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城塞都市フィーンタイト
セラの帰る場所
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蔦が絡む柵に囲まれた、青空に映える真っ白な聖堂。その奥にある青い屋根の生活棟の前に広がる、芝生の庭。そこで遊ぶ子どもたちのはしゃぐ声が「今日も平和だなぁ」とセラの頬を緩ませた。
「あ!セラちゃん帰ってきたー!」
セラが正門を通り、聖堂に続く石畳の道から逸れて庭から生活棟へ向かうと、真っ先に目の良い少年が彼女の姿に気づいて駆け寄ってきた。セラは自分に向かって飛び込んでくる身体を咄嗟に受け止めたが、勢いを殺しきれずに足元がふらついた。どうにか倒れないように踏ん張っていると、続けてやってきた他の子どもたちにしがみつかれて動けなくなってしまった。
「セラねぇ!おかえりーッ!」
「セラちゃんおかえり!それっておみやげ!?」
「セラお姉ちゃん!おかえりなさい!」
「おかえりセラねぇちゃーん!今日のぼうけんどうだったー!?」
こちらを見上げてワイワイと矢継ぎ早に声をかけてくる子どもたちが、セラにはまるで餌を求める雛のように見えた。
「みんな、ただいま」
セラはふにゃりと微笑むと、それから真っ先に飛びついてきた少年の方を見て眉をつり上げ、怒ったような表情を作ってみせた。
「ところでマシュー?いきなり人に突撃しちゃダメですよ!転ぶところでした!」
「えへ、ごめぇん。気をつけるぅ~」
セラが突撃してきた隼の鳥人のマシューを叱ると、彼はセラにギュッと抱きついたままへらりと笑って謝った。マシューはそろそろ10歳になるが、ひどく甘えん坊でセラは手を焼いていた。マシューの後ろへセラが目線をやると、そこにいる小さな男の子のオーバーオールやシャツに枯れ草や木の葉がたくさんひっついていた。
「トト、また転んじゃいました?服が草まみれだから、はたいておきましょう。ミラン、このお肉はグレンくんが持たせてくれたんです。今度会ったらお礼言いましょうね」
「はぁーいっ!」
「うん、絶対お礼言うよ私!」
トトは5歳の男の子。ふわふわな赤毛とそばかすがチャームポイントな彼はやんちゃ盛りで、そこらを走って遊んでばかりいる。その隣にいるミランは11歳の女の子。爽やかなミントグリーンの髪と目が目を惹く彼女は人一倍食べることが好きで、お土産の肉に目を輝かせていた。
不意にスカートが左側そっと引っ張られた気がして、セラはそちらを見下ろした。
「チャミーはもう咳は出ませんか?まだ出るならお薬作りますからね?ロナ、今日の冒険の話は夕ごはんのあとにしてあげますよ」
「咳止まったよ、お姉ちゃん。ありがとう……!」
「ほんと!?約束だかんなセラねぇちゃん!」
白ネズミの獣人であるチャミーは8歳の女の子。くりっとした黒目に、肩の上で白い髪を切り揃えている。身体が弱く、昨日もひどい咳を出していたが、セラが調合した薬が効いたのか顔色も健康的だ。チャミーと手を繋いでいるロナは同い年の男の子で、眼鏡の奥の青い目を好奇心で輝かせている。セラがツンツンした淡い色の金髪を撫でて約束をすると、両手をあげてはしゃぎだした。
この子どもたちやセラはみんな、孤児院を兼ねているこの“クラバトン教会フィーンタイト東支部”に捨てられた孤児だ。全員が街の名と同じ『フィーンタイト』の姓を持っていて、本当の家族同然に暮らしている。孤児たちの中でもセラは年長で、年下の子どもたちにとって姉のようなものだ。
「セラちゃん冒険帰りでお疲れだし、荷物置いてきちゃったら?リュック背負ったままはきついでしょ」
「そうですね、置いてこなくては」
