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しおりを挟むレーゼン伯爵家。本来の主人であるレーゼン伯爵は、夜の闇に浮かび上がるような血色のない顔をして、ベッドの縁に腰かけている。
「なあ…いるんだろう?」
憔悴しきった彼は虚空に呼び掛けると、それは待ちかねたようにすぐに現れた。
奇怪で不思議な十字にほとばしる光の塊。
その中央にぽつぽつと黒点がにじみ出し、細い蛇のような指が一本だけにゅっと突き出る。
その指が、黒点を掻き回すように動いたあと、大きなシミのようになった闇のなかに、赤い目が覗いた。
「やっと願いが決まったのかな?ああ、前にも云ったが、あの子を返せと言うのは無しだよ」
「わかってる…」
「愚問か。君がそんなことに願いを使うはずがない」
伯爵は歯を噛んだ。こめかみに血管を浮きだたせ、強い憎しみを込めて、ニヤつく白蛇の目を睨み付けた。
「――森を退かせてくれ」
我が意を得たり!そう言ったように、赤い目は弓なりに歪む。
「ああ、ついに…!いいとも、いいとも!すぐに退こうじゃないか!」
高らかな哄笑を聞きながら、伯爵は悪夢の最中にいた。
森が留まるようになって翌日に現れたこの悪魔は、フォワレが成長したことを把握して、ついに親という関係を譲るように求めてきたのだった。
願いをなんでも三つ叶えることと引き換えに。
「残りの願いは今は…」
「保留かい?いいだろう。願いは待ってあげるよ。その代わり、今からあの子は僕のものだよ」
伯爵は森の滞在へのストレスから倒れたあともなお続く、返答を待つ彼の気配に根負けしてしまったのだ。
それでも彼にも言い分はあった。父である前に自分はクズマの領主なのだと。
深い懊悩の末の答えなのだと。
決してフォワレを邪魔扱いしたわけではない。
口を抑えて俯く彼に、白蛇は機嫌よくも軽薄に声をかけた。
「君はなんにも間違っちゃいない。自分の子と引き換えに領地を救う決断をしたんだ。立派だよ、ねえ」
これで、愛しいエスポーサが溺愛する我が子を自分から悪魔の手に引き渡したことになる。
伯爵はなにも答えられず、ただ蒼白の顔に脂汗を流していた。
しばらくすると彼の気配は薄まり、完全に無くなった。
破裂しそうなほどに早鐘を打ち続けていた心臓が、泣き明かした子供が眠るように収まっていく。
ベッドの縁に座り続けていた彼は、しばらくぶりに立ち上がった。深い絶望が、最愛の妻にこの状況を共有するべきだと体を突き動かしたのだ。
*
フォワレはふかふかのベッドの上で、もう外に出ることは叶わないのだろうか、と小さくため息を吐いた。
カロルの脅迫にもめげず、あれから数度森を歩いたものの、慣れる様子は一向にない。
どうしようもなく胸が脈打ち、立っていられず腰砕けになってはカロルに抱かれてこの部屋に戻る。その繰り返し。
フォワレはいよいよ気鬱になり、塞ぎ混みはじめていた。
今日もまたカロルが用意し持ってくるご馳走をカロルと食べ、カロルに密着され、眠るまでカロルとどこかしら触れていなければならない。
カロルカロルカロル…と考え出すだにおぞましさが勝る。どれだけ愛され尽くされようとも、驚くほどに嫌悪の感情は無くならず、むしろ増してすらいた。
意気揚々と操縦していた数日はまだマシだった事を、フォワレは今更になって理解させられた。
「…どうして、助けに来てくれないのかしら…」
日付のわからないこの部屋に何日といたことか。数日か、もう何週間か経ったろうか。
数字をあまり数えられないフォワレは、ここまで長丁場の監禁状態に陥ると思わず、日付をつけることもしていなかった。
無論、ここまで長い間、なんの音沙汰もないと思ってはいなかったからだ。
「どうして…どうしてっ…?」
