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#405 福龍軒の秘密
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福龍軒は、駅から少し外れた路地裏にある。
古びた赤い看板、かすれた漢字、灯りの弱い裸電球。
初めての人には少し不気味に映るかもしれないが、地元では「隠れた名店」として評判だ。辺鄙な場所なのに客足が途絶えることがない。
店主の張さんは寡黙な人物で、客が話しかけても「うん」とか「はい」しか言わないが、客が少ないとたまに世間話にものってくれる。彼の作る炒飯や麻婆豆腐は絶品で、常連客がたくさんいるようだった。
俺もその一人で、仕事帰りにふらりと立ち寄るのが習慣になっていた。
だが、その日の福龍軒はいつもと違った。
閉店間際、俺がカウンターで麻婆豆腐をつつきながらビールを飲んでいると――
裏口が静かに開いた。
入ってきたのは全身黒ずくめの男。帽子を目深にかぶり、鋭い視線を店内に走らせる。その雰囲気は、どう考えても常連客には見えなかった。
張さんは鍋を振る手を止め、男をじっと見た。
沈黙の数秒が流れる。
まるで映画のワンシーンのような緊張感。
「……」
言葉は交わされない。
やがて男はポケットから紙切れを取り出し、張さんに差し出した。
張さんはそれを受け取り、眉をひそめ、ゆっくりと頷いた。
そして厨房の奥へ消えると、古びた木箱を持って戻ってきた。
中には何が入っているのか。
黒ずくめの男はそれを抱え、会釈して裏口から去っていった。
めずらしく客が引いた数分の出来事だ。男はこの瞬間を狙っていたようにも思えてくる。
「……張さん、今の人は?」
勇気を出して尋ねると、張さんは一瞬だけこちらを見たが、すぐに鍋を振り始めた。
「常連さん、麻婆、冷めるよ」
それだけだった。その直後、またワッと客が押し寄せ、その日は張さんに話しかける機会がなかった。
俺は落ち着かなかった。
まさか裏口から出入りする得体の知れない人物……。裏社会との繋がりがあるのでは?
そんな妄想が頭を離れない。
翌日も俺は店を訪れた。どうしても気になったからだ。
張さんはいつも通り黙々と鍋を振っていた。
しかし、俺が「昨日の男……」と口にした瞬間、張さんは小さくため息をついた。
「秘密、知りたい?」
めずらしく返事が返ってきて、俺は慌てて頷いた。張さんは声を潜めて言った。
「彼は……スパイ」
思わずビールを吹き出しそうになった。
「す、スパイ!? やっぱり裏社会の仕事を……」
「ちがうちがう」
張さんはようやく笑みを浮かべた。
「彼は、向かいのラーメン屋や隣の餃子屋の動向を探ってる。他にも隣町の方まで調査に行ってるよ」
「え……」
「新メニュー、仕入れ先、客の入り……。全部調べて報告してもらう」
「それって……商店街のスパイ!?」
張さんは大きく頷いた。
「情報は力だよ。ライバルより先に動けば、客はこっちに来る」
俺はしばし絶句した。
それから緊張の糸が一気に切れる。
張さんが裏で犯罪に手を染めていて、もし捕まってしまったら、もう麻婆豆腐を食べられないかもしれないとドキドキしていた。
張さんは再び鍋を振り、軽やかに油を跳ねさせた。
「だから、福龍軒は一番人気。スパイのおかげ」
得意げに笑う張さんを見て、俺は思わず苦笑した。
張さんの本気さが全部この店の味を支えているんだろう。ここまで料理に向き合い、経営戦略を練っているなら、この辺りで負けなしなのは納得だ。
「……なんか、さすがですね」
俺は麻婆豆腐をひと口食べ、ほっと息をついた。
そして思った。このしたたかな店主には、敵わないな――と。
古びた赤い看板、かすれた漢字、灯りの弱い裸電球。
初めての人には少し不気味に映るかもしれないが、地元では「隠れた名店」として評判だ。辺鄙な場所なのに客足が途絶えることがない。
店主の張さんは寡黙な人物で、客が話しかけても「うん」とか「はい」しか言わないが、客が少ないとたまに世間話にものってくれる。彼の作る炒飯や麻婆豆腐は絶品で、常連客がたくさんいるようだった。
俺もその一人で、仕事帰りにふらりと立ち寄るのが習慣になっていた。
だが、その日の福龍軒はいつもと違った。
閉店間際、俺がカウンターで麻婆豆腐をつつきながらビールを飲んでいると――
裏口が静かに開いた。
入ってきたのは全身黒ずくめの男。帽子を目深にかぶり、鋭い視線を店内に走らせる。その雰囲気は、どう考えても常連客には見えなかった。
張さんは鍋を振る手を止め、男をじっと見た。
沈黙の数秒が流れる。
まるで映画のワンシーンのような緊張感。
「……」
言葉は交わされない。
やがて男はポケットから紙切れを取り出し、張さんに差し出した。
張さんはそれを受け取り、眉をひそめ、ゆっくりと頷いた。
そして厨房の奥へ消えると、古びた木箱を持って戻ってきた。
中には何が入っているのか。
黒ずくめの男はそれを抱え、会釈して裏口から去っていった。
めずらしく客が引いた数分の出来事だ。男はこの瞬間を狙っていたようにも思えてくる。
「……張さん、今の人は?」
勇気を出して尋ねると、張さんは一瞬だけこちらを見たが、すぐに鍋を振り始めた。
「常連さん、麻婆、冷めるよ」
それだけだった。その直後、またワッと客が押し寄せ、その日は張さんに話しかける機会がなかった。
俺は落ち着かなかった。
まさか裏口から出入りする得体の知れない人物……。裏社会との繋がりがあるのでは?
そんな妄想が頭を離れない。
翌日も俺は店を訪れた。どうしても気になったからだ。
張さんはいつも通り黙々と鍋を振っていた。
しかし、俺が「昨日の男……」と口にした瞬間、張さんは小さくため息をついた。
「秘密、知りたい?」
めずらしく返事が返ってきて、俺は慌てて頷いた。張さんは声を潜めて言った。
「彼は……スパイ」
思わずビールを吹き出しそうになった。
「す、スパイ!? やっぱり裏社会の仕事を……」
「ちがうちがう」
張さんはようやく笑みを浮かべた。
「彼は、向かいのラーメン屋や隣の餃子屋の動向を探ってる。他にも隣町の方まで調査に行ってるよ」
「え……」
「新メニュー、仕入れ先、客の入り……。全部調べて報告してもらう」
「それって……商店街のスパイ!?」
張さんは大きく頷いた。
「情報は力だよ。ライバルより先に動けば、客はこっちに来る」
俺はしばし絶句した。
それから緊張の糸が一気に切れる。
張さんが裏で犯罪に手を染めていて、もし捕まってしまったら、もう麻婆豆腐を食べられないかもしれないとドキドキしていた。
張さんは再び鍋を振り、軽やかに油を跳ねさせた。
「だから、福龍軒は一番人気。スパイのおかげ」
得意げに笑う張さんを見て、俺は思わず苦笑した。
張さんの本気さが全部この店の味を支えているんだろう。ここまで料理に向き合い、経営戦略を練っているなら、この辺りで負けなしなのは納得だ。
「……なんか、さすがですね」
俺は麻婆豆腐をひと口食べ、ほっと息をついた。
そして思った。このしたたかな店主には、敵わないな――と。
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