ミランに勧められて、セラは庭を後にして生活棟に入った。まず、肉が悪くならないうちに調理場の冷蔵庫にしまわなければいけないため、調理場へ直行した。
肉が入った袋を抱え直して、調理場のドアをコンコンとノックする。
「セラです、入っていいですか」
そう声をかけると、ガチャリとドアが開けられた。ふうっと流れてきた空気に野菜が煮える匂いと嗅ぎ慣れたお香の香りが乗って、セラの鼻をくすぐった。
「セラちゃん、おかえりなさい。どうしたのかしら?」
「マリーナさん、ただいま!あの、グレンくんがニードルボアのお肉をお土産に持たせてくれまして……ど、どうぞ」
ミルクティー色をした絹糸のような髪を編み込んだシニヨンに、若葉色の優しげなたれ目。紺色のベールとワンピースからなる修道服を身につけた彼女は、シスターのマリーナ。教会では神父に次ぐ治癒魔法の名手だ。彼女は孤児たちの世話にも積極的に取り組んでいて、セラたちにとっては母に近い存在だ。
セラが解体済みのニードルボアの肉が入った袋を差し出すと、マリーナはきらりと目を輝かせた。
「あらまぁ!それじゃあ早くしまわなきゃね、預かるわ」
マリーナはいそいそと差し出された袋を抱えると、調理場の奥の保管庫へ運んでいった。彼女の背中を見ながら、セラは「それでは、また」と一言だけ声をかけてくるりと踵を返した。
マリーナに肉を預けて自室へ荷物を置きに向かったセラは、階段を上がってすぐ左にあるドアを開けた。中には窓に枕を向けるようにして三台のベッドが一列に並び、その足元にそれぞれの私物入れ兼テーブルの古びた木箱が置いてある。そして、手前側に申し訳ばかりの小さな共同クローゼットとくずかごがあるだけだ。
クローゼットに上着をしまったセラは、一番右端にある自分の木箱の横に鞄を下ろしてその蓋をずらした。木箱には薬師の師匠や幼馴染たちから誕生日にプレゼントしてもらった数冊の本、ページを継ぎ足しすぎて閉じにくいノート、布地が綻んだポプリなどがきっちり整頓されて収まっている。
その中から『薬草図鑑』、『ポーション調合のすすめ』とノートを抜き出し、そして鞄から羽ペンを取り出した。羽ペンのペン先にはキャップがはまっていて、先端から微量な魔力を吸収して内部にインクを生成する仕掛けが組まれており、魔力さえあればインクを買わずに済む優れものだ。買おうとすれば多少値が張る代物だが、パトリックが魔法具作りにハマっていたときに息抜きで作ってみたが、既に似たものを持っていたらしく「これあげる~」とセラに押し付けたのだ。
「ちゃんと揃ってるかな……うん、大丈夫」
セラは取り出したものを一つずつ確かめ、必要な物が全部あると分かればそれらを腕に抱えた。それから部屋を出ようとして、ふと立ち止まった。
「……教室に、あの人たちがいないといいけどなぁ」
生活棟と聖堂の間にある教室は、午前中には教会の孤児や近所の家の子どもたちへ文字の読み書きや簡単な計算を教えるのに使われている。そして、午後からは教会関係者の談話室として利用されていた。
部屋にある木箱よりずっと広い机がいくつもあるため、勉強や書き物をしたい時にセラはここを使っていた。しかし、近ごろ“ある事情”によってなかなか教室を使えずにいる。
閉じ切っていないドアの隙間から、セラは息をひそめて教室の中をそっと覗き込む。
「あ、いる……」
教室の真ん中にできた青い服の人だかりの、その真ん中。肩の上で切り揃えた淡い金髪に白のベレー帽を被り、身につけている青いスラックスとケープの裾と白い襟には金の刺繍の蔦が張り巡らされている。そんな煌びやかな装いの少年が談笑しているのが真っ青な目に映った途端、セラは残念そうにため息をついた。
彼はリーノ・アンセルミ。神父様やシスターから治癒魔法を学びに来ている治癒師の卵の中でも、特に才能あふれる逸材。そのうえ人当たりも良く、中性的な美しい顔立ちも相まって治癒師見習いたちの憧れの的だ。
