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 夜が更け、アルスは目が覚めてしまった。病室を出ると、シールルトくんが居るらしき部屋の前の椅子で眠りこけている人物を発見した。彼は一度引き返し、彼女に布団を掛けると診療所の受付の前を通った。少し出掛けると言いおいて、あまり出たことのない深夜の王都をほっつき歩く。怪我の具合は悪くないように思えた。傷があることも忘れているほどに。
 彼は城前広場を目指していた。セルーティア氏に用があるのではなかった。氏はすでにそこにはいないのだろう。ただアルスは、己が死の淵を彷徨った場所を確かめておきたかった。
 とても長い1日のように思えた。まだ日が高く昇っていた頃に見た長い行列は、夢だったのかもしれない。今は雲散している。
 彼は階段を上りきり、天幕の雑木林を眺めていた。ややあって自身の傷を負った箇所を探る。そして見つかった。血痕が生々しくそこにある。吐いた跡もある。改めて恐怖が足元からやって来る。半歩間違えれば死んでいた。氏は言っていた。息があったから助けたのだと。
 彼はそこに少しの間、佇んでいた。真隣にまで迫った死の恐怖と後から押し寄せてきた不安を克服しようと試みているようだった。だが、そのうち、天幕の明かりとは異なる光が視界を横断するのを認め、空虚な思案から解き放たれる。緑色の横長の灯りは、王都の金持ちに飼われた犬の首に巻いているものと似ていた。家事代行員に連れられた犬であろう。だが犬の首の位置ではなかった。大きな犬なのであろうか。彼は巨大なイカや大きすぎる怪鳥の存在も忘れて、無邪気に近付いていった。脳裏に閃いた大きな犬を見てみたかった。あわよくば戯れたかった。触れやしなくとも、良い気分転換になると思った。やがて正体が明らかになる。セルーティア氏である。首を固定する器具みたいな首輪が光り、寒気のするような気味の悪い美貌を暗闇に照らし出している。蝋人形と見紛う。氏も、アルスに気付いていたらしく、徐ろに振り返った。
「いいんですか、ここにいて」
 留置所から脱走してきたようにも思えなかった。それは何故、外を自由に闊歩できているのかという疑問も含まれていた。
「脱走と自害の心配はないと見做されたのでしょう」
「先生、何をしているんですか。こんな夜更けに……」
 セルーティア氏は指先から火を吹き出した。いくらか周りが明るくなる。氏の後ろには幽霊石こと紅石のモニュメントが聳えていた。傍には花束が。
「僕が殺害した患者に花を供えていました」
 内容の割に、あまりにも清々しい物言いはかえって混乱する。「殺害」と「患者」が上手く結びつかない。助けられなかったことを、氏は「殺害」と表現するのであろうか。
「殺害……ではないでしょう。殺害とは、また、違うんじゃないですか」
―やめたまえ。その状態の者に魔凪マナを与え続けるのは、殺人罪になりかねない。
 瀕死のシールルトくんの応急処置について、医者の言っていたことがふと思い出された。
「僕があの者を治療したことで、結果的にはセルさんが瀕死の重傷を負いました。申し訳ない」
「セルーティア先生」
「はい」
「もし、こうなると事前に分かっていたとしたら……あの患者がまた暴走するのだと分かっていたら、セルーティア先生は助けましたか」
 アルスは訊ねてしまってから、残酷な質問だと理解した。
「そのときの状況になってみないことには分かりません。ただ、僕のすべきことは負傷者や病人を救うことです。その延長にあることは僕の関与できるものではありません」
 氏は不気味であった。アルスはこの医者が恐ろしくなった。人間と一緒にいるような感じがしなかった。
「けれど、それは強者の意見だとシールルトくんから聞きました。僕には家族も友人も、守るべき繋がりもありません。だからそういうことが言えるのだと。ですから、僕の意見が医者の一般論だとは思わないでください」
「オレは医者じゃないですけれど、やっぱり、そう真っ直ぐ、高尚、高潔には生きられそうにないです」
 彼は小柄な医者を見遣った。燈火に照りつけた氏の青い髪が局所的に濡れていることに気付く。粘度を持ったその汚れは生卵ではあるまいか。
「髪が汚れていますよ。料理が苦手なんですか」
 包帯の上に巻こうとして忘れていた手巾を差し出す。セルーティア氏に限って料理が苦手ということはないだろう。繁華街の飲食店の厨人ほどの技量とまではいわずとも、薬剤の調合よりは単純明快であるはずだ。
 受け取られないのが面倒臭くなって、彼は勝手に汚れを吹いた。この手巾をくれた幼馴染も、事情を知れば悪い顔はしないだろう。
