瀬々市、宵ノ三番地

茶野森かのこ

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ふ、とパイプの煙を吐き出す。
暗闇の中で煙がもくもくと立ちのぼると、その中から一人の少女が姿を現した。見た目は五歳位だろうか、もこもこした素材の茶色いきぐるみのようなつなぎを着ており、被ったフードにはくまの耳がついていた。フードの隙間からはブロンドの髪が見える。
突如現れた彼女は暗闇に座り込み、ぐずぐずと、顔を伏せて泣いているようだった。

「見つけたよ、お嬢さん。どうしたの、こんな所に隠れて」

その声に、ぐすぐすと泣きべそをかいていた少女が顔を上げた。彼女の前には、懐中電灯を片手に彼女を見下ろす青年がいる。物が天井まで積み上がった狭く暗い場所だ、彼は窮屈そうにしながらも、少女に合わせてしゃがみ込んだ。

「…あなた、」
「宵ノ三番地、店長代理の瀬々市です。君を迎えに来たんだ」

青年は、きっちりと着込んだベストにワイシャツ、仕立ての良いスーツに身を包み、磨き抜かれた革靴を履いていた。そして、それらが良く似合うスラリとした体躯に、藍色の髪は短すぎず長すぎず。爽やかな端正な顔立ちで、くっきりとしたその瞳は、左目が黒で右目が濁った翡翠のオッドアイだった。少女はその瞳を見て驚いた様子だったが、青年の穏やかな表情に気づくと、暫し不思議そうに彼を見つめていた。だが、涙が止まったのは束の間、少女は再び表情を歪めて泣き始めてしまった。

「だって、私もう要らないんでしょ?私は、紗奈さなが大好きなのに」
「そんな、要らないわけないよ」
「信じないもん、そんなの」

頑なな様子の少女に、青年は、少し困った様子で微笑んだ。

「本当だよ、紗奈さんは君の事が大好きなんだから」
「嘘だよ!好きなら側に置いてくれるもん!」
「…そうかもしれないね。でもね、紗奈さんは、君の事が大好きだから、君の事を思って手放すんだよ。紗奈さんは君を見捨てるんじゃない、君を大事に思って可愛がってくれる人が居たから、君をその子に託そうと思ったんだ。ずっと棚で置かれてるより、誰かに遊んで貰った方が幸せなんじゃないかって」
「……」
「君が嫌われたんじゃない、愛されているから、君にとって一番良い選択を考えての結果だったんだよ」

少女は、その言葉に戸惑った様子で、瞳を揺らした。

「新しいご主人は、好きになれない?」

少女は緩く首を横に振った。

「新しい場所は怖い?」

少女は小さく頷いた。

「紗奈さんが信じた人でも?」

その言葉に、少女は顔を上げた。困って口を開きかけたが、また俯いてしまう。青年は、そっと少女の頭を撫でた。

「…ごめんな、こんな事言って。ただ君に、紗奈さんの気持ちをちゃんと伝えておきたかったんだ。色々言ったけど、俺は君の意思を尊重するからね」

その言葉に、少女は顔を上げ、どこか不安そうに瞳を揺らした。

「…紗奈の家には?」
「残念ながら、帰る事は出来ないんだ。君と俺がこうして話せるのは、俺が、君の事を見れる目を持っているから。宵の店の特徴は知ってるだろ?」
「…うん」
「新しい場所がどうしても嫌なら、俺の家に来れば良いよ。紗奈さんには、どうしても君を見つけられなかったって言えば良いから」
「…それは、私じゃなくなっちゃうって事でしょ?」

再び涙が込み上げてきたのか、ぐっと表情を歪める少女に、青年はその思いを受け止めるように語りかけた。

「君のままでだよ、君をまっさらにはしない」
「それじゃ、あなたの評判が下がるんじゃないの?そうでなくても、その瞳…」
「無理に君を連れ出すより、全然良いよ」

そう微笑む青年の表情は優しく、頭を撫でるその手は、ただただ温かい。少女はじっと青年を見つめていたが、やがて彼に近づくと、その体にぎゅっと抱きついた。

「…私、頑張ってみる」
「…うん」

ぎゅっと抱きつくその背中を、青年は受け止め撫で擦った。少女は、その声が、体が、震えそうになるのを必死に堪えながら、その思いを伝えてくれた。

「新しい場所は、いつも怖い。新しい持ち主はどんな人なんだろう、大事にしてくれるかな、痛い事しないかな、ぎゅってしてくれるかな、気に入らなかったら捨てられちゃうかなって、いつも怖い」
「うん」
「紗奈は、大事にしてくれたから、ずっと一緒に居たかったから」
「うん」

