氷の令嬢と葡萄酒の記憶

Yuki

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氷の令嬢と葡萄酒の記憶

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第一章:聖マルティヌスの火影
 葡萄酒の香りが私の心を裏切った。あの夜、母の形見である銀の杯に注がれたボルドー産の葡萄酒は、深紅で、まるで血のように重かった。
 八歳の秋、母は楓の森で私に葡萄酒を飲ませてくれた。薄く水で割ったそれは、甘くて柔らかく、彼女の膝の上で聞いた歌が耳に残っている。
「葡萄酒は愛の味よ、リアナ」母は笑いながらそう言った。彼女にとって、葡萄酒は家族の絆であり、私への優しさだった。
 だが、母を疫病で失い、十四歳で初恋に裏切られた私は、その言葉を信じられなくなった。
 ヴァルモントの古城で聖マルティヌスの祝宴が始まり、楓の葉が石壁に燃えるように映えた。貴族たちは笑い合い、燭台の火が揺れて仮面を浮かび上がらせる。私は二十二歳、社交界で「氷の令嬢」と呼ばれ、誰もが距離を置く。冷たく鋭い言葉と、近寄りがたい瞳のせいだ。
 父は私を老貴族に売りつけ、領地を救おうと囁く。その言葉を聞くたび、愛のない取引に縛られる恐怖が胸を締め付け、母の歌が耳に蘇る。葡萄酒は愛だったはずなのに、父の手には金と裏切りの味しかない。
 革の靴音が広間に響き、カイル・ド・レオンが現れた。二十五歳、農民出身の騎士だという。粗末な革鎧に埃が付き、素焼きの瓶を握っている。
「楓の森の葡萄酒だよ。修道士に教わったやり方で育てた葡萄さ」
 彼の緑の瞳は森の奥を覗くようで、私は冷たく笑った。「修道士に教わった?そんなもので私の舌を満足させられると思ってるの?」だが、母が楓の下で歌った子守歌が胸に刺さり、息が詰まった。
 彼は私の言葉を聞き流し、黙って瓶を私の前に置いた。社交界の誰もが避ける私に、彼だけは臆せず近づいてくる。その純粋さが、苛立ちを募らせた。私は瓶に触れず、ただ見つめた。
 そこへ、絹のマントを翻し、ギヨーム・ド・ラヴァールが舞い込んだ。二十八歳、ボルドーの貴族。金髪が燭光に揺れ、青い瞳が私を捕らえる。「麗しき令嬢、貴女にはボルドーの初搾りが似合う。粗野な男の飲み物など、貴女の気品を穢すだけだ」彼の声は甘く、貴婦人たちがため息をつく。
 私は知っている。その目は私の領地を貪る狼の輝きだ。彼が銀の杯を差し出し、私の前に置いた。
「気品を穢す前に、私を父の金で売る気でしょう?」と突き放すと、彼は笑みを深めた。
「令嬢、それは名誉ある取引だよ」彼の言葉もまた、愛を踏みにじる響きだった。私はその杯にも手を伸ばさず、冷たく見据えた。
 宴は熱を帯び、吟遊詩人が恋の歌を歌う。私は母の形見の銀の杯を握り、窓辺に立つ。楓の葉が夜風に舞い、母の声が響く。「愛は静かに育つものよ」
 私は呟いた。「そんなもの、信じない」指が震え、母の形見の杯からボルドー産の葡萄酒が零れ、床に赤い染みを作った。カイルの緑の瞳とギヨームの青い瞳が頭をよぎり、なぜか苛立った。
第二章:葡萄酒の審判
 祝宴の二日目、霧が楓の森から城に流れ込んだ。広間で吟遊詩人が恋の歌を歌い、貴族たちが輪舞を踊る。私は壁に凭れ、母の形見の髪飾りを手に持つ。
