瀬々市、宵ノ三番地

茶野森かのこ

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「多々羅君じゃないか!大きくなったな!」
「ご、ご無沙汰してます、正一しょういちさん。俺の事覚えていてくれたんですね」

多々羅が正一と最後に会ったのは、子供の時だ。それでも正一は多々羅を覚えていて、大人になった多々羅に気づいてくれた。正一の駆けてくる勢いには驚いたが、覚えてくれていたのは嬉しかった。

「勿論だ!君は、愛と仲良くしてくれたし、うちにもよく遊びに来てくれたからな!懐かしいな…いや、立派な青年になられた!」
「いえ、正一さんこそ、お変わりないですね」
「はっはっは!健康だけが取り柄だな!なかなかくたばらないから、皆辟易してるよ」
「また、何言ってるんですか」

こういう冗談を飛ばして笑うのも、相変わらずだ。正一は、家に縛られず、どんな人でも分け隔てなく接してくれる。愛がこの家に来るまで、多々羅は正一が怖い人だと思っていたが、その思い込みが取り払われてしまえば、その朗らかで気前の良さが、子供ながらに気持ちが良くて好きだった。周りの大人達は怖い顔をしてばかりだったから、余計にそう感じたのかもしれない。

「今日は、愛に会いに来てくれたのかい?」
「あ、えっと、…仕事で近くまで来たものですから」

多々羅は咄嗟にここに来た理由を繕った。家の前まで来たのだ、正一がそう思っても仕方ないが、愛に会うには少し心構えが必要だった。
楽しかった思い出、その裏にいる自分は、あの時から何も成長していない。そんな自分を愛に会わせるのは、少し怖かった。愛は、多々羅が多々羅でいられる最後の砦のような気がして、もし、否定的な目で見られたらと思ったら、会いに来たなんて堂々とは言えなかった。

それに、手土産もないし、たまたま通りかかっただけだから。多々羅は心の中で、言い訳を繰り返した。

「そうか、引き止めて悪かったな、時間は大丈夫かい?」
「はい、今日はもう仕事から帰る所なので…」
「そうかそうか!良かったら、お茶でもどうだい?」
「え、でも…」
「大丈夫大丈夫、今日は僕しかいないから」

その朗らかな笑い顔に、多々羅はきょとんとして正一を見上げた。まるで、心の声を読まれたかのようだったが、正一の表情からは、多々羅を可哀想とか情けないとか、そんな風に感じている様子は見えない。単純に、僕らの仲じゃないかと、そんな風に言われている気がして、その正一の軽やかさに、知らず内に強張っていた多々羅の心も解れていくようで。

正一は、相変わらず力強い腕で多々羅の肩を抱く。その強引さが、今の多々羅には心強く嬉しかった。



「あら、お帰りなさい…やだ、懐かしいわ!多々羅君?」

そうして、正一に引きずられるように向かった瀬々市ぜぜいち邸。その広い玄関で出迎えてくれたのは、使用人の女性、遠野春子とおのはるこだ。多々羅が愛と出会ったあの日、不安になる多々羅に寄り添い、一緒になって遊んでくれた女性だ。
春子は、白いワイシャツに黒のパンツ姿、白い前掛けを掛けている。髪を短くして、年齢を重ねた印象はあるが、その愛嬌のある微笑みは変わらない。年齢は、六十代半ば位だろうか、多々羅も良く世話になっていたので、彼女も多々羅の事を覚えていてくれたようだ。

多々羅は久しぶりの豪華なお屋敷に、先程とは違う緊張を覚えていたが、懐かしい顔が見れてほっと緊張が解れたようだ。

「お久しぶりです、春子さん」
「やだ、覚えてくれてたの?嬉しいわ!多々羅君、すっかりお兄さんになられて!今、仕事は?この町に帰ってきたの?今日はご飯は、」
「はいはい、積もる話は後にして、お茶よろしく頼むよ」
「あらやだ、私ったら!さぁさぁ、上がって上がって!今は大旦那様しかいらっしゃらないのよね、愛さん達が居たら喜んだのにねぇ」