人気者な彼は、時々この談話室でたくさんいる友人たちとお喋りを楽しみに来るので、セラのように勉強しに来た者たちにとっては騒がしくて敵わない。
一度だけ、セラは治癒師見習いたちもいる教室で勉強しようとしたことがあった。すると彼らは、一人だけぽつんと離れた場所で勉強しているセラを物珍しく思って構いに来たのだ。
『ねぇ、ひとりで何してらっしゃるの?良ければこっちで一緒にお喋りしましょ?』
遠くからかけられたお喋りへの誘いはまだ良かった。とても慎ましく上品なもので、強制するものではなかった。しかし、セラが勉強している内容を覗き見た連中が言ったのがこれだ。
『え、薬の勉強してるの?治癒魔法使えば薬なんていらないじゃん』
『使えないから薬の勉強してるんでしょ?ちょっと考えたら分かるじゃない、そのくらい』
『でもさー、薬師って治癒師より使えないよね。戦闘中にのんびり薬を飲んでる暇とかないし、薬を作るのに時間も材料も必要じゃん。治癒魔法なら詠唱したら一発なのに』
『言えてる~!薬師とか要る?』
突然そんなことをズケズケと言われて、怒るよりも先に驚きと不安に満たされたセラは声も出なかった。人を癒す詠唱を唱える口で、自分が頑張っていることを馬鹿にされて頭が真っ白になったところへ、リーノがこう言ったのだ。
『ねぇ、たしか君はセラさんでしたっけ?そんなことより、お話ししませんか?神父さまから噂はかねがね聞いてまして……僕、君とお喋りしてみたいんです』
セラは、それに答えず黙って本やノートを抱えて教室を後にした。引き止められたが、セラにとって薬師になるための勉強は、とても大きな意味を持っていた。それを“そんなこと“の一言で片付けて、お喋りの方を優先しようとする者と話す気になんてなれなかった。そのような意図で言ったわけではなかったとしても、散々貶された後に言葉を良いように捉えるのは難しかった。
それ以来、リーノたちがいる間は教室を使わないとセラは心に決めた。嫌なことを思い出したせいで、セラは胸がつかえるような息苦しさを覚えた。抱えた本やノートをぎゅっと抱きしめて、ぽつりと呟いた。
「聖堂に行こう」
あそこへ行けば、きっともやもやした心も晴れるはず。そう思って、セラは聖堂へ歩き出した。
それは聖堂の奥、聖なる杖を掲げた祭壇を囲う壁一面に嵌め込まれたステンドグラスの中に佇んでいた。
右手に蒼い炎が灯るランタンのような杖を、左手には薬草を持ち、青と白の二色で構成された司祭冠(ミトラ)とローブを身に纏った純白の羊頭を持つ神。ぐるりと巻いた立派は角は、アセビの花で飾られている。
この教会が信仰する治癒と慈愛の神“クラバトン神“の姿だ。
「やっぱり、いつ見てもきれい……」
祭壇に一番近い最前列の長椅子からそれを見上げて、セラは微笑んだ。射し込む陽の光に輝く、このステンドグラスを眺めるのが幼い頃から好きだった。
教会に拾われたばかりの赤ちゃんだった頃から、どうあやしても泣き止まない時はこのステンドグラスを見させたら泣き止んだとシスターから教えられた。物心ついてからも、悲しい時や落ち込んだ時はこのステンドグラスの前に来て心を安らげた。
他のステンドグラスも綺麗だが、一番セラの心を癒すのはクラバトン神が描かれているステンドグラスだった。自分とそっくりな真っ白な角と耳に、横長の瞳孔を持つ青い目。偶然似通った特徴だとしても他人のような気がしなかった。ほんの少し親近感さえあった。
不意に、両手の芯がズキリと痛む。
「い……ッ……!」
両手から肩に向かって、ビリビリとした痛みが両腕の芯を駆け上がっていく。思わず目を瞑り、ぐっと歯を食いしばって堪える。二十秒ほど経って、ようやく痺れるような痛みは引いていった。
「ッは、あ……おさまった……」
