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1.三日月の夜に

三日月の夜に

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 時間になるまで、暇潰しがてら街中を歩いていた。左側、八百屋を通り過ぎると、すぐの信号が青だった。今のうちに渡ってしまえと思いながら、駆け出したところに声をかけられた。
「えっ?」
 止まって後ろを振り返ると、カフェ三日月のスタッフのお姉さんがいた。
「あっ、やっぱり」
「あっ、どーも。今日はバイトじゃないんですか?」
「今日は、休みなの」
「残念です。今から行こうとしてて」
「好きだよねー。まあ、いいカフェだから通いたくなる気持ちもわかる」
 道の端に移動して少し話した。
「まあ、ちょっと調べたいことがあって」
「へー、勉強熱心なんだ」
 頭から爪の先まで、舐め回されるかのように見られた。
「いや、勉強ってゆーか、まあ。あっ、ていうか、あのカフェって三日月となんか関係あるんですか?」
「三日月? うーん、確かあそこの土地、地主さんが、ほら、三日月の絵飾ってあるでしょ? それを飾ってくれるならここを貸すよ? 的な……」 
「そーなんすね。地主さんか……」
「何? 絵に興味があるの? 勉強って絵の勉強?」
「いや、ぜんっぜん違います!」
「違うんだ」
「まあ、絵じゃなくて、小説書けたらなーなんて」
 遠過ぎる夢を言ってしまったことに、恥ずかしさが込み上げ、半笑いでごまかす。
「いーよ! 頑張りなよ。で、誰か目標にしてる人とかいるの?」
「いや、まだよく知らないんすよね?」
「へーそっか、じゃあまずはそこからだね」
「っすね」
「ごめんね、引き止めちゃって」
「いや、全然」
「また、カフェ最高なクロワッサンで」 
「えっ? いや、はい」
 なぜ、〈最高なクロワッサン〉を知っているのだろう? まさか俺、狙われている? もしかしたらSNSを見てくれているのだろうか? 嬉しさ半分気まずさ半分、今度SNSを見ているのかどうなのか、聞いてみようと思う。……あれっ? 何か物足りない感覚がある。お姉さん、お姉さん……あっ! 名前すら知らない。どうなのか聞く前に、まず、名前を聞こうと思った。

 駅を降りて少し歩くと緑道がある。両脇にジグザグに桜の木が植えてあり、初めてここを通ったときは、薄ピンクのカーテンが広がっているようで、涼しくて気持ちよくて歩くだけで癒されるようだった。今は、新緑の生き生きとした笑い声が、風が吹くたびに聞こえてくるようだ。寒くもなく、暑くもなく、ちょうどいい気温が一層気分をなだらかにしてくれる。
 半分を過ぎたあたり、毎回思い浮かんでくる、……桜餅。桜の木に囲まれていると、望まなくても鼻の中に吸い込んでしまう。まったりとしたあんこの甘みとそれと調和する巻かれた葉の塩味、コシのあるしっとりとした餅。三一体とはまさにこのことだ。カフェ三日月にも4月にはメニューにあった。桜餅風クロワッサン、最高だった。本家とはまた違ううまさが、思い出すだけでよだれが出てくる。
 そんな妄想に浸りながら歩いていると、夕焼けが少しずつ、クリームソーダのアイスが溶けていくように、青紫に飲み込まれていく。もうそろそろだと少し小走りでカフェまで急いだ。
 やっと見ることができた。
 足を止めて額の汗を拭う。カフェを後ろに、車道を挟みその先に広がる景色に目を奪われた。
 ほんのり茜色を地面すれすれに残し、その少し上には、綺麗に弧を描いた三日月が浮かんでいる。消えてしまいそうなのに、眩しいくらいの輝きが、穏やかな夜の始まりに、神秘的な物語のカケラを匂わせる。
 丘を削ったような、段差のある地形が見せてくれる、街の中の山岳ビュー。吸い込まれそうな景色を写メに収めた。
 「いらっしゃいませ。こちらの席にどうぞ」
 カフェに入った。いよいよだ、今日聞こえてくるはず。落ち着ける場所のはずなのに、自分の仮説通りに歌が聞こえるのか、聞こえないのか、心臓が静かに、けれど、着実に激流のように、心拍数を上げていく。初デートのように緊張している。
「お待たせしました。水コーヒーのももショットソーダ割です」
 新メニューを頼んでみた。透明なコーヒーに濃厚なももピューレを炭酸で割ったものだ。どんなものなのか想像もつかないけれど、【新】とあるとどうしても試したいという好奇心に勝てない。
 味は、透明なのに、しっかりとしたコーヒーの香りと苦味、ネーミングの通り、まるごと桃を濃縮したような甘み、ちょっと大人な雰囲気だ。フレーバーコーヒーというよりかは桃の中にすっきりとした濃いコーヒーを感じる。炭酸のシュワシュワが喉越しまで旨味を残してくれる。
 天才か⁉︎ 天才だ! ここの商品開発力ハンパない! 来実ちゃんと普通にデートにこようと思う。
 すっかり、ドリンクに感動をして満足していた。当初の目的はすっかり炭酸が弾けるように忘れかけていた。


