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序章

柳薄荷の香水

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 深夜〇時過ぎのバイト帰り、いつものように最寄り駅で電車を降りた。最近は夜の冷え込みもなくなり、歩き出すとともに思わず腕を摩ってしまうということもなくなった。長袖を着ていればちょうどいいくらいで過ごしやすい。
 改札を抜け、徒歩一秒のコンビニを通り過ぎ、今日は買うものはないなと考えながら、大型スーパーを横目でチラ見をしつつ歩いていく。角にあるドラッグストアを右に曲がり、中路へと入る。一車線の道路、右側には公園、それに連なるように歩道があり、マンション、コーポラスが多くなっている。左側は、戸建て、単身用のアパートをよく目にする。
 何気なく夜空を見上げると、ひとつ、ふたつと星を追っていた。子どもの頃、キャンプに行ったときのことを思い出す。春の大曲線、北斗七星の柄のところから線を伸ばし、うしかい座のアークトゥルス、おとめ座のスピカ、これを結んだ大きなカーブが春の星座の道案内だと教えてもらった。そのことしか覚えていないけれど、今でもたまに探してしまう。もしかしたら、あれがそうなのかな? 懐かしさにふと笑いが込み上げる。でも、ひとりでニヤけていたら怪しい奴だよな? と自問自答する。この時間、行き交う人はほとんどいないとわかってはいるけれど、平然を装うように前を向いた。足を上げた瞬間、T字路に人が立っているのが見えた。俺の様子を見ていたのか口元がニヤけていた。気まずさから、すかさずスマホに目を向けた。何も見ていないと自分に言い聞かせ、早々に通り過ぎようとしているのに、話しかけられてしまった。
「ようこそお待ちしておりました。こちらへどうぞ」
 そんなことを言われたら顔をあげるしかない。何? と思い見ると、もちろん、目が合った。それはまだ流れ的には普通だと思うけれど、おっさんだ。そのおっさんの格好といったら、何と言えばいいのか、この時期に袴のような……でも、よく見るとタキシードにも見えなくない。なんだかおかしな格好をしている。
 もう一度目が合うと、ニコッと微笑みを向けられた。一応礼儀というか、道理というか、半笑いの会釈を返して前を向き直した。関わらないようにしようと、気持ちをリセットするため、この道を初めて通っていますという顔を繕い歩こうとした。それなのに、おっさんがまた誘うかのように手を右に回した。
「さあ、参りましょう!」
 勘違いと思いたかったけれど、完全に俺に言っていた。ヤバいやつだなと自分の第六感が言っている。もし、アニメのおバカキャラなら、大口を開け瞳と舌が飛び出し、ハートの形をした心臓が、胸の中から光を放ち、ドックンドックンの音に合わせて、伸び縮みを繰り返しているところだ。
 体中の毛穴から汗が流れ出す。決壊した川なのかと聞きたくなるくらい、目が開けられない。何度も何度も素手で汗を拭う。かすかに目の前が開けた。
 心の中を察しられるのは避けたかった。湿ったTシャツも、元々こんなデザインですと何食わぬ顔を見せ足早に歩いた。きっと、競歩の世界新記録が出るんじゃないかと言わんばかりの、勢いだったはず。三〇メートル程来たところで立ち止まった。後ろを振り返り、追ってきていないことに安堵した。深呼吸をして息を整え、再び汗を拭う。そこで、ふと気がついた。
 家にお茶がない。
 スーパーを通り過ぎたときには、すっかり忘れていた。戻るの? 頭の中で小さな葛藤始まった。十秒いや、一分ほど悩んだかもしれない。あのT字路を曲がった先にコンビニがある。そこが一番近い。不本意だけれど、遠回りをすればきっとおっさんには出くわさない。それを願うしかなかった。
 コンビニから出て、あの場所におっさんがいるか遠目から確認した。胸を撫で下ろす。
 いない!
 俺を追ってどこかへ行ってしまったのか、それとも単に帰ってしまったのかはわからない。ただとりあえず言えることは、本当によかった。
 いないのなら、いちいち遠回りをするのもバカらしい。素直にまたこの道を通って帰ろう、そう思い歩いていたのも束の間、T字路を曲がると今度は後ろの方から声が聞こえてきた。振り返るとさっきのおっさんとは似ていないけれど、変な格好をしたふたり組がこちらへ向かって歩いてきていた。一晩に、二回も変なことに出くわすなんてありえないよと、心の中でつぶやき、急足で歩いた。
「ちょっと待ってよ~!」
「どこ行くの~?」
 …………。
 家に帰りますけど……何か?