息を切らして、セラは自身の手のひらを見た。その真ん中には、肘まで真っ二つに裂けたような傷跡がある。彼女にとって、それは見慣れたものだった。
セラは、生まれつき膨大な魔力を持っているが魔法が使えない。正確には、使えなくなったという方が正しい。
五歳の頃、彼女は治癒師に憧れていた。神父やシスターが、教会に運び込まれた怪我人や呪いをかけられた人を癒して笑顔にしていく姿に、心から自分もそうなりたいと願っていた。
しかし、シスターたちが操る癒しの魔法を自分も使えないかとこっそり真似てみた結果、大惨事は起きた。
セラが庭の隅の折れた花に手をかざして「治れ!」と念を込めた瞬間、一瞬でほそい指先から肘までが真っ二つに裂けた。幼く貧弱な魔力の回路へ、コントロール無しに膨大な魔力を流したせいで内側から暴発したのだ。
その場の芝生が一瞬で血に濡れて、セラはあまりの痛みとショックで気絶した。その時、周囲で遊んでいた子どもたちの悲鳴を聞いて駆けつけたシスター・マリーナが咄嗟に治癒魔法をかけたおかげで、命に関わる事態にはならずに済んだ。
しかし、両腕には今も傷跡が残り、両腕の魔力回路もボロボロになって魔法が使えなくなってしまった。時折、先程のように痛みが走ることさえある。無知と幼さによるたった一度の失敗で、治癒師への道は閉ざされてしまった。
それでもセラは人を癒せるようになることを諦めきれず、見つけたのが薬師という職業。魔法を使わず人を治す職業には医者もあるが、なるためには特別な学校へ通わねばならない。その学校の学費は良家や貴族でもなければ払えないほど高く、孤児のセラには到底捻出できない額。
薬師への道は、彼女に残された一縷の希望なのだ。
大きな傷跡を持つ華奢な手が、自身の膝に載せた本の一冊を開いた。青い目が捉えた内容を、そして薬師の師匠から学んだことを反芻し、頭に刻み込んでいく。いつか、多くの人を癒せるように。そして、立派な薬師を目指す夢をバカにすることなく応援してくれる幼馴染たちの助けになれるように。
一瞬、ステンドグラスがほのかにきらめいた。
「あ!セラちゃん帰ってきたー!」
セラが正門を通り、聖堂に続く石畳の道から逸れて庭から生活棟へ向かうと、真っ先に目の良い少年が彼女の姿に気づいて駆け寄ってきた。セラは自分に向かって飛び込んでくる身体を咄嗟に受け止めたが、勢いを殺しきれずに足元がふらついた。どうにか倒れないように踏ん張っていると、続けてやってきた他の子どもたちにしがみつかれて動けなくなってしまった。
「セラねぇ!おかえりーッ!」
「セラちゃんおかえり!それっておみやげ!?」
「セラお姉ちゃん!おかえりなさい!」
「おかえりセラねぇちゃーん!今日のぼうけんどうだったー!?」
こちらを見上げてワイワイと矢継ぎ早に声をかけてくる子どもたちが、セラにはまるで餌を求める雛のように見えた。
「みんな、ただいま」
セラはふにゃりと微笑むと、それから真っ先に飛びついてきた少年の方を見て眉をつり上げ、怒ったような表情を作ってみせた。
「ところでマシュー?いきなり人に突撃しちゃダメですよ!転ぶところでした!」
「えへ、ごめぇん。気をつけるぅ~」
セラが突撃してきた隼の鳥人のマシューを叱ると、彼はセラにギュッと抱きついたままへらりと笑って謝った。マシューはそろそろ10歳になるが、ひどく甘えん坊でセラは手を焼いていた。マシューの後ろへセラが目線をやると、そこにいる小さな男の子のオーバーオールやシャツに枯れ草や木の葉がたくさんひっついていた。
「トト、また転んじゃいました?服が草まみれだから、はたいておきましょう。ミラン、このお肉はグレンくんが持たせてくれたんです。今度会ったらお礼言いましょうね」
「はぁーいっ!」
「うん、絶対お礼言うよ私!」
