瀬々市、宵ノ三番地

茶野森かのこ

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坂の下には小さな公園がある、多々羅たたらもよく遊びに来ていた公園だ。あの頃は広いと感じていた公園も、今見てみれば、こんなに小さい公園だっただろうかと、多々羅は時の流れを感じずにはいられなかった。滑り台もブランコも、ちょっとしたアスレチックも、記憶にあるより小さくて。鬼ごっこをするのにも最適に感じられた広い敷地も、大人になった多々羅には、顔を少し左右に向けただけで、その敷地が視界に収まってしまう。子供の頃は、端から端まで見えなかったのに。きっと今なら、端から端まで走っても、あっという間に着いてしまうのだろう。

「よく、愛ちゃんと来てたな…」
「あの頃は、いつも一緒に遊んでたよね。愛ちゃん、家に帰ってからも、よく多々羅君のこと話してたんだよ」
「そうなの?」

結子ゆいこの話に、多々羅は胸が温かくなっていくのを感じる。公園には、近所の子供達が、わーきゃあ言いながら駆け回っている。その姿にいつかの自分と愛を思い浮かべ、自然と頬を緩めた。

懐かしさに浸っていると、結子がベンチを指差し手招いた。公園には池があり、それほど大きくはないが、池の上には橋がかかり、そこから池の中を覗く事も出来る。昔は鯉や亀や蛙がいたが、今も生き物はいるだろうか。
結子が手招いたのは、池の周囲に設置されたベンチだ。日向ぼっこには最適の場所で、いつも誰かしら腰かけていたイメージがあったが、今日は空いているようだ。

二人で池を前にベンチに腰掛けると、結子は手にしていた袋から、ドーナツを取り出し多々羅に手渡した。多々羅がそれを受け取りながら、瀬々市ぜぜいち邸で春子特製のアップルパイをいただいた事を伝えると、結子は困ったように笑った。

「アップルパイか~、たーちゃんに会えて良かった。これ持って帰ったら、またおじいちゃんに甘い物食べさせるところだったよ」
「はは、甘い物控えろって言われてるみたいだね」
「そうなの!でも、おじいちゃん根っからの甘い物好きだからさ。普段我慢してる分、私がたまに帰って来た時には、お土産買っていってあげようって思って買ってきたんだけど」

「ダメね」と、結子は笑って肩を竦めた。

「でも、いいの?俺が食べちゃって…正一しょういちさん楽しみにしてたんじゃない?」

毎回手土産に甘いものを持っていってるなら、このドーナツを食べてしまったら、正一は残念に思うのでは。そう思い、口にするのを躊躇う多々羅に、結子は軽やかに笑って手を振った。

「良いの良いの。今日はもうアップルパイ食べてるし、それ以上は食べすぎになっちゃうもん。家に持って帰るとばれちゃうし。春ちゃんとこっそり食べても、僕の分はないのかって、見抜かれちゃうんだよ?
だから、多々羅君に会えて助かった!食べて食べて!」

甘いものに対する正一の執着は、なかなかのもののようだ。多々羅はそんな正一の姿を思い浮かべて苦笑い、「ご馳走さまです」と、有り難くいただくことにした。

「ふふ、やっぱりこれが一番美味しい」

二人して笑ってドーナツを頬張ると、優しい甘さに懐かしさを感じる。ドーナツの味のせいか、それとも隣に結子が居るからだろうか。
先程アップルパイをご馳走になったばかりだが、不思議と口が進んでしまう。
多々羅がつい結子を見つめてしまえば、不意に結子がこちらを見上げ、目が合うと、柔らかに微笑んだ。その表情が綺麗で、愛らしさに満ちていて、多々羅の胸を激しく打ち鳴らすものだから、多々羅は慌てて明後日の方へ顔を向けると、この胸の高鳴りを打ち消すように、頭をフル回転させて会話の糸口を探した。

「そ、そういや、ゆいちゃんて今一人暮らしなの?」
「うん。凛ちゃんも家を出てるけど、凛ちゃんは週一くらいで帰ってきてるみたい」

凛ちゃんとは、弟の凛人りんとの事だ。因みに、先程、結子の会話の中で出てきた春ちゃんとは、春子の事だ。結子は、近しい人達を、ちゃん付けで呼ぶ傾向にある。

「あ、おじいちゃんから愛ちゃんの事聞いた?」
「…うん、それで、正一さんから打診された。愛ちゃんの事、手伝ってくれないかって」
「本当!?やってくれるの!?」

苦笑って言えば、突然瞳を輝かせた結子の顔が迫り、多々羅は再びドキリと胸を震わせた。
どんなに誤魔化そうとしても、間近に迫るふわりと香る甘さに、結子が女性なのだと気づかされてしまう。

「…えっと、俺で役立てるなら、やってみようかな、とは…」
「私は、賛成!あ、たーちゃんがよければだけど」
「でも、俺なんかが役に立つのかな…」
「たーちゃんなら大丈夫だよ!私達じゃ、会ってもくれないし」
「え?」
「おじいちゃんの店で暮らすようになってからは、私達の事も避けてるみたいで。おじいちゃんだけなんだ、愛ちゃんと会えるのは」