 今日、何かやらかしたことでもあったのかと、一日を振り返ってみた。授業がなかったため、フルでバイトをしていた。オーダーミスもない、ジェラートもチョモランマだったし、カフェラテもダブルハートとリーフで上出来だった。唯一言うなら、寝坊したことくらいだ。でも、アーティストの早着替えよりも遥かに素早く支度して、ギリギリ出勤時間に間に合ったし、何も問題ないはず。
 じゃあ、どうしてこんな意味のわからないことが続くんだろう? ……考えてもわからない。
「ちょっとどこ行くのって」
 背筋が凍るってこういうこと? ひとつ勉強になったね? ノートにメモしなくちゃ! あまりの驚愕に思考がおかしくなったのか、現実逃避を図ろうとしてしまった。
 右肩を掴まれていた。しかも痛い、結構な怪力だ。
「お前は本当にバカものだな」
 初めて会ったというか、ストーカーなのか知らないけれど、そんな奴らにバカ呼ばわりされる覚えはない。
「バッバカっていうか、何が何だかわかんないですよね~」
 言ってしまった。何も言わずそのまま穏便に済ませたらよかったのに、やられたらやり返したい性分というか、黙ってるのは男が廃る、ちょっと古臭いかもしれないけれど、言われたままは絶対に嫌だ。
「お前がわかんねーよ」
「お前こそしっかりしろよ」
莎緒しゃお、お前なんて言ったら怒られちゃうよ」
楪那ちゃな、そーだね。琉一様だね」
 さま? 今、琉一様って聞こえた気がする。もしかしたら、アニメやゲームの世界と混合しているのかもしれない。だからこの格好はコスプレなんだ。へ~、さすがゲームの世界感、こんな服装普通ならしない。
 どうして俺が的にされているのかは、わからない。けれど、そんな趣味は俺にはないし、そんなオフ会的なものに誘われた覚えもない。どうか勘弁していただきたい。
「じゃあ、仕切り直して。ゴホンッ、琉一様お迎えに上がりました」
森之介しんのすけも待っておられる」
 ふたりとも深々と一礼をした。今がチャンス! と言わんばかりに全速力で走った、はずだった。それなのに、なぜだか前に進まない。そういえば首元が少し苦しいし、軽く引っ張られる感じもする。後ろを向くと、襟を掴んだふたりが、笑顔で立っていた。
「お前は本当にバカ野郎だな」
「あっ、マリッジブルーってやつか」
「莎緒、何なのそれ?」
「結婚前に気分が落ち込んだり食欲がなくなったりすることだよ」
「へ~、で、お前もそうなのか?」
「えっ? 俺ですか?」
 平然とした態度に少し恐怖を覚えながら答えた。ふたりはキョロキョロと周りを見回した。
 叩かれた。髪の長い奴が手のひらを上から下に振り切った。
「イデッ!」
「お前以外誰がいるの?」
「いや、暴力は、俺も……」
 許せない!