トトは5歳の男の子。ふわふわな赤毛とそばかすがチャームポイントな彼はやんちゃ盛りで、そこらを走って遊んでばかりいる。その隣にいるミランは11歳の女の子。爽やかなミントグリーンの髪と目が目を惹く彼女は人一倍食べることが好きで、お土産の肉に目を輝かせていた。
不意にスカートが左側そっと引っ張られた気がして、セラはそちらを見下ろした。
「チャミーはもう咳は出ませんか?まだ出るならお薬作りますからね?ロナ、今日の冒険の話は夕ごはんのあとにしてあげますよ」
「咳止まったよ、お姉ちゃん。ありがとう……!」
「ほんと!?約束だかんなセラねぇちゃん!」
白ネズミの獣人であるチャミーは8歳の女の子。くりっとした黒目に、肩の上で白い髪を切り揃えている。身体が弱く、昨日もひどい咳を出していたが、セラが調合した薬が効いたのか顔色も健康的だ。チャミーと手を繋いでいるロナは同い年の男の子で、眼鏡の奥の青い目を好奇心で輝かせている。セラがツンツンした淡い色の金髪を撫でて約束をすると、両手をあげてはしゃぎだした。
この子どもたちやセラはみんな、孤児院を兼ねているこの“クラバトン教会フィーンタイト東支部”に捨てられた孤児だ。全員が街の名と同じ『フィーンタイト』の姓を持っていて、本当の家族同然に暮らしている。孤児たちの中でもセラは年長で、年下の子どもたちにとって姉のようなものだ。
「セラちゃん冒険帰りでお疲れだし、荷物置いてきちゃったら?リュック背負ったままはきついでしょ」
「そうですね、置いてこなくては」
ミランに勧められて、セラは庭を後にして生活棟に入った。まず、肉が悪くならないうちに調理場の冷蔵庫にしまわなければいけないため、調理場へ直行した。
肉が入った袋を抱え直して、調理場のドアをコンコンとノックする。
「セラです、入っていいですか」
そう声をかけると、ガチャリとドアが開けられた。ふうっと流れてきた空気に野菜が煮える匂いと嗅ぎ慣れたお香の香りが乗って、セラの鼻をくすぐった。
「セラちゃん、おかえりなさい。どうしたのかしら?」
「マリーナさん、ただいま!あの、グレンくんがニードルボアのお肉をお土産に持たせてくれまして……ど、どうぞ」
ミルクティー色をした絹糸のような髪を編み込んだシニヨンに、若葉色の優しげなたれ目。紺色のベールとワンピースからなる修道服を身につけた彼女は、シスターのマリーナ。教会では神父に次ぐ治癒魔法の名手だ。彼女は孤児たちの世話にも積極的に取り組んでいて、セラたちにとっては母に近い存在だ。
セラが解体済みのニードルボアの肉が入った袋を差し出すと、マリーナはきらりと目を輝かせた。
「あらまぁ!それじゃあ早くしまわなきゃね、預かるわ」
マリーナはいそいそと差し出された袋を抱えると、調理場の奥の保管庫へ運んでいった。彼女の背中を見ながら、セラは「それでは、また」と一言だけ声をかけてくるりと踵を返した。
マリーナに肉を預けて自室へ荷物を置きに向かったセラは、階段を上がってすぐ左にあるドアを開けた。中には窓に枕を向けるようにして三台のベッドが一列に並び、その足元にそれぞれの私物入れ兼テーブルの古びた木箱が置いてある。そして、手前側に申し訳ばかりの小さな共同クローゼットとくずかごがあるだけだ。
クローゼットに上着をしまったセラは、一番右端にある自分の木箱の横に鞄を下ろしてその蓋をずらした。木箱には薬師の師匠や幼馴染たちから誕生日にプレゼントしてもらった数冊の本、ページを継ぎ足しすぎて閉じにくいノート、布地が綻んだポプリなどがきっちり整頓されて収まっている。
その中から『薬草図鑑』、『ポーション調合のすすめ』とノートを抜き出し、そして鞄から羽ペンを取り出した。羽ペンのペン先にはキャップがはまっていて、先端から微量な魔力を吸収して内部にインクを生成する仕掛けが組まれており、魔力さえあればインクを買わずに済む優れものだ。買おうとすれば多少値が張る代物だが、パトリックが魔法具作りにハマっていたときに息抜きで作ってみたが、既に似たものを持っていたらしく「これあげる~」とセラに押し付けたのだ。
