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殺人の跡
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それは見たこともない様な殺人現場だ。
酷い臭いだと本田玲子は思った。血の臭い、まき散らされた臓腑の臭い、いつもはひっそりとした路地裏は地獄の様な雰囲気だった。地面にはおびただしい血痕が残り、事件の残虐さをまざまざと見せつけてくれる。悪魔が人を喰った跡だ。
「早朝だから少しはましかしらね」
六月下旬の殺人現場、二人殺された。午前五時、今はまだ涼しい。これが日中の暑い時間だったら、こういった現場に慣れている玲子でも少しは気持ち悪くなったかもしれない。
玲子は濃紺のスーツに身を包み、少し青みがかった髪は肩ほどまで伸びていて、その先端は綺麗に刈り揃えられている。目鼻立ちのはっきりした美しい顔立ちをしていて、スーツの上からでもわかるふくよかな膨らみで一目見れば美女とわかる。
「これ……熊じゃないわよね? 虎……か何かの仕業?」
傍らの制服巡査に尋ねると、彼は口を押えて青ざめながら答えた。
「付近の動物園などの施設から猛獣が逃げたという事はないそうです。それで熊の力でここまでバラバラにするのは無理じゃないかという話ですが」
山に囲まれた夜見市には一応時々熊が目撃されることはある。本州なのでツキノワグマだ。比較的温厚で小柄な熊にこんな事件を起こせる能力は無いように思われる。ヒグマなら幾分か可能性がありそうだが。
「でもこれ……一部喰われてるんでしょ?」
「遺体を回収したところ、一部が無くなっているようです。歯形の様なものも見つかっておりまして、それがどの猛獣や人間とも一致しないとか」
制服巡査も事件の異常性に怯えているようだ。
「被害者の身元は割れそうなのかしら?」
「遺体の損傷は激しかったようですが、遺留品もいくつか見つかっていますし、歯は残っているんで、最悪でも治療痕から特定出来るそうです」
「もう大体の目星、ついてるんでしょ? で……被害者は誰なわけ?」
玲子よりも背が低い制服巡査はやや恐縮したようなそぶりを見せ、キリっと背筋を伸ばし答えた。
「害者のものと思われる携帯電話が見つかっておりまして、一人の携帯電話は粉々に砕けていたのですが、もう一人のものは無事でロックもかかっておらず。持ち主は高校生でした」
「高校生? 高校生が深夜、こんな路地裏にいたわけ?」
「はぁ……」
制服巡査は額の汗をハンカチで拭った。
「所謂、不良グループに属していた少年だったようで、近隣の公園やコンビニなんかで深夜よく見かけられたそうです」
「高校生同士……日本刀かなんかを使って……いやそれはないかしらね」
「分かりません……犯行は深夜に行われていて……その……猛獣の様なものの咆哮を聞いたという情報もあります」
「やっぱり何かの獣?」
玲子はあごに手を当て考え込む。
「ああ……これ一筋縄じゃいかないやつだわ」
玲子は眉を寄せこめかみを押さえた。そして殺人現場を少し離れる。何やらギャーギャーわめいているホームレスと思しき男がいたので玲子は声をかけた。
「この方が目撃者? あたしは刑事です。お話をうかがってもよろしい?」
「ホントに見たんだって、俺は頭なんておかしくなってねえ」
「こらっ暴れるな」
手を振り回すようにして、大げさな身振りで話す男を制服巡査が押さえる。
「この男、坂本彰というこの辺りに住み着いている住所不定の男なんですが、なにぶん興奮しちゃって」
「あんなモノを見ちゃったらしょうがないわ……ねっ、坂本さん」
玲子に呼び掛けられると、彰はおとなしくなる。彼女をつま先から頭まで忙しなく見つめた。この殺伐とした事件現場に似つかわしくない美しい女なのだ。
「俺、嘘はついてねえ」
「もちろん嘘だとは思っていませんわ……何を見たんですか?」
男を安心させるよう、笑みを浮かべて玲子が尋ねた。
「鬼……鬼だよ……そうとしか言えねえ。ありゃバケモンだ」