  泣きたいならいいよ
  僕が隣にいてあげる
  ここに来てよ いつでも 
  ねぇ ひとりぼっちしないでよ

  失敗ばっかドジ踏んでも
  いつも笑っているね
  そんなに頑張らなくていいんだよ
  ほら ハグしようよ


  まごころが心をさらう
  優しくて煌めいて隙間を埋める
  本当の強さを見せてくれた
  今ならI see   あなたが好きだと


 完全にやる気スイッチがオフになっていたのに、バチンッと体の中で音が鳴ったかのように、スイッチがオンになった。目を見開き、あたりをキョロキョロと見回した。誰もいない……いる! そりゃーお客さんがいる。でも、歌ってる人や、イヤホンから音漏れしている感じの人はいない。
 一体、どこから聞こえているんだろうと頭を傾ける。


  会いたいから今は
  君の待つ部屋に急ぐ
  コンビニ寄ってアイスクリーム
  ふたりで食べ合いっこしよう

  くだらないケンカをして
  バカな意地を張っても
  いつでもただ寄り添ってくれるよね
  ほら キスしようよ

  
  さいあいを心に願う
  恋しくて愛しくて身体を奪う
  偶然に出会った奇跡のよう
  今でもI know あなたが好きだと


 自然と目を瞑り、聞き入ってしまっていた。クロワッサンの香りのように、心も身体も、全身で吸収したくなる。
 やはり、三日月に何かがあるんだと確信した。不意に後ろに飾ってある三日月の絵を見た。何かがおかしい、いつも見るよりもリアルな感じがした。 絵というよりも写真……映像のような雰囲気だ。いや、そんなはずない、歌に聞き入り過ぎて、錯覚が見えているだけだと思いたかった。
「ぼくはみづきしんと、5才」
 いきなり子どもの声が聞こえてきた。何? おばけ? 座敷童? 額に汗が滲んできたのがわかった。生唾を飲み込む。目を閉じて心の中で唱えた。
 オレノマワリニハダレモイナイ。
 オレノマワリニハダレモイナイ。
 オレノマワリニハダレモイナイ。
 よしっ、と目を開けた。
「こんばんは!」
「わあぁー!」
 周りを最速でキョロキョロした。けれど、子どもなんてない。それに、誰一人としてこちらに気づいていない。スタッフも他の客もこんなに大声を出したのに、何もなかったかのような顔をしている。
 どういうこと……?
 落ち着こうと思い、ドリンクを一口飲んだ。
「何のんでるの?」
「えっ? コーヒーのジュース」
 左右を軽く横目で見る。
「おいしいの?」
「……おいしいよ」
 俺は誰と会話をしているのかわからなかった。怖さでここを動くことができない。こういうのは逆らわない方がいいのかと思い、とりあえず返事をしている状態だ。
「ぼくのこと見えるの?」
 見えるわけない、見たくないのよ。お願いだから痛いことはしないで……。声を探すように前、横、後ろと順番に確認していった。
「見え……るよ」
 いた。小さな男の子が絵の中でこちらに手を当てて、立っていた。その途端怖さはなくなり、椅子の上に立ち、男の子の手に自分の手を重ねていた。
 一瞬、数秒、もしくはそれ以上なのかもしれない。絵が迫ってきたと思ったら、夜空の下に立っていた。どこかの山かキャンプ場なのかわからないけれど、見上げると、星が空一面に広がり、山の下の方を見ると沈みそうな三日月が見えた。
 何やら左手に温もりを感じた。見てみると、絵の中にいた男の子と手を繋いでいた。
「しんと?」
「うん」
「初めまして」
「はじまめして」
 思わず笑ってしまった。
 しんとに目線を合わせるようにしゃがみ込み、微笑んだ。
「歌ってたのはきみだったんだ」