「ちゃんと揃ってるかな……うん、大丈夫」
セラは取り出したものを一つずつ確かめ、必要な物が全部あると分かればそれらを腕に抱えた。それから部屋を出ようとして、ふと立ち止まった。
「……教室に、あの人たちがいないといいけどなぁ」
生活棟と聖堂の間にある教室は、午前中には教会の孤児や近所の家の子どもたちへ文字の読み書きや簡単な計算を教えるのに使われている。そして、午後からは教会関係者の談話室として利用されていた。
部屋にある木箱よりずっと広い机がいくつもあるため、勉強や書き物をしたい時にセラはここを使っていた。しかし、近ごろ“ある事情”によってなかなか教室を使えずにいる。
閉じ切っていないドアの隙間から、セラは息をひそめて教室の中をそっと覗き込む。
「あ、いる……」
教室の真ん中にできた青い服の人だかりの、その真ん中。肩の上で切り揃えた淡い金髪に白のベレー帽を被り、身につけている青いスラックスとケープの裾と白い襟には金の刺繍の蔦が張り巡らされている。そんな煌びやかな装いの少年が談笑しているのが真っ青な目に映った途端、セラは残念そうにため息をついた。
彼はリーノ・アンセルミ。神父様やシスターから治癒魔法を学びに来ている治癒師の卵の中でも、特に才能あふれる逸材。そのうえ人当たりも良く、中性的な美しい顔立ちも相まって治癒師見習いたちの憧れの的だ。
人気者な彼は、時々この談話室でたくさんいる友人たちとお喋りを楽しみに来るので、セラのように勉強しに来た者たちにとっては騒がしくて敵わない。
一度だけ、セラは治癒師見習いたちもいる教室で勉強しようとしたことがあった。すると彼らは、一人だけぽつんと離れた場所で勉強しているセラを物珍しく思って構いに来たのだ。
『ねぇ、ひとりで何してらっしゃるの?良ければこっちで一緒にお喋りしましょ?』
遠くからかけられたお喋りへの誘いはまだ良かった。とても慎ましく上品なもので、強制するものではなかった。しかし、セラが勉強している内容を覗き見た連中が言ったのがこれだ。
『え、薬の勉強してるの?治癒魔法使えば薬なんていらないじゃん』
『使えないから薬の勉強してるんでしょ?ちょっと考えたら分かるじゃない、そのくらい』
『でもさー、薬師って治癒師より使えないよね。戦闘中にのんびり薬を飲んでる暇とかないし、薬を作るのに時間も材料も必要じゃん。治癒魔法なら詠唱したら一発なのに』
『言えてる~!薬師とか要る?』
突然そんなことをズケズケと言われて、怒るよりも先に驚きと不安に満たされたセラは声も出なかった。人を癒す詠唱を唱える口で、自分が頑張っていることを馬鹿にされて頭が真っ白になったところへ、リーノがこう言ったのだ。
『ねぇ、たしか君はセラさんでしたっけ?そんなことより、お話ししませんか?神父さまから噂はかねがね聞いてまして……僕、君とお喋りしてみたいんです』
セラは、それに答えず黙って本やノートを抱えて教室を後にした。引き止められたが、セラにとって薬師になるための勉強は、とても大きな意味を持っていた。それを“そんなこと“の一言で片付けて、お喋りの方を優先しようとする者と話す気になんてなれなかった。そのような意図で言ったわけではなかったとしても、散々貶された後に言葉を良いように捉えるのは難しかった。
それ以来、リーノたちがいる間は教室を使わないとセラは心に決めた。嫌なことを思い出したせいで、セラは胸がつかえるような息苦しさを覚えた。抱えた本やノートをぎゅっと抱きしめて、ぽつりと呟いた。
「聖堂に行こう」