「その鬼が高校生たちを殺したんですか?」
彰がうなずく、目はキョロキョロと辺りを窺い血走っている。酸欠の様に口をパクパクさせていて、かなり怯えているようだった。
「身長だって三メートルくらいあった……。あのいけ好かないガキ共は一発殴られただけで首が変なふうに曲がったんだ」
「その鬼はどこから来たの? それはわかりますか?」
玲子が彰の震えている手を取る。普段女性と触れ合う機会がないだろうホームレスの男は、少し落ち着かないようだった。やがて玲子を信頼できる人間だと思ったのか、揺れ動いていた目は玲子をじっと見る。
「分からねえ……いきなり湧いたように見えた……暗がりからぬっと立ち上がるみてえに」
「その三メートルの鬼はどんな色でした? 身体がどんな感じだったか見えました?」
彰がつばを飲み込む、妙に大きな音で喉が鳴った。
「黒っぽい金属みてえな感じだった。毛はあんまり生えてなかったように見えた」
玲子と制服巡査は顔を見合わせる。やはり熊ではなかったのか。
「坂本さんはその鬼の咆哮を聞いたんですか?」
彰の目が見開かれる。血走った眼球の視線が玲子と制服巡査の間を行ったり来たりした。
「聞いた……獣でも人間でもねえ……今思い出しても震えがくる……ガキどもを殴り殺した後……吠えて……それからバラバラにして喰ったんだ」
「その一部始終を見てたんですか?」
「見てたっていうか……隠れながらのぞいてた」
「そう……怖かったでしょう」
玲子はもう一度彰の手を取って落ち着かせる。
「鬼がヌッと立ち上がって……ガキを殴り殺して……そんで喰うまであっという間だったんだ」
玲子はうなずいて先を促す。
「それこそ一二分のことだった……おれはそこの曲がり角から覗いて見ていて……それからすぐに逃げた」
「交番で話したことと違いありません」
制服巡査が玲子の顔色をうかがうように上目づかいで引きつった笑みを浮かべた。
「あのお巡りの野郎、俺を頭がおかしくなったやつみたいに扱いやがったんだ。刑事さん……酷かったんだぜ」
彰がすがりつくように握った玲子の手を拝んだ。
「はぁ……当直の巡査が朝の三時に叩き起こされて、そうとう不機嫌だったようですね」
「犯行は零時付近よね? 坂本さんはすぐに警察には連絡しなかったんですか?」
「お巡りは俺たちの事なんか信用しねえ……でもすげえ怖くなって」
「そうでしたか……もう大丈夫ですよ」
「大丈夫……?」
玲子は彰の肩に手を置き、真正面から彼の目を覗きこんだ。彰も吸い込まれるように玲子の瞳を見つめる。
「その鬼が何であれ、猛獣なら始末しますし、人間なら必ず捕まえます」
「刑事さん……良い女だな……信用するよ」
「事件が解決するまで、この付近をうろつくのは危険だわ……どこか安全なところはあるかしら?」
彰は少し逡巡 したのち答えた。
「俺たちによく飯をくれる教会があるんだ……。この近所に、そこでかくまってもらえるか相談してみる」
「何かあったらすぐに警察に相談してください」
「調書は取ったの?」
話を振られた制服巡査は慌てて答える。
「いえっ! まだです」
「そう……これからは坂本さんを丁重に扱って、必要なら食事も取ってあげて」
「へへっ……警察のカツ丼っての一回食ってみたかったんだ」
これも玲子の手腕だろう、彰も普段の様子を取り戻しつつある。
「涙ながらに自白しないでよ」
「そうか……俺は犯人じゃねえしな」
制服巡査に連れて行かれて彰はパトカーに乗った。乗り込む直前に玲子の方を見て、ペコリと頭を下げた。玲子は笑みを浮かべて手を振った。
現場にはすでに鑑識が入って捜査を進めている。玲子は見張りに立っていた警察官を呼んで言った。
「付近に非常線を張って。猛獣がいるかもしれないから、辺りを捜索。もしいたら見つけ次第射殺よ……防犯カメラの解析も急いで」
「はいっ! 了解しました……警部はこれからどうされます?」
「まず対策本部を立ち上げて……それから……夜見の里の伝説でも調べてみようかしら」
「伝説ですか……そういえば過去にも似たような事件があったように思いますね」