次第に目が潤み始める。
がくがくと震えが滲み出て、やわらかなシーツに顔を押し当てる。
丁度だった。階段を優雅に降りる足音が聞こえる。
がちゃりと扉が開いた。
自然にそちらを見る。
「お待たせ…」
ご機嫌に笑みをかたどった顔が、こちらを見たあとかちりと固まった。
持っていた札をパラパラと落として、彼は泡を食ったようにフォワレに駆け寄った。
「フォワレちゃん?なにかあったの?」
「なんにも無いわよ…」
足元に跪くと、顔色を伺うように覗き込んでくる。そっぽを向いてみたフォワレだったが、彼の動揺はいかばかりか、大変焦っている風だった。
「なんにもなくて泣くわけがないでしょう?言ってごらん、なにかあったの?」
小さな子供をあやすべくたずねる声色には、優しい大人然とした真摯さが込められている。
ただ、どれだけ心配げに聞かれようとも、ここに留められるのが嫌で嫌で、家に帰りたくて仕方ないのだと正直に言うわけにもいかない。
「なんにもないったら!」
顔を真っ赤にして叫ぶ。
鼻もたれて、流れた涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらなんにもないと言ったところで、カロルがそれを信じるわけもない。
じゃあ自分は一体どうすればいいのか?と考え、答えがでないことでまた涙がこぼれる。
フォワレは心が千々に乱れるのを感じながら、必死で泣くのをこらえた。
相対するカロルは黙って隣に座ると、慰めるように背をさすってくる。
そこでとうとう我慢の限界を越えた。
フォワレは足元に目を釘付けになったかと思うと、一度ぐらりと傾いだ。
「………ねえ、お願いがあるの」
「うん?なんだい?なんでも言っておくれ」
やにわに相好を崩した彼に、呆然としたように呟く。
「今日は、あなたの顔を見たくないの」
「え」
カロルは引き上げていた口角をゆっくりと落とすと、言われたことの意味をわからないというように首をかしげた。
「僕の顔が、いや?」
本気でどういう意味か伝わっていない。
フォワレは今度はスラスラと明確に告げた。
「ずっと一緒にいたから疲れたの。だから、今日はもうあなたの顔は見たくありません。一日だけ私を一人にして」
突然スラスラと大人びた拒絶の言葉を吐かれて、カロルはひどく傷付いた顔をした。
「でも、ご飯持ってきたんだよ…。君が元気ないから、美味しいものを一緒に食べようと思って」
「出ていって」
「…わかったよ。でも、何かあったらすぐに僕を呼んでね…?」
意気消沈といった様子でとぼとぼと歩くカロルの背中を、フォワレは存外あっさりと出ていくんだなと見つめた。
そして、彼が完全に上の階へ行ったあと“それ“はようやくフォワレから離れた。
青い髪と翼をもつ手のひら大の小さな男の子。それはまさしくフォワレが待ちに待ち続けた存在なのだった。
「ううう~…!!!」
ジプシーである母の友の一人、火の精霊ヒッポウ。
フォワレは感極まってまたも出ようとする涙を押さえながら、ヒッポウの到着を神のように崇めて迎えた。
もはや言葉さえ出てこない。
カロルの出ていったあとの扉を睨んだあと、ヒッポウはフォワレに向き直る。
『あんたさ、ああいう男のワガママに付き合っちゃダメだよ。ビシッと言ってやんなきゃわかんないんだからね』
「気を付けます!」
先程の言葉はこの精霊の助力だった。
フォワレは土下座するように感謝を告げて、さっと話を切り替えた。
「それで、ここから助けてくれるの?」
ずばり、ここから逃げることへの助勢に。
ヒッポウは自信満々に頷いた。
『勿論さ。エスポーサが俺を寄越したのはその為なんだから』
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