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第一話:人の口に戸は立てられぬ《unconscious》
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風凪が、幕上を羽根木公園からほど近い彼の自宅へ送り届けたのは、午後五時四十七分のことだった。
もうすでに日は沈んでしまっていて、暗くなった北沢川緑道を、風凪は豪徳寺駅の方に向かって歩き進めた。
彼女がその時歩いていた道程というのは幕上の足跡とは関係のないルートではあるのだが、人通りの多い道を歩くのが得意ではない(幕上にしても、幕上の母親にしても初見で気づかなかったように、彼女は極めて存在感が薄いので人通りが多い場所ではよく人にぶつかられるのだ)風凪としては、そのルートが考え事をしながら、語匿神社に向かうのは最適であるように思えた。
――そう、考え事。
幕上のこと。彼が行き遭った単眼の「舌切り雀」の群れ。そして、それによって奪われた、味覚。
幕上の母親のこと。肉を食さず、肉を供さない菜食主義。一人暮らしを望む息子と口論になった。
幕上の父親のこと。幕上が一歳の頃にいなくなった。それ以外の情報については分かっていない。
それが、彼女がその時点までで知りえた情報であった。
こう整理してしまうと、一日中歩き回ったにしては、それほど何か分かったわけではないような気がして、風凪としてもなんだか徒労に終わっている感もあったのだが、だが、一方で、「歪み」の所在に関して言えば仮説は成立しているということはそれなりの収穫であるとも言えた。
ほんの少しの会話ではあったけれど、幕上の母親の、息子の食事内容に対する注意の向け方は、やはり普通ではないように思えた。そして、その直感に従って鎌を掛けるような発言をした風凪に対して去り際に見せた警戒の眼差しが、その考えを強めさせていた。
「歪み」が親子の関係性から生じるということはそれほど珍しいことではない。
家庭環境が人格の形成に大きく影響を与えることが明白であるように、家庭環境が「歪み」の形成に大きく関連することはごく自然なことだった。
だが、それに幕上の母親が自身の「歪み」に気づいているのか、といえば、そういうわけではないように、風凪には思えた。
「歪み」が無意識下における「人々の平均」からのずれであるがゆえに、その発生も無意識であることの方が多い。というか、「歪み」を意識的に使いこなすことの方が異常だとも言える。
「歪み」をいわば道具として、手段として用いるような者のことを、明日語を含めた回帰式の間では「歪み」遣いと呼ぶが、しかし、幕上の母親がそうであるとは風凪には思えなかった。それに、もしそうだったとするならば、明日語がそれを関知していないはずがなく、風凪にすべてを委ねるような真似はしなかったはずだ。
なぜそんな風に言い切ることができるのかといえば、「歪み」遣いは、「歪み」による超常現象を治める役割を担う回帰式たちにとって、最も警戒すべき相手の一つだからだ。ゆえに、「歪み」遣いは、回帰式たちによって監視下に置かれる。その中には、他人の「歪み」を自身の「歪み」によって制する形で、回帰式に協力したり、本人が回帰式になったりすることである程度の自由を得ることはできるが、それでもやはり、野放しになることはない。
幕上の母親が、まだ発見されていない「歪み」遣いであるという、非常に低い可能性を無視すれば、やはり本人が「舌切り雀」を生み出し、息子を襲ったということに気づいていないというように考えるのが妥当であった。
風凪が、幕上の母親が「舌切り雀」の発生源だと考えているのにも関わらず、幕上を母親のいる自宅にそのまま帰したのも、それが理由の一つにあった。「舌切り雀」が結果的に幕上を襲う形になったからといって、幕上の母親自身が幕上を攻撃するとは限らない。というか、母親自身が何か具体的な行動に移すことができるような状況なのであれば、「舌切り雀」などというものは生まれていない。
