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三つ巴の兄弟喧嘩
しおりを挟むそもそも、グラウス=リッター=フォン=ユンガーという人物は極めて《謎》な人物であった。
出世に対する意欲がこれっぽちもなく、かと言えば上層部の頭を悩ませるほどの赫赫たる戦果を打ち立て、報酬はは辞退する。
そして、垂れ流される言葉は「その分を戦った全ての兵に」や「王国のために当然の義務と責務を果たしたのみ」と言って報酬を辞退し、代わりに戦後復興のため、被害を受けた民たちに慈雨として降り注いでほしいと宣う。
七年戦争で疲弊した臣民たちには、その言葉はまさに英雄が発する言葉そのものであったのだ。古代アーサー伝説のように、叶わぬ騎士という英雄を求める、欧州が求める騎士像にそっくりだった。
……もっとも、それは本人や国の最上層部は、彼が出世を望まぬ故というのを嫌というほど理解しているのだが。
また、彼は恋人が戦死すると、すぐに代わりの妻をめとることもなく、恋人のためにと今まで数多のお見合い話があってもそれを全て蹴っているというのも、市民目線には好印象であった。
故に、ユンガーの評価は市民ベースでは騎士に相応しい男、英雄譚から抜け出してきた男であるというわけだが。
一方で、私生活の彼は翻って、路地裏の少年…とまではいわないが。下町で過ごしてきた長年の友達のように付き合いやすい下士官であり、高級士官に昇進してもそれは変わらない。
ターネンベルクの戦いを乗り越えた魔法使い旅団の兵士たち、特にグラウスの近くで泥沼の戦いを繰り広げた将兵は、彼を《パパ・グラウス》と呼んで慕うくらいだ。
軍隊は、頼りになる上級士官にして、戦場に立てば獅子奮迅の働きをする(ように見える)軍人ということになる。
しかし、家族間に至っては三男という立場を堅守し、ルーデンスをルデ兄と呼び慕い、父親と母親を敬う男であった。そして、忌み嫌っている長男のアドルフにさえ、最低限の礼儀は払っていた。
つまり《家の規則に従う大人》ということになる。
つまり、各所でグラウスの評価というものは二転三転しており、それ故にアドルフ=フォン=ユンガーが手に入れることができる情報は、彼のバイアスが多分に含まれた独善的なモノになってしまう。
……故に、アドルフは彼の裏に隠れ、飼い慣らされた獰猛な獣に気づくことができなかった。
戦争という惨禍で、ある意味で必然的に生み出された…人を殺すときのためのスイッチが、かつての婚約者に対する侮辱という激高するべき行いのせいで表に出てしまったのだ。
「もう一度その戯けたことをぬかしてみろ、無礼打ちしてくれる」
ルーデンスを振り払い、まるでゴミでも見る目で抜き身のサーベルを構え、ひたひたと近寄ってくるグラウス=リッター=フォン=ユンガーを見て、アドルフ=フォン=ユンガーは初めてその獣に気づくことができたと言っても良い。
人を殺すことを戦果と捉え、一見すると戦意を喪失しても背後から撃ち殺そうとしてくる兵士たちを斬り殺してきたせいだ。戦争病と呼ばれる心理的な病魔から逃れるための、心が生みだした、軽い二重人格的な逃避的な処置でもあった。
しかし、それが表に出てきたということは、つまり………グラウスは、アドルフを殺すべき《敵》と見定めてしまったのだ。幾度も血を吸い、曇った鈍色のサーベルは、妖気と言えるようなものを放っているように見える。
それが、アドルフとルーデンスの肌をゾワリと撫で、逆撫でさせた。
「ま、待てッ!貴様、分かっているのか!?俺を殺すことがどういう意味になるか分かっているのか!英雄の称号が、今までお前が築いてきた栄誉、その全てが何もかも無駄になるんだぞ?!」
一歩一歩後ろに下がっていくアドルフは、ようやく気付いた。これまでの腹が立つ慇懃無礼な態度でさえ、譲歩していたからこその対応であったことを。その容赦を取り払った軍人という人殺しの獣の恐ろしさを。
「さぁ?とりあえず国家の英雄と準男爵家の跡取りをどっちが国は重視するかを考えてみたらそのスッカラカンな頭でも理解できるんじゃねぇの?」
軍隊生活で表に出てきた下町男のような喋り方、軍人特有のスラングが飛び出してくるのを見たルーデンスは、これはマズイと察することができた。商人として、ギリギリを互いに探り合う感覚を養ってきた観察眼でもあるだろう。
ある意味で、グラウスはアドルフに《失望》したのだ。最低限、経緯を払う兄という認識を斬り捨て、殺すべき《敵》と定めてしまったのだ。軍隊生活で養った、グラウスであってグラウスではない《ナニカ》を見てしまったののだ。
例えるのなら…狼か、アウグスト帝国時代の南方領にいたとされる獅子か。どちらにせよ、人を食い殺すことができる動物であることは変わりない。
「落ち着け、グラウスッ!」
ルーデンスが普段一切見せない兄らしい姿に、グラウスはビクッと震えた。ある意味で、家の立場では上であるルーデンスという兄の呼び声が、悲しいことに軍隊生活の徹底した上意下達のグラウスの精神を揺さぶり、殺人という狂気的な所業を止めることに繋がったのだ。
「ルデ兄、でも…!」
「でももだってもない!お前はかつての婚約者を貶められて人を殺すような《化け物》じゃなかったはずだぞ!グラウスッ!」
ルーデンスが滅多に見せない本気で怒っている様子に、ビクッと震える。
「アドルフ、お前もそうだ!故人の人格を否定することほど恥ずかしい行いがあるかッ!弟として恥ずかしいぞ、俺は!!」
「だ、だがッ…」
「だが、も、クソもないッ!人として最低な行いをしているのか分かっているのか!?貶すのなら本人を堂々と貶せ、ない所から無理にまさぐろうなんて法廷に訴えられても文句は言えないぞ!