「おい、これはツッコミだぞ」
「そうだ、お前が教えてくれたんだろ?」
 ほんの気持ちだけれど考えてみた——記憶にない。そもそもこのふたりに会ったのも初めてだし、完全に人違いだ。もし会ったことあるのなら、絶対に忘れない、こんな強烈な奴ら。
「いや、たぶんってゆーか、絶対初対面ですよね?」
 髪の長い奴が再び手を振りかぶった。反射的に頭を下げ、腕を防御するように自分の目の前にやった。
「あっ! 御守りつけてない!」
「あっ! 本当だ、つけてない!」
 ふたりは俺の体の周りを回り舐め回すように見て、ひそひそ話を始めた。
「こういうこともあろうかと森之介に渡されてたものがある! 楪那出してやりない 」
「お任せあれ」
 何やらバッグから取り出した。香水と飴だろうか、手に持ち満面の笑みを浮かべ……いや、悪巧みをしているようなドS的笑顔だ。今から何をされるのか、恐怖で生唾を飲み込んだ。
「あのオフ会とかじゃないの? あの俺遊んでなくはないけど、そのそーゆー、謂わゆるお薬的な? そのほら、ねっ? やったことないし、これからもやるつもりはないんだよね?」
 精一杯の言葉を吐いた。
「お前は何を言ってる? バカだとは思っていたが、本当にバカなんだな?」
「お前はいい奴だよ。でもバカじゃ世界は成り立たないぞ」
 世界とか、そんなことどうでもいい。ここから逃げたいなのに、体が固まってしまったかのように、身動きが取れない。こんな変な奴らに捕まって、人生棒に振ることになるなんて考えられない。どうか神様、いるならお助けください! 目を瞑り願った。
 頬に強い刺激が走り、口が開くと、なんだからわからない飴を喉の奥に突っ込まれ、口を押さえられ思いっきり振られた。飲み込むしかなかった。何も抵抗できずにいるとメントールというか、薄荷のような香りが漂ってきた。
 急に身体が軽くなったようにフラつき出した。
「あっ、間違えた! こっち飲ませるんだった」
「あっ! まっ、いいんじゃない? 琉一様がわかればいいわけだから」
「莎緒、楪那、間違いなんて許さないからな」
 なんだかこのふたりのことをわかるような気がしてきた。そう思うのも数秒で意識が飛んだ。


 眩しい日差しと、森林浴をしているかのような、ウッディとリーフのまったりとした清涼感、花畑の中にいるような甘酸っぱい香りが鼻をくすぐる。
 目が覚めた。デトックスでもしたかのように体が軽く、すっきりしている。
 ……ここはどこだ? 背伸びをして身体を起こすと、間違えなく自分の部屋ではなかった。左右を見返し前を向き直しても、どこなのかわからない。昨日のことを思い出す。
 ……あれっ? 変な二人組に捕まって……。部屋を見定めるように、左から右へゆっくり首を動かす。最後、何かおかしなものが見えた気がして、今度は右から左へゆっくりと首を動かした。すぐに正体に気づき、半分くらいきたところで、俊敏にその正体に視線をやった。
「なんで?」
 勝手に声が漏れてしまった。
 見なくても触らなくてもわかったけれど、萎えた。気持ちいい寝起きに、大喜びだったのに、一瞬で萎えた。
「おはようございます。よく眠れましたか
?」
「えっ? はい」
 あまりのホラーな状況に、思考回路がうまく機能していない。
「琉一様、早速ではありますが、そろそろお着替えを」
「……えっ? 着替え?」
 着替えをさせてどうするつもりなのだろうか、恐怖で何もできない。……様? 今、あのおっさんが琉一様と言ったように聞こえた。
「琉一様?」
 やっぱりだ。
「ちょっと待った!」
 おっさんと自分をベッドで挟むようして、立った。どーしたらいいのか、右手を前に出しながら、距離を保つようにした。
「琉一様、その、何か穿くものを」
「だから、そのりゅういちさま……何?」
 おっさんの顔を塞ぐような仕草に、違和感を覚えて、自分を見た。
「わっ! なななななんで?」
 急いでベッドから枕を手に取り、隠した。もちろんあらわになってしまった大事なムスコをだ。
「昨夜はいい時間だったようで……」
「はっ? 何を……ってか、あんた俺に何したんだよ? 何させようとしてんだよ?」
「何も……あれっ? 琉一様、お守りをお持ちでない?」
「お守り?」
「やれやれ、莎緒、楪那に任せた私もダメでしたね」
 何か、ポケットを探すように手を入れていたけれど、見つからなかったようだ。
「仕方ない。ゆい様に会えば解決しますので、先に準備をさせていただきます」
「ちょっと待った、俺をどーする気なんだ」
 恐怖で声が震える。
「琉一様、今は何かわからないかもしれませんが、すぐに正気になりますゆえ、それまでしばし、お待ちを」
 そういうと部屋を出ていってしまった。緊張が一気に解けた。安心したわけではないけれど、恐怖の対象がいなくなり、気持ちが楽になった。
 はずだったのに、三秒後には「琉一様!」と別の三人組が入ってきた。どうしよう、漏らしそうだ。
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