「歪み」は、その人が裡に秘めるものであり、それを秘めようとしても秘められないからこそ、超常現象として顕れるのだから。
その意味では、もし仮に幕上の母親が「舌切り雀」の発生源であるという仮説が正しかったとして、それを母親本人に問い詰めたとて、問題が解決する訳ではないとも言えるということだった。
スイッチを自身でオンオフできない人物に対して、スイッチを切れと言ったところで意味がないのと一緒だ。
ミステリー小説なんかでは、誰がやったのか(フーダニット)、どうやったのか(ハウダニット)、何故やったのか(ホワイダニット)、が判明すれば物語として成立するのだろうが、「歪み」に関してはその理屈は必ずしも通用しない。
先ほども言ったように、「歪み」の発生源である人物を特定したところで、その人物の意図とは必ずしも一致していないし、本人がそれを意図的に止めることができるとも限らない。「歪み」によって生じるそれが、超常現象なのであれば、そもそも理屈や理論なんてものはすっ飛ばされてしまう。
だから、重要なのはホワイダニットなのだ、と言いたいところなのだが、しかしそれが判明したとて、「歪み」による超常現象が解決するとは限らない。ミステリー小説のように、犯行動機を明かして、それで終わりというわけにはいかないのである。
それこそが、明日語の言う、都合をつけると言うことだった。
幕上の母親の有している「歪み」が、何故幕上から味覚を奪うような超常現象として顕れたのか。
そして、それをどのようにして都合をつけて、幕上の味覚を取り戻すのか。
それが、今風凪がすべき「考え事」だった。
「とはいえ、やっぱり、また飛鳥さんに意見を聞かないことにはどうにもならない、のかなぁ」
そんな風に暗い緑道の真ん中で独りごちた――その時だった。
道の先に何か、小さいものが動いた気がした。
チョンチョンと、飛び跳ねるようにして。
少しずつ風凪の方へ近づいてきた。
――そして、風凪は気づいた。
それが雀であることに。
その頭部には――人間のそれに近い、大きな瞳が一つ付いていて、真っ直ぐにこちらを見つめていた。
つい先刻見たような、暗い、昏い、黒々しい瞳。
その姿はまさに、幕上が語った――
「――『舌切り雀』……‼︎」
風凪は息を止めて、一歩下がる。
「舌切り雀」から目を離さないようにしながら、一歩、一歩と距離をとる。
しかし、「歪み」に対して物理的な間合いの確保というのがどの程度意味を持つかといえば、なんとも言い難いところだった。風凪自身もそうとは分かってはいたが、直感としてその単眼の雀に危険性を感じたが故の行動だった。
一方の、「舌切り雀」の方も、風凪から目を離さず、じっと見つめていた。あくまで超常現象である
「舌切り雀」に意思のようなものがあるとは考えづらいが、しかしその不動は獲物の隙を窺っているかのように見えた。
そんな睨み合いは、実際のところ五秒足らずだったのだが、風凪には永遠かのように感じられた。
そして、その均衡を先に崩したのは、「舌切り雀」の方だった。
「シラレタクナイ」
鳥のものとも思えないが、そして同時に人間のものとも思えない奇妙な声音で、しかし間違いなく人語を「舌切り雀」は発した。
「シラレタクナイ/シラレテハイケナイ/シッテハイケナイ/シラセテハイケナイ/シッテホシクナイ/シラナイ/シラセナイ」
文法として成立してはいないが、文節それぞれは人語として成立しているそれは、一周回って鳴き声のようにも聞こえた。
「シラレタクナイ/シラレテハイケナイ/シッテハイケナイ/シラセテハイケナイ/シッテホシクナイ/シラナイ/シラセナイ」
「シラレタクナイ/シラレテハイケナイ/シッテハイケナイ/シラセテハイケナイ/シッテホシクナイ/シラナイ/シラセナイ/シラレタクナイ/シラレテハイケナイ/シッテハイケナイ/シラセテハイケナイ/シッテホシクナイ/シラナイ/シラセナイ」
「シラレタクナイ/シラレテハイケナイ/シッテハイケナイ/シラセテハイケナイ/シッテホシクナイ/シラナイ/シラセナイ/シラレタクナイ/シラレテハイケナイ/シッテハイケナイ/シラセテハイケナイ/シッテホシクナイ/シラナイ/シラセナイ/シラレタクナイ/シラレテハイケナイ/シッテハイケナイ/シラセテハイケナイ/シッテホシクナイ/シラナイ/シラセナイ」
