣けばよかったのかもしれない。
だが、もうそれも効かない。
王太子もいない。
同情してくれる婦人もいない。
“可哀想”と言ってくれる男もいない。
ここでの彼女は、ただ置いてやっているだけの厄介者に過ぎないのだ。
生活のために与えられた仕事もみじめだった。
洗濯物たたみ。
子どもの世話。
野菜の皮むき。
廊下の拭き掃除。
食堂の片付け。
どれも使用人以下の雑用ばかり。
しかも、不器用で遅く、すぐ手を止める彼女は、その程度の仕事ですら満足にこなせない。
そうなると使用人たちの機嫌はますます悪くなり、食事もますます粗末になる。
さらに残酷だったのは、男たちの目だ。
王太子妃になれると思っていた女を、今は誰も尊重しない。
ただ“まだ若く、見目だけは悪くない落ちぶれた娘”として見る。
「囲うなら安く済みそうだな」
「いや、ああいう女は面倒だ」
そんな下卑た囁きが聞こえるたび、セラフィナの背筋は凍る。
愛される女でいたかった。
選ばれる女でいたかった。
姉のものを奪う側でいたかった。
なのに今の彼女は、誰かの持ち物候補として雑に値踏みされる側へ落ちている。
それが何より耐えがたかった。
そしてイザベル。
彼女にはもっとも“立場の剥奪”が似合った。
公爵家内部での不正が完全に認定されたあと、イザベルには正式な処分が下された。
財産没収。
公爵夫人としての地位剥奪。
社交界からの永久追放。
そして、公爵家管理下の女性労働施設送り。
修道院ではない。
それでは保護になる。
親類預かりでもない。
それでは甘すぎる。
彼女が送られた先は、家や商会で問題を起こした女たちが最低限の監視下で労働するための場所だった。
粗末な石造りの建物。
細い寝台。
冷たい水桶。
硬い黒パン。
油気のないスープ。
そこでは“奥様”と呼ばれることはない。
誰も頭を下げない。
誰も香油を選んでくれない。
誰も髪を整えない。
あるのは監督役の短い命令だけだ。
「布を仕分けろ」
「洗濯物をたため」
「手を止めるな」
仕事は体力より屈辱を伴うものが多かった。
粗布の繕い。
洗い終えた衣類の仕分け。
野菜の下処理。
帳面の写し。
干し布の取り込み。
若い娘たちならともかく、贅沢に慣れた女がやるにはきつい。
手は荒れ、腰は痛み、肩はすぐに重くなる。
しかも、働かなければ食事は減る。
それがイザベルには何より堪えた。
かつては、使用人たちに「手を動かしなさい」と命じる側だった。
今は、自分が命じられ、遅れれば冷たく記録される側だ。
ある日、作業台の前で針を落としたイザベルが苛立って声を荒げた。
「こんな仕事、本来わたくしがするものではないわ!」
監督役の女は、まるで感情のない顔で答えた。
「今のあなたは、それで食べているだけです」
それだけで終わりだ。
反論しても誰も困らない。
泣いても食事は増えない。
怒っても部屋が暖かくなるわけではない。
夜になると、イザベルは狭い寝台で天井を見た。
自分の娘はどうしているのか。
エドガーはどうなったのか。
そんなことを思っても、もう誰にも確かめられない。
一度だけセラフィナへ取り次ぎを願ったが、返ってきたのはつれない断りだけだった。
会っても何になるのか。
むしろ責任を押しつけ合うだけだと、向こうも分かっていたのだろう。
こうして三人は、それぞれ別の場所で生き地獄を味わうことになった。
王になるはずだった男は、泥まみれで働いた日だけ食わせてもらう。
愛されるはずだった義妹は、残飯が回るかどうかを使用人の気分に委ねる。
夫人として君臨した継母は、働かなければ黒パンすら得られない。
救済はない。
誰も助けない。
そして何より残酷なのは、彼らが皆、まだどこかで自分は悪くないと思っていることだ。
だからこそ苦しみは薄まらない。
納得も終わりもなく、ただ日々だけがみじめに続く。
その報告を受けた夜、ヴァルモン公爵邸の居間でグラハムが静かに口を閉じると、部屋には暖炉の火の音だけが残った。
エルシェナはしばらく何も言わなかった。
やがて、低く問う。
「……三人とも、生きてはいるのね」
「はい」
「そう」
それ以上は何も言わない。
喜びも、憐れみも、安堵もない。
ただ確認だけだ。
彼らが死んで終わるのではなく、生きて終わらない罰を受けていることを。
グラハムが静かに続ける。
「エドガーは最後まで、自分は王になるはずだったと喚いているとか」
「でしょうね」
「セラフィナもまた、何かあるたび、お嬢様のせいだと口にしているようで」
「そう」
「イザベルは、まだ自分が公爵夫人であった頃の癖が抜けず、何度か揉めたそうです」
エルシェナは目を伏せた。
どこまでも彼ららしい。
最後まで、自分の醜さを他人へ押しつけたまま落ちていく。
それがこの三人なのだ。
「お嬢様」
「何かしら」
「これで……」
グラハムが言いよどむ。
終わった、と言いたいのだろう。
だが、エルシェナはすぐにはうなずかなかった。
「いいえ」
静かに首を振る。
「まだよ」
まだ終わりではない。
彼らが落ちたことを、自分自身の目で見るまでは。
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