「でも」と、少女は顔を上げた。

「紗奈が決めたなら、私も、頑張る」

そう青年を見上げた瞳は、新たな決心に、懸命に立ち向かおうとしているかのようで、青年はそっと肩から力が抜けた思いだった。
この子は大丈夫だと、思えたからだ。

「それで良いの?」
「あなたの家よりは、楽しそう」
「はは、そりゃそうだ」

冗談混じりに言って笑ってみせる少女に、青年も微笑んだ。

「駄目なら逃げ出せば良い。また俺が探しに来るよ」
「うん!」

少女が青年から体を離すと、その足元から再び煙が沸き起こった。彼女の体を煙がすっぽりと包んでしまうと、それは徐々に足元へと消えていく。少女の足元にはテディベアのぬいぐるみがあり、少女を包んだ煙は、そのテディベアへと吸い込まれていった。
青年はテディベアを手に取ると、埃で汚れたその顔を指で優しく拭い、ほっとした様子で頬を緩めた。

「きっと、大丈夫。あの子は優しい子だよ」

そう呟き、青年は狭いその場所を抜ける為、横向きで歩いていく。暗がりから外へ出ると、太陽が照らす青空に目を細めた。

ふぅ、と息を吐き振り返る。

彼が居たのは、とある一軒家の敷地内に置かれた倉庫の中だ。奥の物はどうやって取り出すのだろうと首を傾げたくなる程、倉庫の中はぎっしりと物が詰め込まれ、入る道を作るのも一苦労だった。
そんな青年の足元で、茶色い毛並みを持つプードルが、ぴょんぴょんと跳び跳ねている。プードルが見つめているのは、あのテディベアだ。青年は口元を緩めて腰を折ると、プードルの頭を撫でてやった。

「ありがとうな、この子を守ってくれて」

きっとこのプードルは、このテディベアの思いを聞き、その思いを尊重してくれたのだろう。テディベアが一人で、倉庫の奥まった場所まで移動するのは困難だし、青年にはこのプードルが、ただいたずらに持ち出したのではないように思えた。

青年のそんな思いが伝わったのか、プードルは「ワン!」と吠えながら、嬉しそうに尻尾を振っている。それから、早く早くと言わんばかりに青年の足元で跳びはね、駆け出しては振り返り戻って来るので、青年は「分かった分かった」と、その頭を撫でながら、プードルの後についていく。
その途中で、青年は思い出したように胸ポケットから眼鏡を取り出した。フレームなしの薄いレンズで、何処にでもある普通の眼鏡のようだが、それを掛けると、どういうわけか翡翠の瞳の色が黒へと変わった。どの角度から見ても、もうただの黒い瞳にしか見えない、不思議な眼鏡だ。

青年は、倉庫から一階のテラスへ回ると、そこから家の中へと顔を向けた。テラスから家の中へと続く戸は開け放たれており、すぐそこにはリビングがある。大きなソファーには、二十代の髪の長い女性と、三歳位の髪を二つに結った少女が座っている。青年の姿に気づくと、二人は揃ってその表情を綻ばせた。

「見つかりましたよ、ぬいぐるみ」
「テディちゃん!」

青年の手にあるテディベアを見つめ、二つ結びの少女は満面の笑顔で駆けてくる。彼は床に膝をつき、少女にテディベアを差し出した。

「少し汚れちゃってるけど」
佳奈かながキレイにしてあげる!」
「よろしくね」
「ありがとうございます、どこにあったんですか?」

佳奈がぎゅっと大事そうにテディベアを抱き締めれば、その後ろから、髪の長い女性が心底安堵した様子でやって来た。この女性が、紗奈だ。青年は顔を上げると、苦笑いを浮かべた。

「倉庫の奥の方に」
「そんな所に…すみません、プーちゃんが持って行っちゃったのかな」
「わんちゃんは責めないでやって下さい。きっと…一緒に遊んでくれたんじゃないでしょうか」

「ね」と声を掛ければ、プーちゃんと呼ばれたプードルは多々羅を見上げて「ワン!」と吠え、再び尻尾を振った。その様子に微笑んで、青年はテディベアを抱く佳奈に向き直った。

「このテディベア、寂しがり屋なんだ。きっと、紗奈さんがとても大事にしてくれてたから、紗奈さんに会いたくなって、迷子になっちゃったのかも」
「佳奈の側にいても寂しい?」
「佳奈ちゃんが大切にしてくれたら、きっとこの子も安心するんじゃないかな」
「佳奈、大事にする!紗奈ちゃんより、大事にする!」

ぎゅっとテディベアを抱きしめる佳奈に、紗奈も嬉しそうに笑った。

「良かったな、大事にしてもらえよ」

青年はテディベアにそう呟き立ち上がる。どことなくテディベアの表情も明るくなった気がするのは、気のせいではない筈だ。

「では、これで失礼します」
「ありがとうございます、本当に見つけて頂いて良かった」
「あなたが大切にしてくれたから、帰って来たんですよ」

青年はそう言って微笑んだ。



青年の名前は、瀬々市愛ぜぜいちあい、二十六歳。
宵ノ三番地よいのさんばんち」という、ちょっと変わった店の、店長代理を務めている。

彼は物の化身が見える瞳を持つ、探し物屋だ。




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