気づけば、最初は一羽だったはずの「舌切り雀」がいつの間にか群体となっていた。
「な……何……これ……‼︎」
風凪はそのおぞましい怨嗟のような鳴き声に思わず耳を塞いだ。
しかし、それがまずかった。
風凪が動いたのが合図だったかのように、その群体が彼女の方へと飛んできたのだ。
「――――ッ‼︎」
それまで向き合うように立っていた風凪は、その瞬間に踵を返して走り出した。
しかし、当然人間の脚力と、雀の飛翔のスピードを比較すれば、後者の方が圧倒的であり、塊となって後ろから襲って来たその群れに押される形で倒れ込んだ。
そのまま通り過ぎてくれればよかったのだが、雀たちは風凪の周りに群がり、頭を抱えてうずくまる彼女の身体のいたるところを啄んだ。
その様子は傍から見れば、まるで鳥葬のようだった。
「シラレタクナイ/シラレテハイケナイ/シッテハイケナイ/シラセテハイケナイ/シッテホシクナイ/シラナイ/シラセナイ/シラレタクナイ/シラレテハイケナイ/シッテハイケナイ/シラセテハイケナイ/シッテホシクナイ/シラナイ/シラセナイ/シラレタクナイ/シラレテハイケナイ/シッテハイケナイ/シラセテハイケナイ/シッテホシクナイ/シラナイ/シラセナイ」
風凪を襲い続けながら、怨嗟の鳴き声は止むことはなかった。
――これは、「口封じ」だ。
だんだん朦朧としてくる意識の中で、風凪は思った。
それはまた、根拠の薄い直感ではあったけれど。
今自身を襲っている「舌切り雀」は、幕上から味覚を奪ったように、風凪から「言葉」を奪おうとしている。
人の口に戸は立てられない。
であれば、その舌を――切るしかない。
そんな想いがあるように、風凪には思えた。
手で払おうとしても、際限なく襲ってくる大量の「舌切り雀」に対してはキリがなかった。自身の意識がどんどんと遠ざかっていくのが、彼女には分かった。
――何か、何か助かる方法は……!
混濁した意識の中で、風凪は周りを見回す。
そして、彼女は見つけた。
いや、それ自体がなんの役に立つかは全く分からなかったが、しかし見覚えのあるものを彼女は発見した。
五角形の木片。通常とは天地が異なる形で紐をつけられた、それを。
それは、奇遇だとしか言いようがなかったが、しかし、紛れもなく、彼女自身がその道端に置いたものだった。
一月十二日の土曜日。
明日語の命令によって、彼女が無造作に置いて回った「逆さ絵馬」――それが視線の先にはあった。
そんな木片が、武器になるようにはとても思えなかったが、しかし、その出どころに回帰式である明日語が絡んでいるとすれば、話は変わってくる。
藁を掴むような思いで、否、この場合は絵馬を掴むような思いで、彼女は最後の力を振り絞り、その木片に手を伸ばして――そして、触れた。
触れた瞬間、世界が捩れるような感覚が風凪を包んだ。まるで、この世界が描かれた紙を、誰かがぐしゃぐしゃと乱雑に丸めているような、そんな感覚。
上が下に。下が上に。左が右に。右が左に。
「――――え?」
次の瞬間、彼女がいたのは、語匿神社の境内だった。
周囲を見回しても、もう「舌切り雀」の姿はどこにもなかった。
「たす……かった……?」
月明かり以外にあたりを照らすもののない境内。
目に入ったのはは古びた鳥居と、社屋と、賽銭箱と――その賽銭箱の上に座っている、十歳くらいの少年だった。
昼間に幕上と一緒にレクチャーを受けた、四十代の中年男性ではなかった。
だが、風凪はその少年が誰なのか分かっていた――というか、自身がいる場所が語匿神社であると気づいた時点で、彼がいることは自明だった。
「――飛鳥……くん、なんだね。今夜は」
風凪は立ち上がって服についた汚れを払いながら、その左目の周りに紋様が入った和装の少年に対して言った。
「幕上 日暮くんの場合は、年下に見える少年からとやかく言われても納得しなかっただろうからね。そうじゃないのであれば、これくらいの方が身軽で色々と都合がいいのさ」