 十四歳の夏、彼がくれた葡萄酒は甘かった。「君を愛してる、リアナ」貴族の子弟だった彼は、父の命令で別の令嬢を選び、私を捨てた。あれ以来、葡萄酒を飲むたび裏切りの味がする。父が老貴族との結婚を押し付けるたび、同じ味が喉に蘇る。母が教えてくれた「愛の味」は、どこか遠くへ消えた。
 ギヨームが銀の杯を掲げ、哄笑した。「名誉を賭けて勝負だ。葡萄酒で優劣を決めよう。勝者は令嬢の輪舞を得る」
 貴族たちが喝采し、私は冷ややかに見つめた。彼があの銀の杯を手に持つ。「味わえ、令嬢。これが私の誇りだ」
 私は受け取り、口に含んだ。濃厚で舌に絡みつく甘さと酸味が、社交界の虚飾を映し出す。十四歳の彼がくれた葡萄酒と同じ味が喉を焼き、私は目を閉じた。裏切りが蘇り、吐きそうになった。彼が私に近づくのは、私を利用する打算からだ。
 カイルが静かに木の杯を差し出した。「楓の森で育てたよ。修道院で習ったやり方でね。味見してくれ」私は渋々受け取り、一口飲んだ。素朴で柔らかな甘さが広がり、楓の香りが鼻腔をくすぐる。母が森で私に飲ませてくれた葡萄酒に似ていて、子守歌が響いた。八歳の私が彼女の膝に凭れ、笑い合った記憶が浮かぶ。涙がこぼれそうになり、私は杯を置いた。彼が近づくのは、私を癒そうとする純粋さからなのか。
「どちらも悪くない」と私は言った。
 ギヨームが勝ち誇る。「私の勝利だ、令嬢。さあ、輪舞を」彼が手を差し伸べ、貴族たちが息を呑む。
 私は目を細めた。「勝負の意味を決めるのは私よ。私の輪舞は誰にも渡さない」
 ギヨームの手が宙で止まり、笑みが凍る。
 カイルが穏やかに言う。「俺は勝ち負けより、君に届けたかっただけだ」
 私の指が木の杯を強く握り、軋む音が響いた。
 カイルの葡萄酒の味が胸に残った。ギヨームの銀の杯は裏切りを運び、カイルの木の杯は母の愛を連れてきた。私は輪舞を踊らない。誰も私の手を奪えない。私は髪飾りを握り、中庭に逃れた。涙が零れ、初めて思った。もう一度、信じたいかもしれない。
第三章:楓の誓い
 祝宴の最終日、楓の森に朝霧が漂う。私は中庭に立ち、カイルと向き合った。彼が言う。「俺は修道院で葡萄酒を作った。血を流さず、心を癒すためにさ。もう一度、味見してくれ」
 私は木の杯を受け取り、飲んだ。楓の香りが広がり、母の声が響く。「葡萄酒は愛の味よ」八歳の私が母の膝で感じた温もりが蘇り、十四歳の裏切りが遠ざかった。
 私は涙をこぼし、彼に吐き出した。「愛を信じられない。彼は私を裏切った。父は私を売る。誰も守ってくれなかった」
 カイルがそっと手を握る。「俺は君を守るよ。裏切らない」その温もりに母の抱擁が重なった。
 そこへ、ギヨームが剣を手に現れ、叫んだ。「農民上がりが令嬢を惑わすな!彼女は私のものだ!輪舞は私の権利だ!」
 貴族たちが集まり、ざわめく。私は木の杯をもう一口飲んだ。母の歌が胸を満たし、私は静かに言った。「ギヨーム、私の輪舞は踊らない。あなたの名誉は富の鎖。私は癒しを選ぶ」
 彼は剣を落とし、踵を返した。
 翌朝、楓の森でカイルが新たな木の杯を差し出した。「俺は君を守るよ。誓う」
 私は受け取り、味わった。素朴な甘さと楓の香りが母の愛を運んできた。私は髪飾りを外し、彼に渡した。「氷の令嬢も、愛を信じる朝を迎えたわ」修道院の鐘が鳴り、楓の葉が足元に舞い落ちた。葡萄酒の香りが私を包み、初めて、私は裏切りの味を忘れた。
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