今回ばかりは俺はグラウスの肩を持たせてもらうッ!!」
「んな……!?」
普段はアドルフの煽りに顔をしかめるが、表立って介入はしない両親、同じルーデンス、金で兄の怒りが収まるならと適当にそれに耐えていたグラウスという、誰もが大人な対応をしていたからこそであったが。
いい加減ルーデンスもうんざりしていたのだ。
「そりゃ、将来同じ貴族として立たなきゃいけない、英雄の兄としてそれらしくないといけないことに対するプレッシャーは分かる。俺だって商会で同じ目で見られてるんだからな!だが、それを理由にグラウスを一方的に攻め立てる、その理由にはならない!」
ルーデンスも、アドルフも、優秀ではあった。しかし、グラウスの功績のせいでそれらは全て些事とされ、兄として相応しい立場が要求され続けてきた。
……ルーデンスは長い付き合いがあるからこそ、それを乗り切ることができた。しかし、ユンガー家の長男として家を背負うことになるアドルフは、それから逃れることはできなかったのだ。
「分かるか、お前らに俺の苦しみが分かるかッ!ライヒ民族の英雄だと、七年戦争の英雄だと、大王陛下から最大の勲章を賜った奴の兄なんだぞ!?どうしろってんだよ!!!」
「分からねぇよ!俺だってそうなんだからな!俺とグラウスと常に比べられてるんのは俺と同じだよ!でもな、グラウスは俺たちのことを立ててくれる可愛い弟だろ、なんであそこまでの暴言を吐けるんだよ!?」
ルーデンスとアドルフの喧嘩を前に、グラウスが、逆にオロオロしだす。
グラウスとアドルフの喧嘩は、特にグラウスが兵大学に受験した頃から、そして入学するまでの間は日常茶飯事だった。それに親が介入して、親VSアドルフの喧嘩も良くあった。
しかし、普段は波風を立てようとしないルーデンスがアドルフと衝突しだすのは、グラウスとしては想定外に過ぎた。そして、アドルフに対しては諦めているが、ルーデンスとアドルフの関係を断ち切ってほしくないという我儘も確かにあった。
「勝手にしろ、ルーデンス!俺が家長になったら、お前なんて二度と敷居を跨がせないからな!」
「フン、財政難で助けを求めてきても助けてやらないからな、アドルフ!」
荒々しく扉を閉めて帰ってしまうアドルフと、フンと鼻息荒くグラウスの隣に座るルーデンスを前に、グラウスは久しくオロオロとした様子を隠せないでいた。
———
——
―
《ユンガー家のグラウスによる被害》
「アドルフ」
大人と貴族としての誇りが、それらを軽々と超えてくるグラウスを前に押しつぶされそうになり、結果的にグラウスを威圧することで何とか自分のメンツを保とうとしている経緯だけ見れば割とお労しい人。
主人公サイドで物語を展開しているため、悪者に見られがちだが暗殺とか、誹謗中傷を流布していない点で、貴族の中では善性の持ち主ではある。
(補足!当時の貴族社会では誹謗中傷は当然の嗜みである。ブサイクだからってだけでフランス軍の入隊を拒否られたプリンツ=オイゲンや、誹謗中傷で王のそばに入れた親世代が没落したように)
ただ、ストレスで歪んでいるだけで、普通に良い人なのである。貴族としての重責で潰されそうになってイライラしていること以外は。
だから、売り言葉に買い言葉でルーデンスと絶縁したことに対しては結構後悔している節がある。ただ、貴族教育を受けている中で身に付いたプライドがそれをゆるさないだけで。
「ルーデンス」
元々、割り当てられる予定の婚約者の性格が合わな過ぎてグラウスに割り当てられるくらいだったので、自分が弟よりも相対的に劣っていることを割と早くから自覚できていた。
だからこそ、グラウスが凄い成果を上げても兄としてのプライドがヘシ折れるどころか(とっくにヘシ折れているため)ウチの弟スゲぇだろ!で済んだし、グラウスが兄弟として自分を立てて頼ってくることに対して誇りを持っている。
地域の有力商人の家に婿入りした立場なのもあって、元々凄い成果を求められていなかったということもある。
「アルブレヒト」
偉い人たちから《どのような教育を行えばあのような英雄が生まれるのか!?》とノウハウを教えられるようになった被害者。
本来なら、虐待的な教育や生活を強いず、貴族教育と知育的興味を自由に伸ばす教育を両立している点で200年は未来に生きているのだが、準男爵が伯爵クラスに普通に話しかけられるようになったせいで胃痛が加速している(ちなみにこのおかげでヴァロイセン王国では、英雄を再現するために知的興味を伸ばす教育が貴族層でジワジワと浸透し始める)
地味に、アドルフとグラウスの双方の仲裁ができなかったのがこのエスカレートを招いているので早期治療できていれば…となる。だが、それが分かっていて行動できないのが普通なのでそれを責めることは誰だってできないだろう。結果論で改善点を突きつけるなんて、当時苦悩していた彼に対する子育ての難癖も同義である。
結論:誰だって失敗すること、面倒くさい所の一つや二つはあるさ。人間だもの。だから揉めるし喧嘩するんだよ!
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