賽銭箱の上座ったまま足をぶらぶらさせながら彼は――語匿神社の主、明日語 飛鳥は言った。
もうすでに日は沈んでしまっていて、暗くなった北沢川緑道を、風凪は豪徳寺駅の方に向かって歩き進めた。
彼女がその時歩いていた道程というのは幕上の足跡とは関係のないルートではあるのだが、人通りの多い道を歩くのが得意ではない(幕上にしても、幕上の母親にしても初見で気づかなかったように、彼女は極めて存在感が薄いので人通りが多い場所ではよく人にぶつかられるのだ)風凪としては、そのルートが考え事をしながら、語匿神社に向かうのは最適であるように思えた。
――そう、考え事。
幕上のこと。彼が行き遭った単眼の「舌切り雀」の群れ。そして、それによって奪われた、味覚。
幕上の母親のこと。肉を食さず、肉を供さない菜食主義。一人暮らしを望む息子と口論になった。
幕上の父親のこと。幕上が一歳の頃にいなくなった。それ以外の情報については分かっていない。
それが、彼女がその時点までで知りえた情報であった。
こう整理してしまうと、一日中歩き回ったにしては、それほど何か分かったわけではないような気がして、風凪としてもなんだか徒労に終わっている感もあったのだが、だが、一方で、「歪み」の所在に関して言えば仮説は成立しているということはそれなりの収穫であるとも言えた。
ほんの少しの会話ではあったけれど、幕上の母親の、息子の食事内容に対する注意の向け方は、やはり普通ではないように思えた。そして、その直感に従って鎌を掛けるような発言をした風凪に対して去り際に見せた警戒の眼差しが、その考えを強めさせていた。
「歪み」が親子の関係性から生じるということはそれほど珍しいことではない。
家庭環境が人格の形成に大きく影響を与えることが明白であるように、家庭環境が「歪み」の形成に大きく関連することはごく自然なことだった。
だが、それに幕上の母親が自身の「歪み」に気づいているのか、といえば、そういうわけではないように、風凪には思えた。
「歪み」が無意識下における「人々の平均」からのずれであるがゆえに、その発生も無意識であることの方が多い。というか、「歪み」を意識的に使いこなすことの方が異常だとも言える。
「歪み」をいわば道具として、手段として用いるような者のことを、明日語を含めた回帰式の間では「歪み」遣いと呼ぶが、しかし、幕上の母親がそうであるとは風凪には思えなかった。それに、もしそうだったとするならば、明日語がそれを関知していないはずがなく、風凪にすべてを委ねるような真似はしなかったはずだ。
なぜそんな風に言い切ることができるのかといえば、「歪み」遣いは、「歪み」による超常現象を治める役割を担う回帰式たちにとって、最も警戒すべき相手の一つだからだ。ゆえに、「歪み」遣いは、回帰式たちによって監視下に置かれる。その中には、他人の「歪み」を自身の「歪み」によって制する形で、回帰式に協力したり、本人が回帰式になったりすることである程度の自由を得ることはできるが、それでもやはり、野放しになることはない。
幕上の母親が、まだ発見されていない「歪み」遣いであるという、非常に低い可能性を無視すれば、やはり本人が「舌切り雀」を生み出し、息子を襲ったということに気づいていないというように考えるのが妥当であった。
風凪が、幕上の母親が「舌切り雀」の発生源だと考えているのにも関わらず、幕上を母親のいる自宅にそのまま帰したのも、それが理由の一つにあった。「舌切り雀」が結果的に幕上を襲う形になったからといって、幕上の母親自身が幕上を攻撃するとは限らない。というか、母親自身が何か具体的な行動に移すことができるような状況なのであれば、「舌切り雀」などというものは生まれていない。
「歪み」は、その人が裡に秘めるものであり、それを秘めようとしても秘められないからこそ、超常現象として顕れるのだから。
その意味では、もし仮に幕上の母親が「舌切り雀」の発生源であるという仮説が正しかったとして、それを母親本人に問い詰めたとて、問題が解決する訳ではないとも言えるということだった。
