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第一話:人の口に戸は立てられぬ《unconscious》

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 世田谷区には烏山川緑道や蛇崩川緑道といった、昔は川だった場所に蓋をして(暗渠あんきょ、というらしい)緑道としている場所がいくつか存在している。それゆえにそれらの緑道には、かつては川であった名残として、その道中のところどころに橋の名前が付けられているのだが、橋という名前が付いている割には、見た目上橋らしいところはあまりなく、小さな交差点になっていたりと、言われてみれば、という程度のものである。
 そして豪徳寺駅(あるいは山下駅、東急世田谷線の駅が真向かいに存在しているのだ)の近くにも、北沢川緑道という、これもまた暗渠によって生まれた緑道が通っており、カレー屋を飛び出した風凪が、先に出た幕上に追いついたのが、その北沢川緑道の山下橋のあたりであった。


 商店街から一つ入ったところを通っていることもあり、午後九時を回ろうとしているその辺りは、電灯があるとはいえ、かなり暗くなっていた。
 その緑道を、カレー屋を出た時と同じようにおぼつかない足取りで歩く青年を、視線の先に捉えた風凪は、その歩みを早めて彼に近づくと、何も言わずにその腕を掴んだ。

 彼女としては、夜中の閑静な住宅街の中で大きな声を出すことが憚られたが故の行動であったのだが、しかし夜中にいきなり背後から近づかれて腕を掴まれるというのは、誰であっても恐怖を感じるのではないか、と思う。
 ましてや、ただでさえ異常に見舞われて心身不安定になっている幕上にとっては、その恐怖はひとしおであったのだろう。小さく悲鳴のようなものをあげながら腕を振り解き、前に倒れ込んでしまった。

「な、なんなんだよ! あんた!」

 倒れたまま、後ずさるようにして振り返った幕上は顔を引き攣らせて叫んだ。(この時点で彼女の当初の周辺住民に対する気遣いは無駄となっている)そして、腕を掴んだ張本人が先程カレー屋で見かけた風凪であると同定すると、さらに続けた。

「あ、あんたさっきの店の……。正直気持ち悪いよ、あんた。影が薄いっつか、存在感がないっつうか……。とにかく、初対面で他人の後をつけてくるって、どういうつもりだよ!?」

 気持ち悪い、という表現にかなり傷付きながらも、怯える幕上に対して、目線を合わせるようにしゃがむ。

「びっくりさせてしまってごめんなさい。でも、何か普通でないことがあなたに起きているみたいだったから……その、なんだか気になって」
「だからって、普通見ず知らずの相手についてくるか? ただカレー屋で居合わせただけだろ! それか、あれはあんたの仕業だって――」

 そこまで言って、幕上はしまった、という顔をして口を塞ぎ、顔を逸らす。

「あれって何? 何があったの?」
「話したってあんたはどうせ信じないよ。あんたじゃなくたって、誰だって信じない。俺だって信じらんないんだから」


 人は自分にとって信じられないことが起きた時、何も信じることができなくなる。
 そのものが自身に対して敵対的であろうと、協力的であろうと、相手の態度によらず、周囲に対して疑心暗鬼になる。

 それは風凪自身がかつて体験したことでもあった。

 でも、いや、だからこそ風凪は彼に起きている事態について、予想とまではいかずとも、予感があった。

「それはその――超常現象、みたいなこと? 誰かが何かに取り憑かれたようになったとか、聞こえないはずのものが聞こえるとか、知らないはずの記憶があるとか――」

「――とか」

「………!?」

「私は、そういう類のものが存在することを知っている――いえ、経験したし、今も経験し続けている。そういう類のものが、なぜ生じうるのかも、理解している。もちろん全てを知っているというわけではないけれど、それでも、あなたが経験したことを、私は嘘だと疑うことも、笑うこともしない」

