瀬々市、宵ノ三番地

茶野森かのこ

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翌日、愛と多々羅たたらは宵の店を休みにして、電車に乗り込んだ。

休日という事もあってか、電車内はいつもより人が多い。多々羅はスマホで降車駅を確かめ、それから隣に立つ愛へと視線を向けた。今日は仕事ではないが、愛はいつものようにきっちりとスーツを着込み、瞳の色を隠す眼鏡を掛けている。いつも通りの見慣れた装いだが、その瞳には、いつもの強がりも不機嫌な様子も見えず、ぼんやりと窓の向こうを見つめている。恐らく、愛の瞳には、車窓の向こうに流れる景色も映っていないだろう。その様子に、多々羅は些か落ち着かない気持ちになりながら、そっと自身の右肩に視線を向けた。すっかりヤヤの定位置となった多々羅の右肩に、今日はその姿がない。空っぽの肩を見つめながら、多々羅は家を出る前の、ヤヤとのやり取りを思い返していた。



***



多々羅がそうしてほしいと言ったわけではないが、ヤヤは愛の様子を見て、着いて行くのを遠慮したようだった。

「多々羅殿、」

支度を済ませ、多々羅が店へと続く階段へ向かうと、多々羅を待っていたのか、階段の下にヤヤの姿があった。

「どうした?」

多々羅が声を掛けながら階段を下りると、ヤヤは不安そうに瞳を揺らしながら多々羅を見上げた。
この時のヤヤは、いつもの肩乗りサイズではなく子供のサイズで、いつも多々羅がそうしているように、エプロンを掛け、埃取りを手にしていた。

ヤヤがこんな姿をしているのも、留守番をする間、多々羅の仕事を自分が引き受けると申し出てくれたからだ。

子供用のエプロンはさすがに用意がなかったので、多々羅は自分のエプロンをヤヤの体に合うように捲り上げ、腰の紐を巻き付けて固定してやった。
普段から多々羅と一緒に居る事が多いせいか、ヤヤはよく多々羅のお手伝いをしてくれている。人の生活にも興味津々のようで、何でもやりたがった。その思いの中には、多々羅の役に立ちたい気持ちもあるのだろう、褒められた時はいつも嬉しそうにしていた。

そろそろ子供用のエプロンを買ってあげないとな。多々羅は頭の片隅でぼんやりと思いながら、ヤヤの視線に合わせるように腰を落とした。

「何かあった?」
「その…愛殿をお支え下さいね。皆さんも心配しているので…」

ヤヤは不安そうに店の中へ目を向けた。その視線の先には、愛を心配そうに見つめる用心棒達の姿がある。

昨日、愛は過去と向き合う覚悟を決め、多々羅にも一緒に着いてきてほしいと言った。その時は、どこか清々しささえ感じていた表情も、今朝はどこか様子がおかしかった。ぼんやりしているし、かと思えば緊張しているように表情を強張らせたりする。覚悟を決めたとはいえ、それで恐怖がなくなるかといえば、それは別の話だろう。愛は、そんな自分と戦っているのかもしれない。皆もそれが分かるから、敢えていつも通りに接しているのだろうけれど、心配な気持ちがそれで消える訳ではない。
ヤヤだって、事情は分からなくても、愛に何かあったことくらいは分かるだろうし、いつもは頼りになる用心棒達の落ち着きのない姿を見れば、不安にもなるだろう。

多々羅はそっと眉を下げて頬を緩め、その小さな頭を撫でた。

ここには、愛の事を大事に思ってくれる物達がいる。人ではないけれど、それでも同じ心を持った者達だ。愛を大事に思ってくれるのも、愛が物達に心を注いできたからだろう。これから会いに行く人と愛の間に、何があったのかは分からないけど、それでもきっと心を尽くせば、愛の思いはその人にだって伝わる筈だ。そうしたら、愛の中にある過去へのわだかまりも、自分の事を否定し続けるその思いも、少しは変わるかもしれない。
何より、誰に否定されても、この店の用心棒達は、きっと愛の味方でいてくれる。それが人には見えない物の化身であったとしても、その思いはきっと、愛の心を守ってくれるだろう、そう思えば、多々羅は心強かった。

多々羅はヤヤと視線を合わせ、しっかりと頷いた。

「分かった、任せて。ヤヤも、皆と店の事よろしくね。皆で帰りを待ってて」

少しでもヤヤが安心出来るよう、そっとその頭を撫でてやれば、ヤヤは照れくさそうにしながらも、安心した様に表情を緩めてくれた。




***



いつもより軽く感じる右肩に視線を向けていた多々羅は、出掛けの記憶から顔を起こすと、落ち着かない気持ちを振り払うように気合いを入れ直した。
自分が愛を支えなくては。愛がこれからどんな人を訪ねに行くのか、多々羅はまだ詳しい事情も聞いていないが、愛が頼ってくれたのだ、ここで力を尽くさないでどうする。多々羅はそう自分に言い聞かせた。そうでないと、漠然と感じる正体の分からない不安に飲まれてしまいそうだったからだ。



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