瀬々市、宵ノ三番地

茶野森かのこ

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時が止まったような錯覚が、彼女が驚いたように肩を跳ねさせた事で、多々羅の目を覚まさせた。

「あ、あの…」

多々羅は、どうにか声を絞り出した。ド、ド、と、忘れていたように心臓が騒ぎ出し、胸がぎゅっと苦しくて、頭が上手く回らない。
そんな多々羅を前に、彼女は戸惑った様子でいたが、ややあって、はっとした様子でシロツメクサの花かんむりを手放すと、その手で右目を覆った。

「い、痛いの?」

その様子に、多々羅は戸惑いながら声を掛けたが、彼女は首を横に振るだけだ。それから、右目を抑えたまま、座り込んだ状態で懸命に後退りをする。まるで怯えているような姿に、多々羅は困惑し、どうしてか自分まで怖くなった。
恐怖は伝染する、彼女が何を恐れているか分からないからだ。

「だ、大丈夫?あの、誰か、」

呼んで来ようか、と言おうとした言葉が、喉奥に吸い込まれた。彼女が、突然、ぱたりと倒れてしまったからだ。瞬間、多々羅は青ざめ、慌てて彼女に駆け寄った。

「ねぇ、どうしたの?大丈夫!?」

急に倒れてしまった事が怖くて、多々羅が懸命に体を揺すると、荒れた呼吸が返ってきた。その苦しそうな様を見て、多々羅は泣き出しながら「待ってて!」と伝えると、急いでシロツメクサの原っぱを駆け抜けた。

「どうしよう、僕のせいだ、どうしよう、お父さ、」

口に出し掛けて、多々羅は足を止めた。
もし、自分のせいであの子が倒れたなんて父に知られたら、怒られるかもしれない、ぶたれるかもしれない。
ド、ド、と、今度は責めるように心臓の音が体中に鳴り響く。多々羅は込み上げる恐怖に、胸元を握りしめ、ぎゅっと目を閉じた。
いつも父や祖父に怒られてばかりだった、自分が何かをしても褒められる事はなく、どうして出来ないのか、分からないのかと責められれば、怖くて悲しくて、落ち込むことばかりだった。

それでも、ぎゅっと瞑った瞼の裏には、苦しそうにしている彼女の姿が映る。

多々羅は、きゅっと唇を引き結ぶと、泣きそうになりながらもしっかりと目を開けて、再び走り出した。

「お父さん!誰か!誰か来て下さい!」

怒られても、叩かれても良い。あの子を助けなくちゃ。ごめんね、僕のせいでごめんね。
多々羅は心の中で繰り返し謝りながら、泣き叫ぶように、声を張り上げる。

早く、早く、誰か、誰か。

一生懸命走っているのに、多々羅の視界には屋敷の壁ばかりが見える。確実に人がいるのは屋敷の中で、中に入るには、玄関か中庭に向かわなくてはならないのだが、その中庭ですら遠く感じる。それでも懸命に声を張り上げながら走っていれば、通り過ぎた一階の窓が、思いがけず開いた。

「おや?誰かと思えば、多々羅君じゃないか。どうした?そんなに慌てて」

多々羅はその快活な声に足を止め、振り返った。
窓から顔を覗かせていたのは、ロマンスグレーという言葉がしっくりくる、白髪を撫でつけた男性だ。いつもはキリッとした眼差しが、今は優しく下がっている。深い皺も刻まれているが、年齢を重ねて滲み出る渋みや余裕が、その懐の深さを醸し出しているのかもしれない。

彼は、瀬々市正一ぜぜいちしょういち。瀬々市ホールディングスの会長であり、宵ノ三番地の店長だ。この時の多々羅は、まだ正一が店をやっている事も、物の化身が見える人間がいるなんて事も知らなかった。

多々羅は彼の姿を見つけ、ほっとした。ほっと心が緩めば、それはそれで涙が込み上げてきて、多々羅は再び泣き出しながら、窓の下へと駆け戻った。

「ぼ、僕のせいなんです!ごめんなさい、ごめんなさい!」
「おやおや…ちょっと待ってなさいよ」

正一は言いながら、窓枠に足を掛けた。彼はこの時、立派な袴姿で足袋を履いていた。え、と驚いたのは多々羅だけではない。「大旦那様!?」と、驚いた様子の女性の声が、窓の向こうから聞こえてくる。

「何をしているんですか!いけません…!」

大慌てで駆け寄る声が聞こえてくるが、正一は止めようとする声など聞きもせず、軽々と窓を飛び越えてしまった。この頃の正一は、七十代に差し掛かった辺り、それでも自身の身長よりも高い窓から飛び降りて、しっかりと着地を決めた。その足腰は今だ現役のようだ。
綺麗な白い足袋が、汚れるのも構わずぐっと地面を踏みしめる。絵に描いたようなロマンスグレーの紳士は、子供がやったら先ず怒られることを堂々とやってのける、その姿がなんだかかっこ良くて、多々羅はいつの間にか涙を止め、輝く眼差しで正一を見つめていた。