正一に促され、春子は朗らかに笑いながら、多々羅に上がるよう促し、キッチンへ下がって行く。昔と変わらない春子の様子に、多々羅は思わず頬を緩めた。春子はいつもあんな感じで、明るく多々羅を招き入れては、何かと世話を焼いてくれた。

「相変わらずだろ?」
「はは、皆さん元気そうで何よりです。すみません、手土産もなく」
「何、要らんよ。僕達の仲じゃないか、僕としては、いつでも遊びに来て欲しいくらいだよ。僕もまた海外に行っちゃうから、愛の為にも来てくれたら嬉しいんだけどね」
「愛ちゃんの為?」

それはどういう事だろう、愛に何かあったのかと不安になる多々羅に、正一はこめかみを掻きながら、どこか困った様に話を続けた。

「実はねぇ、僕がやってた店あるでしょ」
「はい、探し物屋さんでしたっけ?」
「そうそう」

リビングに通され、豪華な家具や広々とした部屋に圧倒されつつ、多々羅はソファーに腰かけた。ふかふかで、手触りも良い。こんなに良いソファーだったのかと驚くと同時に、このソファーの上でジャンプして遊び回っていた度に、大人達が顔を青くしていた理由も今ならよく分かり、多々羅は自分でも血の気が引く思いだった。
実家で、こんな上質なソファーの上で跳び跳ねようものなら、げんこつものだ。それ以外にも、豪華な壺やら置物やらが並ぶこのリビングで、鬼ごっこや隠れんぼをした記憶もある。それでも、青い顔を浮かべるのは瀬々市家以外の大人達ばかり。正一も愛達の両親も、よく怒らなかったなと、今頃その懐の深さを感じていた。

「それでね」という正一の声に、多々羅ははっとして顔を上げた。向かいに座る正一は、まだどこか困ったような苦笑いを浮かべていた。

「今はその店を愛に任せているんだよ。一応、店長代理としてるけど、今回の旅で帰って来たら、正式に受け継いで貰うつもりでね。だから、愛は今、一人暮らしをしてるんだ」
「え…」

愛が店を受け継ぐ事よりも、最後の一言に、多々羅は信じられず固まった。
そこへ、春子がトレイにカップとケーキを乗せてやって来た。眉を寄せて固まっている多々羅を見ると、春子はおかしそうに笑った。

「ふふふ、愛さんを知る人は、皆同じ反応をしますね」

笑いながら、春子は、湯気の立つコーヒーのカップと、香ばしく甘い香りで食欲を誘うアップルパイを差し出した。

「今日は大旦那様のリクエストで、アップルパイを焼いていてね、焼いておいて良かったわ」
「僕のおかげだね!」
「調子の良いことをおっしゃって。本当は、あんまり甘い物食べちゃいけないのよ?今日は皆さん居ないからって」

「幾つになっても、困った大旦那様でしょ」と、春子は仕方なさそうに多々羅に笑って言えば、「たまには好きな物食べたって良いじゃないか!」と、どこか拗ねたように正一が言う。ここでも変わらない二人のやり取りに、多々羅は笑ってしまった。

「と、まあ、そういう訳でね。愛は、僕が居る内に一人での仕事に慣れたいからって、今は店の二階で一人で暮らしてるんだ」
「あの、一人で大丈夫なんですか?仕事より、家事とか出来るんですか?」

多々羅の記憶に残る愛は、方向音痴に加えて典型的なお坊ちゃんというイメージだ。賢いし、偉ぶったりはしないが、世の中の事をよく知らないという印象がある。思い返せば、多々羅はあの頃からよく愛の世話を焼いていた。
多々羅の疑問は容易に想像出来たのだろう、正一は困り顔で笑った。

「まぁ、出来る訳ないよね。そのくせ、誰の手も借りたがらないんだ。スーパーに行っても買い物が出来るのか、そもそも帰って来れるのか…」
「それ、問題だらけじゃないですか」
「だからね、近所のお嬢さんに助けて貰ってるんだけど、あんまりウマが合わないみたいで…というよりも、愛が素直に頼らないから上手くいかないんだけどねぇ」