「ありがとうございます。はい、僕には味覚がありませんので、料理はあまり得意ではないかもしれません。レシピがあれば計量はしますが……」
「どういうわけで、卵をかぶったんですか」
「花を買いにいったときに、通りかかった民家から投げられたものです」
 アルスは熱心に幽霊石を見つめている氏をまた見遣った。花屋にまで行けるほどの自由があるらしい。
「どうしてですか」
「理由は分かりません。ですが、可能性のひとつとして、僕が人造人間だからではないですか」
 やはり他人事であった。氏の興味は紅い石にあるようだった。べっとりと汚された髪について気にする様子もない。傷んでいく生卵の匂いに気付かないのであろうか。
「はい?」
 乾いた夜風が吹いた。片目を隠す当布がはためく。
「人造人間です」 
 セルーティア氏は落ち着いていた。幽霊石などはただの噂にすぎない。氏は柄にもなくふざけているのではあるまいか。不似合いであった。
「僕は人造人間です」
 その目を見遣った。幽霊石が、氏をおかしくしてしまったに違いない。
「どうしてそう思うんですか」
「思う?実際そうなのです。僕は王族クリスタルを守護するために造られました。それから、王城の秘宝を保管しておくために造られたのです。それが何なのか僕には分かりませんが。セルさんは、僕がおかしくなったとお思いですね。こちらが証拠です」
 氏は片目を塞ぐ布を取り払った。紫水晶を彷彿とさせる瞳と、目蓋から眉の辺りまでを覆う蟹足腫かいそくしゅ
 セルーティア氏とアルスは視線をち合わせたまま固まっていた。両者の間に乾いた風が吹き抜けていく。 
「少し行ったところに感情学校というものがあります。絡繰人形や、人形師が通うところです」
 氏は北西を指で示した。
「人は異物を恐れ、それを排除しようとするのが、生きていくうえで仕方のないことだと、そこで教わりました。ですから人造人間の僕を排除しようと動くのは当然です」
「感情学校……ですか。感情というのは、人から学んで分かるものですか。そんな単純ですか?」
「ときに外してしまうこともありますが、ある程度の様式化はできます」
 アルスは氏から顔を背けた。胡散臭い話である。特殊な学校を騙り、受講生から学費をせしめる商売が、最近蔓延っているらしい。その類いであろう。人造人間だか何だか知らないが、優秀で破綻したセルーティア氏にもそういう弱みがあるのだ。
「僕は……誰ですか?」
 妙な問いが忽如として投げかけられ、彼はぎょっとした。落ち着き払っていた氏の身に、この広場に来たときの様子のおかしさがまた起こっているらしかった。
「僕は、オール・ゼノビウズですか?」
「セルーティア姓だと思いますが……」
 アルスは呆れ果てながら答えた。
「僕は誰ですか」
「セルーティア先生。このモニュメントは幽霊石と呼ばれているものです。中に人が入っているという噂なんです。何か感じるのなら近寄らないほうがいいですよ」
「噂?中に人が入っています。その人が語りかけてくるのです。僕は僕ではない気がするのです。僕は僕ですか?皆さんを騙してはいませんか」
 氏らしくない、取り乱した態度であった。アルスは後退った。怖い。
「騙すって?騙されているのではなく?」
 だが感情学校についての嫌味が通じるはずもなかった。
「僕はオール・セルーティアのつもりなんです。けれど僕の記憶は……僕はオール・ゼノビウズではありませんか」
 隻眼はぼんやりと空を仰いだ。氏の腕をがっちりと掴み、城前広場から離れることにした。体力の落ちている実感があった。身体が重く、息切れする。胸と腹にきつく巻かれた包帯が苦しい。
「まだ何か聞こえていますか」
「いいえ。もう、何も聞こえません」
 階段を下りていく。離れてから振り返った。城のない王都は暗い。灯台を失くしたようなものであった。
「"霊感"があるんですね」
「霊感とは何ですか」
「中に人が入っているように見えるんですよね。あれ、幽霊です」
 セル―ティア氏は睨むような眼差しをくれたが、言い返すことはなかった。
「普段はこの道を使わずに、城へ行っていたんですよね」
「はい」
「じゃあ、"霊感"が遠ざけていたんじゃないですか」
「幽霊ではありません。あの中には人が入っています。魔凪は感じられませんが」 
 まだ氏は頭をおかしくしているらしかった。気がれている。感情学校というものの正体は、人の正気を奪い去り、己を人造人間と思い込ませ、何かしら気の利いた口上のもと金品や財産を差し出させる詐欺商法なのではあるまいか。彼はどっと疲れてしまった。そこまで首を突っ込むつもりはない。手巾を渡し、診療所へと戻った。
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