「そうね……」
それだけ言い残すと玲子は踵を返した。
酷い臭いだと本田玲子は思った。血の臭い、まき散らされた臓腑の臭い、いつもはひっそりとした路地裏は地獄の様な雰囲気だった。地面にはおびただしい血痕が残り、事件の残虐さをまざまざと見せつけてくれる。悪魔が人を喰った跡だ。
「早朝だから少しはましかしらね」
六月下旬の殺人現場、二人殺された。午前五時、今はまだ涼しい。これが日中の暑い時間だったら、こういった現場に慣れている玲子でも少しは気持ち悪くなったかもしれない。
玲子は濃紺のスーツに身を包み、少し青みがかった髪は肩ほどまで伸びていて、その先端は綺麗に刈り揃えられている。目鼻立ちのはっきりした美しい顔立ちをしていて、スーツの上からでもわかるふくよかな膨らみで一目見れば美女とわかる。
「これ……熊じゃないわよね? 虎……か何かの仕業?」
傍らの制服巡査に尋ねると、彼は口を押えて青ざめながら答えた。
「付近の動物園などの施設から猛獣が逃げたという事はないそうです。それで熊の力でここまでバラバラにするのは無理じゃないかという話ですが」
山に囲まれた夜見市には一応時々熊が目撃されることはある。本州なのでツキノワグマだ。比較的温厚で小柄な熊にこんな事件を起こせる能力は無いように思われる。ヒグマなら幾分か可能性がありそうだが。
「でもこれ……一部喰われてるんでしょ?」
「遺体を回収したところ、一部が無くなっているようです。歯形の様なものも見つかっておりまして、それがどの猛獣や人間とも一致しないとか」
制服巡査も事件の異常性に怯えているようだ。
「被害者の身元は割れそうなのかしら?」
「遺体の損傷は激しかったようですが、遺留品もいくつか見つかっていますし、歯は残っているんで、最悪でも治療痕から特定出来るそうです」
「もう大体の目星、ついてるんでしょ? で……被害者は誰なわけ?」
玲子よりも背が低い制服巡査はやや恐縮したようなそぶりを見せ、キリっと背筋を伸ばし答えた。
「害者のものと思われる携帯電話が見つかっておりまして、一人の携帯電話は粉々に砕けていたのですが、もう一人のものは無事でロックもかかっておらず。持ち主は高校生でした」
「高校生? 高校生が深夜、こんな路地裏にいたわけ?」
「はぁ……」
制服巡査は額の汗をハンカチで拭った。
「所謂、不良グループに属していた少年だったようで、近隣の公園やコンビニなんかで深夜よく見かけられたそうです」
「高校生同士……日本刀かなんかを使って……いやそれはないかしらね」
「分かりません……犯行は深夜に行われていて……その……猛獣の様なものの咆哮を聞いたという情報もあります」
「やっぱり何かの獣?」
玲子はあごに手を当て考え込む。
「ああ……これ一筋縄じゃいかないやつだわ」
玲子は眉を寄せこめかみを押さえた。そして殺人現場を少し離れる。何やらギャーギャーわめいているホームレスと思しき男がいたので玲子は声をかけた。
「この方が目撃者? あたしは刑事です。お話をうかがってもよろしい?」
「ホントに見たんだって、俺は頭なんておかしくなってねえ」
「こらっ暴れるな」
手を振り回すようにして、大げさな身振りで話す男を制服巡査が押さえる。
「この男、坂本彰というこの辺りに住み着いている住所不定の男なんですが、なにぶん興奮しちゃって」
「あんなモノを見ちゃったらしょうがないわ……ねっ、坂本さん」
玲子に呼び掛けられると、彰はおとなしくなる。彼女をつま先から頭まで忙しなく見つめた。この殺伐とした事件現場に似つかわしくない美しい女なのだ。
「俺、嘘はついてねえ」
「もちろん嘘だとは思っていませんわ……何を見たんですか?」
男を安心させるよう、笑みを浮かべて玲子が尋ねた。
「鬼……鬼だよ……そうとしか言えねえ。ありゃバケモンだ」
「その鬼が高校生たちを殺したんですか?」
彰がうなずく、目はキョロキョロと辺りを窺い血走っている。酸欠の様に口をパクパクさせていて、かなり怯えているようだった。