「うん、しんとはいつも歌ってるよ」
「なんで、歌ってるの?」
「うーん、しんとはいつもひとりだからだれかと遊びたくて」
「ひとりで何してるの?」
「うーん、わかんない」
 わかんない……か、それがわかっていたらここにいないか? というか、ここはいったいどこなんだろう? 辺りをぐるりと見渡したけれど、草と木と花と、空と星と三日月しかない。
 ……絵の中に閉じ込められているってことなのだろうか。映画の世界じゃあるまいし、そんなことあるはずない。いや、現実に俺はそこにいるんだけれど……夢なのかもしれない。それにしてはリアルで、ちゃんと自分自身の感覚がある。
「そういえば、お父さんとお母さんは?」
 そうだ。どこかに親がいるはずだ。 
「いないよ。ママは月にかえったって」
「月に?」
「うん」
 ……どういうことなのかわからない。というか、お父さんお母さん言っている場合じゃなくて、どういう状況なのかすらわからない。絵の中なのか、それともパラレルワールド的なやつなのか、どうやったら元に戻るのかさえわからない。
 んー……、もっと勉強していたらよかったのかと、少し後悔した。東大とか行けるくらい頭がよかったなら、この謎が解けたかもしれないのに。
「ねぇ、おにいちゃん。腕枕して」
「腕枕? いいよ」
 雑草の上に寝転がる。ひんやりとした土と柔らかな草の匂いが心地よかった。満点の星空に、子どもの頃を思い出す。こんな風に、夜空を見上げるのは何年振りなんだろう。今のように、人生をどうしようか、どうしたらいいかなんて考えてもなくて、ただただ、毎日を全力で走り回っていた。それがあるのも父と母のおかげなんだよなと、初めて手に触れたときのことが、頭に浮かんだ。
 そんなことを考えながらボーッとしていたら、しんとと一緒に眠ってしまっていた。
「お客さま、ラストオーダーですけど、ご注文はありますか?」
 ……人の声に目が覚め、顔を上げると一瞬、どこだかわからなかった。キョロキョロと周りを見るとカフェ三日月だと気づいた。あれっ? しんとは? と思い後ろを振り返ると、いつもの三日月の絵が飾られていた。
「あの、ほかにご注文は……?」
 あまりに挙動不審だったのか、男性スタッフが変な顔をしていた。
「えっ? いや、大丈夫です。すいません」
「はい、ごゆっくりどうぞ」
 夢……? いや、違う、夢なんかじゃない。しっかりと覚えている。寝転がったときの草の匂いも温度も。何よりも、しんとのあの小さな身体の息遣いも、頭の重さも腕にしっかりと感覚が残っている。
 絵を見た。
 絵に触れた。
 しんと、また会いにくるから。そう言ってカフェを後にした。
 自分の頭ではどういうことなのか、全く理解できないけれど、三日月の夜に何かが起こるってことは確かだ。
 来月また、会いにこよう。
 しんとはどうなったのか、わからないし、俺自身何がどうなっているのか、何ひとつわからない。でも、しんとに寄り添ってあげたい。ひとりでいるとしたらきっと、寂しい思いをしているから。
 何ができるのかはわからない。でも、一緒にいてあげることはできる。
 
 夜空にはもう三日月はなかった。
 三日月の出てる時間だけ……しんとと会えるのかな?
 今度、もし、また会うことができたなら、楽しいことを話してあげたい。それに、くたくたになるまで遊んであげたい。
 俺がそうだったように、きっとしんともひとりでいるなら、心に冷たい雪が降っているはず。
 その雪を俺が溶かしてあげたい。

 待っててね、しんと。
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