 今となっては、その時の風凪が幕上にとってどのように見えていたのかを知ることはできないのだけれど、しかしきっと、彼女が本気でそう思っていることが、言葉以上に伝わったのだろうと、僕は予想する。
 それは彼女の、何にでも顔を突っ込んでしまう、という性質の一つの側面なのだろうけれど、そして僕はその性質が必ずしも物事を良い方向へ導かないことを忘れるべきでないと思っているのだけれど、それでも彼女のそういう部分がなければ、幕上は彼女の話に耳を貸すことはなかっただろう、と思う。
 そこに居合わせたのが、風凪ではなく、例えば僕であったなら、ここで物語は終わっていた。
 もちろん僕であったならカレー屋で彼を見かけたとしても、ついていかないというのもあるが、もし仮に何かの間違いで彼に声をかけたとしても、そして、彼女のように言葉を尽くしたところで、幕上はそれを信じることはなかったということが、僕には分かりすぎるほどに分かってしまうのだ。


 主人公がいるからこそ、物語は続くのだ。
 そして、僕は主人公になりえないし、風凪は主人公たりえるのだ。


 そして、その主人公性を遺憾なく発揮しながら、風凪は、もう一度まっすぐ幕上の目を見据えて言った。


「何があったの? ちゃんと聞くから、話してみてほしい」


「……あんたなら、解決できるのか? 俺に起こったこの状況を、この異常を」
「それは……分からない。保証も確証もない。けれど、あなたと一緒に悩んで、考えることはできる」



 そう言って、風凪は手を差し出す。

 それは、救済する者としての助力の証ではなく、ともに近しい境遇に置かれている者としての共感の印だった。

 そんな風凪の想いが伝わったのか、あるいは実のところまだ心の底から信頼しているわけではなかったのかは分からないが(それは風凪にも確かめようのないことだったし、彼女の伝聞であるが故に僕にとっても知る由はない)、彼はそろそろとその手を取った。

 警戒のレベルが一段階下がったことに風凪は少し安心しながら、幕上が立ち上がれるように引き起こす。


「幕上。幕上 日暮」

 立ち上がって、衣服についた砂を払いながら、幕上は自らの名を名乗った。
 それが人名であると一瞬気づけなかった風凪は、ワンテンポ遅れて、「あ、私は凩 風凪」と名乗り返した。


「日暮くん。珍しい名前ね」
「あんたに言われる筋合いはあまりないように思うけれど……」
「そう? 風凪なんてそれなりにいそうなものだけれど」
「いや、下の名前じゃなくて、名字の方だよ」
「ああ、そういうこと。実際何人いるのかは分からないけれど、確かに同じ名字の人には家族と父方の親戚以外会ったことはないね」
「凩……木枯らし、ねぇ。なんつうか、寒々しい名前だな」
「わ、私、ダジャレなんて言わないよ!」
「誰も寒いギャグだなんて言っていないよ」
「禿げてもないし!」
「だから、誰も頭が寒々しいとも言ってねぇって!」
「オヤジでもない!」
「いや、もうダジャレとハゲしか残ってないじゃないか……」

 さっきまでの緊迫感とは一転、掛け合い漫才のようになっている二人の会話だったが、それも幕上が少し落ち着きを取り戻したことの表れなのかもしれなかった。


「そうじゃなくて、木枯らしって秋に終わりに吹く風のことだろ? だからだよ、なんか寒い時期のイメージのある名前だなって」
「ああ、それで。ねぇ知ってる? 関東地方と近畿地方では木枯らしの定義は微妙に違うんだよ」
「定義? 秋の終わりに吹く風は全部木枯らしなんじゃねぇの?」
「決められた期間、方向、強さの風じゃないと木枯らしとは言わないんだって。東京と大阪とでそれぞれの基準で測定するから、木枯らし一号の日付も東京と大阪で違うんだよ」
「そういえば、一号っていうけれど、二号も三号もあるのか?」
「一応定義上は存在しうるらしいけど、発表はされないから、ほぼないと言ってもいいんじゃないのかな? 逆に定義を満たす風が発生しなかった年は、その期間以降に強い風が吹いても木枯らしと呼ばないらしいよ」
「へー……って、なんだ、そのどこで使うか分からない知識は……」
「ふふふふ、私の鉄板トーク」
「鉄板というほど熱くも固くもないな……」

 やれやれ、と言った様子で幕上は首を振った。

「それにしたって、日暮って名前も珍しいけれど、幕上、っていうのも珍しいよね。それはお父さんのご実家の姓なの?」
「いや、父親は俺が小さい頃に突然いなくなって、離婚してるから、幕上っていうのは、母親の……姓だよ。前は別に珍しくもない名字だった」