あそこへ行けば、きっともやもやした心も晴れるはず。そう思って、セラは聖堂へ歩き出した。
それは聖堂の奥、聖なる杖を掲げた祭壇を囲う壁一面に嵌め込まれたステンドグラスの中に佇んでいた。
右手に蒼い炎が灯るランタンのような杖を、左手には薬草を持ち、青と白の二色で構成された司祭冠(ミトラ)とローブを身に纏った純白の羊頭を持つ神。ぐるりと巻いた立派は角は、アセビの花で飾られている。
この教会が信仰する治癒と慈愛の神“クラバトン神“の姿だ。
「やっぱり、いつ見てもきれい……」
祭壇に一番近い最前列の長椅子からそれを見上げて、セラは微笑んだ。射し込む陽の光に輝く、このステンドグラスを眺めるのが幼い頃から好きだった。
教会に拾われたばかりの赤ちゃんだった頃から、どうあやしても泣き止まない時はこのステンドグラスを見させたら泣き止んだとシスターから教えられた。物心ついてからも、悲しい時や落ち込んだ時はこのステンドグラスの前に来て心を安らげた。
他のステンドグラスも綺麗だが、一番セラの心を癒すのはクラバトン神が描かれているステンドグラスだった。自分とそっくりな真っ白な角と耳に、横長の瞳孔を持つ青い目。偶然似通った特徴だとしても他人のような気がしなかった。ほんの少し親近感さえあった。
不意に、両手の芯がズキリと痛む。
「い……ッ……!」
両手から肩に向かって、ビリビリとした痛みが両腕の芯を駆け上がっていく。思わず目を瞑り、ぐっと歯を食いしばって堪える。二十秒ほど経って、ようやく痺れるような痛みは引いていった。
「ッは、あ……おさまった……」
息を切らして、セラは自身の手のひらを見た。その真ん中には、肘まで真っ二つに裂けたような傷跡がある。彼女にとって、それは見慣れたものだった。
セラは、生まれつき膨大な魔力を持っているが魔法が使えない。正確には、使えなくなったという方が正しい。
五歳の頃、彼女は治癒師に憧れていた。神父やシスターが、教会に運び込まれた怪我人や呪いをかけられた人を癒して笑顔にしていく姿に、心から自分もそうなりたいと願っていた。
しかし、シスターたちが操る癒しの魔法を自分も使えないかとこっそり真似てみた結果、大惨事は起きた。
セラが庭の隅の折れた花に手をかざして「治れ!」と念を込めた瞬間、一瞬でほそい指先から肘までが真っ二つに裂けた。幼く貧弱な魔力の回路へ、コントロール無しに膨大な魔力を流したせいで内側から暴発したのだ。
その場の芝生が一瞬で血に濡れて、セラはあまりの痛みとショックで気絶した。その時、周囲で遊んでいた子どもたちの悲鳴を聞いて駆けつけたシスター・マリーナが咄嗟に治癒魔法をかけたおかげで、命に関わる事態にはならずに済んだ。
しかし、両腕には今も傷跡が残り、両腕の魔力回路もボロボロになって魔法が使えなくなってしまった。時折、先程のように痛みが走ることさえある。無知と幼さによるたった一度の失敗で、治癒師への道は閉ざされてしまった。
それでもセラは人を癒せるようになることを諦めきれず、見つけたのが薬師という職業。魔法を使わず人を治す職業には医者もあるが、なるためには特別な学校へ通わねばならない。その学校の学費は良家や貴族でもなければ払えないほど高く、孤児のセラには到底捻出できない額。
薬師への道は、彼女に残された一縷の希望なのだ。
大きな傷跡を持つ華奢な手が、自身の膝に載せた本の一冊を開いた。青い目が捉えた内容を、そして薬師の師匠から学んだことを反芻し、頭に刻み込んでいく。いつか、多くの人を癒せるように。そして、立派な薬師を目指す夢をバカにすることなく応援してくれる幼馴染たちの助けになれるように。
一瞬、ステンドグラスがほのかにきらめいた。
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