「さて、どうした?」

正一は何事も無かったかのようにその場で腰を落とし、多々羅に視線を合わせながら尋ねた。
多々羅は、その懐の深い瞳を見上げながら、大人達がいつも緊張した様子で正一と話していた姿を思い出していた。大人達の緊張は子供にも伝わるので、多々羅も子供ながらに正一には遠慮して、緊張して、いつも遠目に眺めていただけだった。

けれど今の正一には、大人達が緊張してしまうような怖さはない。凛々しい顔はちょっと怖いけど、高圧的どころか物腰は柔らかく、その優しさが、多々羅の心をつついて、多々羅の視界を再び潤ませる。話を聞いてくれようとしている正一が、ただ嬉しくて、安心してしまって。
けれど、多々羅はすぐに思い直して、ぐいと袖で涙を拭いた。
今は泣いてる場合じゃない、ちゃんと伝えなくちゃと、正一をまっすぐに見上げた。

「ぼ、僕のせいで、僕が声を掛けたから、女の子が倒れちゃったんです!助けて!きっとあの子死んじゃうよ!」
「女の子?」

正一は、顎に手をあて首を傾げたが、すぐに状況を理解したのか、膝を軽く叩いて立ち上がった。

「大旦那様!何をしてるんですか!履き物も履かないで、」
「お祖父様が外にいるの?」
「見てはなりません、お嬢様!」

窓の向こうからは、顔を覗かせた女性、使用人の遠野春子とおのはるこが、恐らく結子ゆいこに声を掛けられ、顔を出したり引っ込めたりしている。彼女は、多々羅も良く知っている女性だ。年齢はこの時、四十代半ば位だろうか、いつも髪をお団子にして、紺色のシャツとスカート、白い前掛けをかけている。この家の使用人スタイルだ。彼女は、仕事の傍ら多々羅達の遊び相手にもなってくれるので、多々羅にとって春子は、楽しいお姉さんといった印象だった。

「遠野君!愛が倒れたようだ、念のため主治医を頼む!騒がせたくないから、皆には気づかれないようにな!」
「えぇ!?か、畏まりました!」
「愛ちゃん具合悪いの?」
「お嬢様もご内密に!大変大変!お嬢様もお坊ちゃんも、早く早く!」

春子が慌てふためきながら、結子と凛人りんとを連れて駆けていく様子が窓の向こうから聞こえてくる。
正一はその様子に、些か心配そうに頭を掻いたが、気を取り直して多々羅と向き合った。

「その子はどこに?」
「裏の原っぱです!」
「よし、行くぞ!」
「わ!」

そう言うと、正一は軽々と多々羅を肩に担ぎ走り出した。多々羅は驚きつつ、正一のがっしりとした肩にしがみついた。確かな足取りで、正一は風を切り颯爽と走っていく。肩に担がれた多々羅は、振り落とされないようにしがみつくことで精一杯だ。景色はどんどん流れ、来る時はあんなに遠くに感じたのが嘘のように、あっという間に原っぱに着いてしまった。
多々羅は肩の上で振り返ると、原っぱの真ん中に居る少女を見つけ、声を上げた。

「あ!あの子です!」
「よし、任せなさい!」

正一は、またもやあっという間に少女の元へ駆け寄ると、多々羅をゆっくりと原っぱに下ろした。それから少女の側で膝を付き、その体を抱き上げると、そっと彼女の目元に大きな手を当てた。

「大丈夫だ、怖い事はないよ、大丈夫」

正一が優しく声を掛ける、深みのある温かな声だ。少しの間そうしていると、少女の呼吸も幾分落ち着いてきたが、それでも多々羅は、気が気ではなかった。

「た、助かるの…?」

心配そうに尋ねる多々羅に、正一は笑って多々羅の頭を撫でた。

「あぁ、大丈夫だよ。知らせに来てくれて助かった」
「僕のせいだから…」
「君のせいじゃないさ」
「嘘だ!だって僕が声を掛けたから…!僕どうしたらいい?どうしたらこの子の助けになれる?」

必死に言い募る多々羅に、正一は笑ってその頭をくしゃ、と撫でた。

「じゃあ、この子、愛の友達になってくれるか?」
「え?」
「この子にとっては、それが希望になるんだよ」
「なる!なりたい!そんなので良いの?」
「“そんなの”が、必要なんだ。さ、一緒に行こう」

愛と呼ばれた少女を抱えて立ち上がった正一に、多々羅は頷きつつ後を追う。嬉しい、なんて思ったけれど、ぐったりとしてる愛の姿を見たら、その気持ちも心配と混ざり合い、複雑な思いにかられていた。喜んだけれど、愛はこんな自分を受け入れてくれないかもしれない。だって、自分のせいで倒れたのだから、と。



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