やれやれといった様子で、正一はコーヒーをすすり、その味わいに目を輝かせると、春子を振り返って、グーサインを出した。すると、春子も笑顔でグーサインでお返しをする。美味しいと起こるやり取りのようだ。

「それにね、ほら、多々羅君も知っての通り、あの店の仕事は普通じゃないし、もしまた一人で倒れたりしたら、あの子は誰にも助けて貰えないんじゃないかって」
「え、」
「だからね、店の仕事や家事をやってくれる子を探してるんだけど…ほら、誰にでも頼める事じゃないだろ?愛の事情を知ってる人で、信頼のおける人間じゃなきゃ。僕は研究の旅があるしねぇ…」

そう言いいながら、正一は何気なくを装い、多々羅をチラリと見上げる。その視線に込められた意図がありありと分かり、多々羅は瞳を彷徨わせた。

正一がこんな話をするのは、多々羅に店を手伝ってほしいからだ。多々羅は暫く会っていないとはいえ、愛の瞳の秘密を知っているし、正一が特殊な探し物屋をやっていることを知っている。多々羅は、それを今まで誰かに言いふらすこともしなかった。正一にとって多々羅は、愛を安心して任せられる存在なのかもしれない。

信頼されているのだろうか、そう思えば嬉しくなるが、それと同時に、正一には今の自分の状況が見抜かれているのではとも感じられ、多々羅は少し不安になった。
正一は、こんな自分をどう思っただろう、ただ楽な方へ逃げたいだけの臆病な人間だと思っているだろうか。正一がこんな事で人を見下す人間ではないと分かっていても、多々羅にとって正一はやはりヒーローで、不甲斐ない自分を見せて失望される事が怖かった。

「だから、どうだろう多々羅君。愛を助けてやってくれないだろうか?勿論、君にも仕事や生活があるのは分かっている、住み込みが無理なら、週に何度か通いでも良いんだ、何ならたまに様子を見てくれるだけでも良い。ちゃんと給料は払うよ、僕は結構お金持ちだしね、店の経営が難航しても、多々羅君の生活だけは保証する」

正一の熱心な言葉に、多々羅は戸惑いながら、俯けていた顔を上げた。

「…お給料の事より、その…俺なんかで良いんでしょうか。愛ちゃんとは子供の頃に別れたきりだし、愛ちゃんが何て言うか…」
「大丈夫だよ、多々羅君だからお願いしたいんだ。愛にとって君は、子供の頃から信頼出来る人間だからね」

臆病に揺れる気持ちが、正一のまっすぐな眼差しに射ぬかれて、はっとする。
こんな自分でも、誰かの役に立てるのだろうか。そんな淡い期待に、胸の奥底が熱くなる。

今まで頑張ってきたけど、一体何の為に頑張っているのか、分からない事ばかりだった。
歌舞伎の世界から逃げ出したのに、結局自分は、八矢宗玉はちやそうぎょくの兄でしかない。
この先、自分は何の為にあるのか、未来に希望も何も見いだせなかった。

瀬々市の家の前で足を止めたのも、もしかしたら、あの頃に戻りたいと思ったからかもしれない。
まだ何度でもやり直せた、何も考えないでいられた、何も分からないで父親の後をついて回った頃。何も知らない愛の手を引いて、遊び回った頃。

愛と共にいれば、またあの頃のように戻れるような気がしてしまった。
多々羅は悩みながらも、正一の提案に頷き、そのひと月後、会社を辞めた。
同僚達は引き止めてくれたが、多々羅は笑ってお礼が言えた。
心が軽かった。今なら、多々羅に声を掛けながらも、その視線が八矢の家に向けられていたって、軽く受け流せそうだ。それは、多々羅の心がもう別の方へ向いてるからかもしれない。新しい場所で、誰かのではなく、多々羅として見てもらえる場所へ。


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