スイッチを自身でオンオフできない人物に対して、スイッチを切れと言ったところで意味がないのと一緒だ。
ミステリー小説なんかでは、誰がやったのか(フーダニット)、どうやったのか(ハウダニット)、何故やったのか(ホワイダニット)、が判明すれば物語として成立するのだろうが、「歪み」に関してはその理屈は必ずしも通用しない。
先ほども言ったように、「歪み」の発生源である人物を特定したところで、その人物の意図とは必ずしも一致していないし、本人がそれを意図的に止めることができるとも限らない。「歪み」によって生じるそれが、超常現象なのであれば、そもそも理屈や理論なんてものはすっ飛ばされてしまう。
だから、重要なのはホワイダニットなのだ、と言いたいところなのだが、しかしそれが判明したとて、「歪み」による超常現象が解決するとは限らない。ミステリー小説のように、犯行動機を明かして、それで終わりというわけにはいかないのである。
それこそが、明日語の言う、都合をつけると言うことだった。
幕上の母親の有している「歪み」が、何故幕上から味覚を奪うような超常現象として顕れたのか。
そして、それをどのようにして都合をつけて、幕上の味覚を取り戻すのか。
それが、今風凪がすべき「考え事」だった。
「とはいえ、やっぱり、また飛鳥さんに意見を聞かないことにはどうにもならない、のかなぁ」
そんな風に暗い緑道の真ん中で独りごちた――その時だった。
道の先に何か、小さいものが動いた気がした。
チョンチョンと、飛び跳ねるようにして。
少しずつ風凪の方へ近づいてきた。
――そして、風凪は気づいた。
それが雀であることに。
その頭部には――人間のそれに近い、大きな瞳が一つ付いていて、真っ直ぐにこちらを見つめていた。
つい先刻見たような、暗い、昏い、黒々しい瞳。
その姿はまさに、幕上が語った――
「――『舌切り雀』……‼︎」
風凪は息を止めて、一歩下がる。
「舌切り雀」から目を離さないようにしながら、一歩、一歩と距離をとる。
しかし、「歪み」に対して物理的な間合いの確保というのがどの程度意味を持つかといえば、なんとも言い難いところだった。風凪自身もそうとは分かってはいたが、直感としてその単眼の雀に危険性を感じたが故の行動だった。
一方の、「舌切り雀」の方も、風凪から目を離さず、じっと見つめていた。あくまで超常現象である
「舌切り雀」に意思のようなものがあるとは考えづらいが、しかしその不動は獲物の隙を窺っているかのように見えた。
そんな睨み合いは、実際のところ五秒足らずだったのだが、風凪には永遠かのように感じられた。
そして、その均衡を先に崩したのは、「舌切り雀」の方だった。
「シラレタクナイ」
鳥のものとも思えないが、そして同時に人間のものとも思えない奇妙な声音で、しかし間違いなく人語を「舌切り雀」は発した。
「シラレタクナイ/シラレテハイケナイ/シッテハイケナイ/シラセテハイケナイ/シッテホシクナイ/シラナイ/シラセナイ」
文法として成立してはいないが、文節それぞれは人語として成立しているそれは、一周回って鳴き声のようにも聞こえた。
「シラレタクナイ/シラレテハイケナイ/シッテハイケナイ/シラセテハイケナイ/シッテホシクナイ/シラナイ/シラセナイ」
「シラレタクナイ/シラレテハイケナイ/シッテハイケナイ/シラセテハイケナイ/シッテホシクナイ/シラナイ/シラセナイ/シラレタクナイ/シラレテハイケナイ/シッテハイケナイ/シラセテハイケナイ/シッテホシクナイ/シラナイ/シラセナイ」
「シラレタクナイ/シラレテハイケナイ/シッテハイケナイ/シラセテハイケナイ/シッテホシクナイ/シラナイ/シラセナイ/シラレタクナイ/シラレテハイケナイ/シッテハイケナイ/シラセテハイケナイ/シッテホシクナイ/シラナイ/シラセナイ/シラレタクナイ/シラレテハイケナイ/シッテハイケナイ/シラセテハイケナイ/シッテホシクナイ/シラナイ/シラセナイ」
気づけば、最初は一羽だったはずの「舌切り雀」がいつの間にか群体となっていた。