「身長だって三メートルくらいあった……。あのいけ好かないガキ共は一発殴られただけで首が変なふうに曲がったんだ」
「その鬼はどこから来たの? それはわかりますか?」
玲子が彰の震えている手を取る。普段女性と触れ合う機会がないだろうホームレスの男は、少し落ち着かないようだった。やがて玲子を信頼できる人間だと思ったのか、揺れ動いていた目は玲子をじっと見る。
「分からねえ……いきなり湧いたように見えた……暗がりからぬっと立ち上がるみてえに」
「その三メートルの鬼はどんな色でした? 身体がどんな感じだったか見えました?」
彰がつばを飲み込む、妙に大きな音で喉が鳴った。
「黒っぽい金属みてえな感じだった。毛はあんまり生えてなかったように見えた」
玲子と制服巡査は顔を見合わせる。やはり熊ではなかったのか。
「坂本さんはその鬼の咆哮を聞いたんですか?」
彰の目が見開かれる。血走った眼球の視線が玲子と制服巡査の間を行ったり来たりした。
「聞いた……獣でも人間でもねえ……今思い出しても震えがくる……ガキどもを殴り殺した後……吠えて……それからバラバラにして喰ったんだ」
「その一部始終を見てたんですか?」
「見てたっていうか……隠れながらのぞいてた」
「そう……怖かったでしょう」
玲子はもう一度彰の手を取って落ち着かせる。
「鬼がヌッと立ち上がって……ガキを殴り殺して……そんで喰うまであっという間だったんだ」
玲子はうなずいて先を促す。
「それこそ一二分のことだった……おれはそこの曲がり角から覗いて見ていて……それからすぐに逃げた」
「交番で話したことと違いありません」
制服巡査が玲子の顔色をうかがうように上目づかいで引きつった笑みを浮かべた。
「あのお巡りの野郎、俺を頭がおかしくなったやつみたいに扱いやがったんだ。刑事さん……酷かったんだぜ」
彰がすがりつくように握った玲子の手を拝んだ。
「はぁ……当直の巡査が朝の三時に叩き起こされて、そうとう不機嫌だったようですね」
「犯行は零時付近よね? 坂本さんはすぐに警察には連絡しなかったんですか?」
「お巡りは俺たちの事なんか信用しねえ……でもすげえ怖くなって」
「そうでしたか……もう大丈夫ですよ」
「大丈夫……?」
玲子は彰の肩に手を置き、真正面から彼の目を覗きこんだ。彰も吸い込まれるように玲子の瞳を見つめる。
「その鬼が何であれ、猛獣なら始末しますし、人間なら必ず捕まえます」
「刑事さん……良い女だな……信用するよ」
「事件が解決するまで、この付近をうろつくのは危険だわ……どこか安全なところはあるかしら?」
彰は少し逡巡 したのち答えた。
「俺たちによく飯をくれる教会があるんだ……。この近所に、そこでかくまってもらえるか相談してみる」
「何かあったらすぐに警察に相談してください」
「調書は取ったの?」
話を振られた制服巡査は慌てて答える。
「いえっ! まだです」
「そう……これからは坂本さんを丁重に扱って、必要なら食事も取ってあげて」
「へへっ……警察のカツ丼っての一回食ってみたかったんだ」
これも玲子の手腕だろう、彰も普段の様子を取り戻しつつある。
「涙ながらに自白しないでよ」
「そうか……俺は犯人じゃねえしな」
制服巡査に連れて行かれて彰はパトカーに乗った。乗り込む直前に玲子の方を見て、ペコリと頭を下げた。玲子は笑みを浮かべて手を振った。
現場にはすでに鑑識が入って捜査を進めている。玲子は見張りに立っていた警察官を呼んで言った。
「付近に非常線を張って。猛獣がいるかもしれないから、辺りを捜索。もしいたら見つけ次第射殺よ……防犯カメラの解析も急いで」
「はいっ! 了解しました……警部はこれからどうされます?」
「まず対策本部を立ち上げて……それから……夜見の里の伝説でも調べてみようかしら」
「伝説ですか……そういえば過去にも似たような事件があったように思いますね」
「そうね……」
それだけ言い残すと玲子は踵を返した。
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