あじさいの咲く庭で

茶野森かのこ

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あじさいの咲く庭で3

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「あ、雨に濡れてしまいますよ…」

長く続いた体調不良、家で暫く寝込む日々を送っていた為、家族以外の人に口を開いたのは久しぶりだった。それは緊張のせいか、恐怖のせいか、その声はか弱く細く、この声が彼に届いているのか、自分では判断がつかず、正幸はそんな自分が恥ずかしくなった。

自分は、彼によく見られたいと思っているのだろうか、こんな弱々しい姿、情けないし、みっともないと思ってしまう。

だが、そんな正幸のか細い声がかろうじて届いたのか、それとも人の気配に気づいたのか、彼はきょとんとしてこちらを見やった。綺麗な瞳に自分が映っている思うと、途端に身体中の熱が顔に集中していくようだった。
そうこうしていると、彼が怪訝そうな表情を浮かべて縁側までやってきったので、正幸は、この赤面が彼に嫌な思いをさせてしまったのでは、それとも声をかけた事が煩わしかったのかと、慌てて言葉を繕おうとした。
だが、そもそも正幸が彼に気を遣うのもおかしな話だ。初めはカラスの姿だったとしても、今の彼は人の姿だ、人の家の庭に不法侵入しているともいえるのではないか、いや、そもそも人なのか何なのか正体がはっきりしない時点で問題は起きているのだが、この時の正幸の頭が正常に働く筈もない。体調が悪い上に、代わり映えしない暗いばかりの世界が一変してしまった。正幸にとっては、無感動で無感情な世界を静かに打ち破る、衝撃的で、体に染み渡る希望のような出会いだったのだから。


側までやってきた彼は、正幸の顔をまじまじと見つめ、それから、何か納得出来る考えに思い至ったのか、やれやれといった具合で頭を緩く振った。

「聞き間違いか。どう見たって、あやかしではないしな。しかし、いつの間に人が住んでいたんだ?小綺麗な顔をして、アサジとは似ても似つかないな。嫁の血が濃かったのか?」
「…あ、アサジ?よ、嫁?」

何の話だろうか、でも、声を掛けられているなら何か反応をしなければと、混乱に戸惑いながらも正幸が尋ねれば、彼はぎょっとした様に正幸を見下ろした。

「え、いや、待て待て、お前、俺の姿が見えているのか?」

その発言の真意が読めず、正幸は狼狽えつつ言葉を返した。

「えっと、あの、すみません、雨に濡れては体を悪くすると思って、その、雨宿り、あ、傘!傘をお持ちした方がよろしかったですか…?」

とにかく、彼に不審がられないようにと、視線をうろうろと彷徨わせながら必死に言葉を繕っていれば、不意に頭上に影が降り注いだ。知らぬ間に俯いていた顔を上げれば、いつの間にか彼が顔を寄せ、まじまじとこちらを見下ろしていた。

「あ、あの、」

どきどきと、心臓が煩くて仕方なくて、まるで全身が波打つようだった。視界が彼で埋め尽くされ、世界が彼でいっぱいになってしまう、このまま世界が彼で溢れてしまったら、自分はどうなってしまうのだろうと、正幸は混乱の極みだった。
突然のことに正幸がパニックに目を回していれば、彼はどういう訳か、キラキラと瞳を輝かせた。

「お前、本当に俺が見えているんだな。人に化けていないのに…祓い屋という訳でもあるまいし」

考え込みながらも、どこかソワソワとしているその姿。その中で彼が呟いたその言葉に、彼はやはり人ではないのかと、正幸は今更ながら思い至った。まだ、ぼんやりとしたゆでダコのような頭では、上手く現実を受け止められているのか怪しいものではあったが、今はそれを考えるよりも、この時間を一瞬でも長く留めておきたい。

「あ、あなたみたいな美しい人が、目に入らない訳がありません…!」

すると、彼は一拍、目を瞬いた後、おかしそうに声を上げて笑った。

「そうか、お前は俺が気味悪くないのだな」

あの紫陽花に向けたように柔らかく、それでいて少し気恥ずかしそうにその瞳を緩めたものだから、正幸の世界は色とりどりの紫陽花が咲き乱れ、その目まぐるしく変わる世界に、正幸は卒倒しかねない心境だ。
そんな正幸の様子には気づかないのか、彼は言葉を続けた。

「普通、俺のような妖は、人には姿が見えないんだ。こんな風に見える人間と出会うのは、何十年振りだろうか、片手では足りないくらいだというのに」

十年単位で数えて、片手では足りないという事は、彼は一体いくつなのだろうか。見た目は二十代の青年にしか見えないのだが。しかし、そんな疑問も、今の正幸にはすっと浮かんでは消えてしまう。
人の時間感覚はよく分からないが、そう呟きながらも、彼はどうしてか楽しそうで。そんな姿を見てしまったら、また正幸の世界がきらきらと輝いて、もういよいよ心臓が狂い出すかもしれない。それはいけない、この時間をもう少し引き伸ばせるなら、しっかり息をして生きなければと、正幸はどうにか深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着けようと必死だった。

「では、少し雨宿りさせてもらっても構わないだろうか」

そう言いながら、彼は縁側に腰かけたものだから、落ち着けた気持ちが途端に跳ねだして、心臓がどこかに飛んでいってしまいそうだった。

だが、そうならなかったのも、隣に座る彼のお陰である。

ただ座っただけだというのに、その姿はまるで絵になる。それだけではない、漂うどこか危なげな雰囲気が、色香を引き出させているようで、正幸は知らず内に釘付けになっていた。

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