「な……何……これ……‼︎」
風凪はそのおぞましい怨嗟のような鳴き声に思わず耳を塞いだ。
しかし、それがまずかった。
風凪が動いたのが合図だったかのように、その群体が彼女の方へと飛んできたのだ。
「――――ッ‼︎」
それまで向き合うように立っていた風凪は、その瞬間に踵を返して走り出した。
しかし、当然人間の脚力と、雀の飛翔のスピードを比較すれば、後者の方が圧倒的であり、塊となって後ろから襲って来たその群れに押される形で倒れ込んだ。
そのまま通り過ぎてくれればよかったのだが、雀たちは風凪の周りに群がり、頭を抱えてうずくまる彼女の身体のいたるところを啄んだ。
その様子は傍から見れば、まるで鳥葬のようだった。
「シラレタクナイ/シラレテハイケナイ/シッテハイケナイ/シラセテハイケナイ/シッテホシクナイ/シラナイ/シラセナイ/シラレタクナイ/シラレテハイケナイ/シッテハイケナイ/シラセテハイケナイ/シッテホシクナイ/シラナイ/シラセナイ/シラレタクナイ/シラレテハイケナイ/シッテハイケナイ/シラセテハイケナイ/シッテホシクナイ/シラナイ/シラセナイ」
風凪を襲い続けながら、怨嗟の鳴き声は止むことはなかった。
――これは、「口封じ」だ。
だんだん朦朧としてくる意識の中で、風凪は思った。
それはまた、根拠の薄い直感ではあったけれど。
今自身を襲っている「舌切り雀」は、幕上から味覚を奪ったように、風凪から「言葉」を奪おうとしている。
人の口に戸は立てられない。
であれば、その舌を――切るしかない。
そんな想いがあるように、風凪には思えた。
手で払おうとしても、際限なく襲ってくる大量の「舌切り雀」に対してはキリがなかった。自身の意識がどんどんと遠ざかっていくのが、彼女には分かった。
――何か、何か助かる方法は……!
混濁した意識の中で、風凪は周りを見回す。
そして、彼女は見つけた。
いや、それ自体がなんの役に立つかは全く分からなかったが、しかし見覚えのあるものを彼女は発見した。
五角形の木片。通常とは天地が異なる形で紐をつけられた、それを。
それは、奇遇だとしか言いようがなかったが、しかし、紛れもなく、彼女自身がその道端に置いたものだった。
一月十二日の土曜日。
明日語の命令によって、彼女が無造作に置いて回った「逆さ絵馬」――それが視線の先にはあった。
そんな木片が、武器になるようにはとても思えなかったが、しかし、その出どころに回帰式である明日語が絡んでいるとすれば、話は変わってくる。
藁を掴むような思いで、否、この場合は絵馬を掴むような思いで、彼女は最後の力を振り絞り、その木片に手を伸ばして――そして、触れた。
触れた瞬間、世界が捩れるような感覚が風凪を包んだ。まるで、この世界が描かれた紙を、誰かがぐしゃぐしゃと乱雑に丸めているような、そんな感覚。
上が下に。下が上に。左が右に。右が左に。
「――――え?」
次の瞬間、彼女がいたのは、語匿神社の境内だった。
周囲を見回しても、もう「舌切り雀」の姿はどこにもなかった。
「たす……かった……?」
月明かり以外にあたりを照らすもののない境内。
目に入ったのはは古びた鳥居と、社屋と、賽銭箱と――その賽銭箱の上に座っている、十歳くらいの少年だった。
昼間に幕上と一緒にレクチャーを受けた、四十代の中年男性ではなかった。
だが、風凪はその少年が誰なのか分かっていた――というか、自身がいる場所が語匿神社であると気づいた時点で、彼がいることは自明だった。
「――飛鳥……くん、なんだね。今夜は」
風凪は立ち上がって服についた汚れを払いながら、その左目の周りに紋様が入った和装の少年に対して言った。
「幕上 日暮くんの場合は、年下に見える少年からとやかく言われても納得しなかっただろうからね。そうじゃないのであれば、これくらいの方が身軽で色々と都合がいいのさ」
賽銭箱の上座ったまま足をぶらぶらさせながら彼は――語匿神社の主、明日語 飛鳥は言った。
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