結子は寂しそうに多々羅を見上げて微笑んだ。

「ね、覚えてる?たーちゃんが、愛ちゃんに初めて会った日の事。愛ちゃんを守るって言った事」
「…うん…」

多々羅には、少々苦い思い出だ。あの時は、本気で愛の事を女の子だと思っていたし、恋していた。もし、愛が男の子だと知っていたら、あの時、何て言っただろう。

「私は、守れなかった。力になりたいけど、愛情って難しいね、人を弱虫にもさせるみたい。これ以上離れたくないと思うと、どう声を掛けたらいいのかなってさ。
愛ちゃん、私達を重荷に感じて離れたのかも。愛ちゃんは、好きで家族になった訳じゃないもんね」
「…そんな事ないでしょ」
「だって、辛そうだったもん」
「…何かあったの?」

その問いに、結子は少しだけ迷いつつ口を開いた。

「…愛ちゃん、話してくれないから分からないんだけど、中学に入る頃、留学したでしょ?あれって、勉強の為じゃなかった気がするの。その少し前にね、凛ちゃんが家で怪我した事があって、その時から愛ちゃんの様子がおかしかったんだよね」
「…愛ちゃんが、怪我させたって事?」
「違う違う!凛ちゃんも、ただ転んだだけって言って否定してるし、私達も怪我させたなんて思ってない。ただ、愛ちゃんだけが、あの時から距離を置き始めて…何年も一緒に居るのに、急によそよそしくなったっていうか…」
「それが、今までずっと?」

すると、結子は緩く首を横に振った。

「日本に帰って来てからは、だんだんその距離も戻っていったけど、去年かな…あの瞳の事で何かあったみたいでね、その時おじいちゃんも愛ちゃんと一緒に居たんだけど、ちょうど目を離してたみたいで、何があったか分からないんだって。それで、愛ちゃんはまた話してくれなくて」

結子は、ふぅと息を吐いて顔を上げた。

「家族って、何だろうね。私達がいくら思っても、愛ちゃんの心には届かない、辛い時に手を貸せないなんて、信用して貰えないなんて、私達はどうすれば良かったんだろ…」

そう言いながら、「やだ、情けないよね、こんな事言って」と、結子は笑ったが、笑いきれなくて、ポロッと涙を零してしまった。
多々羅は驚き、焦ってハンカチを差し出そうとしたが、なかなか見つからない。そのあたふたしている様子を見て、結子はおかしそうに笑った。

「ふふ、」
「あ、わ、笑わないでよ!かっこつかないな、俺」
「格好つけなくても、カッコいいよ、たーちゃんは」

「え?」と、多々羅は目を瞬いた。

「…愛ちゃんを私達の家族にしてくれたのは、たーちゃんだと思ってる。私ね、また愛ちゃんが遠くに行ったらどうしようって怖くて。今度また遠くに行っちゃったら、もう帰ってきてくれないかもしれない。もし、たーちゃんが良いなら、愛ちゃんの側に居てあげてほしい、私達の代わりに」

涙に滲む瞳が、多々羅を映す。零れる涙が綺麗で、それに触れたくなる。そんな自分の気持ちに気づき、多々羅はぎゅっと手を握った。
結子の涙を拭いたくて、いやそれよりも、真っ直ぐと自分を頼ってくれる事が、弟の穂守ほがみではなく、自分を必要としてくれる事が嬉しかった。
多々羅にはもう、迷う理由はなかった。

「俺に任せてよ!愛ちゃんだって、皆と距離を置くのは、何か理由があるんだよ。愛ちゃんが、皆の事嫌う筈ないじゃん!だから、また前みたいに過ごせるよ。家族なのに、会えないのはおかしいじゃん」

言っていて、多々羅は矛盾している事に気づく。
人の事をとやかく言えない、多々羅だって家族と距離を置いている。
でも、だからこそ、愛には自分のように一人になって欲しくなかった。愛は自分と違って、こんなに愛されているのだから。

「俺が、愛ちゃん連れてくるからさ!」
「…うん、ありがとう。ありがとう、たーちゃん」

その安堵したような微笑みが、多々羅の胸をドッと打ち付けた。次第に速まる鼓動に、多々羅は胸を押さえながら、嫌でも気づいてしまう。

俺、結ちゃんの事、好き…?

思った瞬間、多々羅は瞬時に顔を赤らめ顔を背けた。結子は不思議そうに、多々羅の顔を覗き込む。

「どうしたの?」
「え!?いや、な、何でもないよ!」

幼い頃は何とも思わなかった事が不思議なくらい、今は結子がキラキラと輝いて見える。
多々羅の事を多々羅として見てくれる数少ない人。そんな彼女が、自分を頼ってくれる。それだけで、こんなにも世界が明るく満ちていくなんて。


勿論、愛の側に居る事を決めたのは、正一に誘われた事も大きい。けれど、決定打を押したのは、結子だった。
多々羅の中に少なからず抱いていた不安が、今は綺麗に消えさっている。
恋の力は、いつだって偉大だ。



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