 「母親」という言葉を発した時、少し落ち着き始めていた幕上の声音に、再び緊張というか、ストレスというか、不穏なものが滲んでいたことに、風凪はこの時気づいていた。
 しかし、無遠慮に家庭環境の話に踏み込んだことに一抹の申し訳なさを感じたことと、そもそも不用意に彼を追い詰めるべきではないだろうと思ったことから、風凪はあえてこの時に母親、あるいは父親との関係性についてそれ以上問うことはしなかった。

 そんな風凪の心中を知ってか知らずか、幕上は話題を変えるかのように口を開いた。

「ところで、あんた何歳なんだ? 大学生?」
「いや、大学生ではないんだけれど……」
「え、じゃあ高校生!?」
「もっと違うよ!」
「へー。じゃあ社会人?」
「…………です」
「なんて?」
「……しょく、です」
「だから聞こえねぇって! なんだよ、急にもごもご喋りやがって」
「あーもう! だから! 無職なの! プータローなの! Not in Education, Employment, or Trainingなの!」
「どうしてニートの正式名称を……?」
「私だって大学も卒業できずに、他人の家に居候する恋人なし、職なし、金なし、家なしの二十二歳なんて肩書きを名乗りたくなんてないよ!」
「誰もそこまで赤裸々に説明してくれなんて言っていない……なんというか、大人ってそんな感じなんだな」
「大人、って……なんなんだろうね……。私にも分からないよ……。そういう日暮くんはいくつなの?」
「十九歳。来月には二十歳だな」
「ぐはっ」

 未成年相手に取り乱してしまったという事実が追撃となり、風凪はがっくりと項垂れた。と同時に、年下に「あんた」だの「気持ち悪い」だの言われていたこと、そして風凪が自身よりも年上であると知った今でもそれまでの言動を悪びれる様子のない幕上に対して、さっきまで感じていた一抹の罪悪感が消えていくのを感じていた。

「なんというか、私はいつになったら大人になれるのだろう……」
「大人になろうとしているうちは大人になれないだろうな」
「それっぽいことを年下の男の子に言われている!」
「あんたに頼るのが本当にいいのか、俺も不安になってきたよ」
「さっきまでの私の真面目なセリフが無に帰している! 人の信頼って儚いなぁ!」
「そうだな、吹いてもなかったことにされる木枯らし二号みたいなものだ」
「なんだかその例えは悪意を感じる! 自分の知識のひけらかしが自分に牙を剥くなんて!」
「知識のひけらかしっていう自覚があったのか……やっぱりまだあんたという人間が分からねぇよ」
「人はそんなに簡単に理解しあえないよ」
「あんたの人生に一体どんなことがあったんだよ」


 話せば話すほどに主人公というよりもコメディリリーフと化している風凪だった。

 もちろんそんなメタ的な視点で風凪が自身のことを捉えていたわけではないだろうが、それでも話題がズレにズレていることには薄々勘づいていた風凪は、そろそろ本題に戻らなくてはと、周囲に人がいないことを確認した。


「さて、と」

 再び幕上のほうへ向き直りながら仕切り直す風凪だったが、さっきまでの会話の流れで彼女を残念キャラだと思い始めている幕上からすると何を格好つけてるのか、と思ったのだろうと僕は予想する。
 一応、幕上がこれから話す内容に、第三者に聞かれると都合が悪いことがあった場合への配慮としての行動だったらしいのだが。

「雑談はこれくらいにして、そろそろ日暮くんの身に何が起きたのか、教えてもらってもいいかな? さっきのカレー屋さんで起きたことはもちろんそうだけれど、その前に経験したことを。そうだな、とりあえず今日の朝からカレー屋さんに来るまでのことを時系列順に教えてもらっていいかな。一見関係なさそうなことでも、実は遠因にも原因にもなりうるから」
「今日の朝から、ねぇ。まぁ、分かったよ」

 幕上は緑道の脇にあった手すりに腰掛けると、真っ黒な空を一瞬仰いで、語り始めた。

 彼が体験した、「舌切り雀」の話を。
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