あの日、自遊長屋にて

灰色テッポ

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二十二 折り鶴

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 昏睡してから七日目の夕方、相楽を囲むようにしてみんなで病間にあつまっていた時だった。相楽の枕元で千代紙を折っていた雫が不意に顔をあげ、相楽の顔をじっとみつめてから舌のまわらない言葉でお花に訊いた。

「ととさま、いちゅまでねんねしてゆの?」

 これまで一度も昏睡の相楽のことを訊いてこなかった雫であった。いくら幼いからといって不審に思わなかった訳がないのである。しかしこの子はこの子で何かを感じて、じっと我慢をしていたのであろう。

 しかし今日初めて雫は父のことを訊いた。むろん満で三つの幼子が死の概念を理解している訳もないのだが、幼いなりにも不安な気持ちが溢れてしまったとしても不思議ではない。

「ねぇね?」

 だが雫の問いに、お花はすぐには答えられなかった。いや、お花だけではない。それに答えられるものは誰もいなかったのだ。
 だがお花は雫を不安がらせてはいけないと思い、無理に笑顔をつくって答えた。

「お疲れがとれたらお起きになりますよ、きっともうすぐです」

 雫は少し不安そうな顔をしながらも、こくりと頷いてみせると、それ以上はもうなにも訊いてはこなかった。

 お花には、こんな幼い雫の気丈さがかえって哀れで、あやうくこぼれそうになった涙を、なんとか堪えたのである。

 すると縁側の障子がひらき、この店の者が夕餉をどうするか? とたずねてきた。
 閉めきった病間に外からの新鮮な空気が入ってくると、おもわずみんな息をついたような顔をする。それほど昨日氷庵が残していった言葉は重かったのであろう。あと二日この昏睡が続いたら覚悟をするようにと云われたことを、誰もが息の詰まる思いで見守っていたのだ。

 今日も虎蔵と八助は泊まっていくはずだったので、夜吉が人数分たのむと云うと、店の者は愛想よく頷いてみせ、母屋へと去っていく。
 木曽甚の主人は看病をしているお花や夜吉のみならず、見舞いにくる自遊長屋の人たちにも親切であった。恩人の相楽の親しい人たちは、自分にとっても大切な客であると云ってくれている。
 お花も夜吉も、その親切には遠慮することなく甘えさせてもらっていたようだ。


 しばらくすると店の者たちが膳にのせた夕餉をはこんできてくれた。男衆の膳には銚子が一本ついていたし、贅沢なものではないが長屋の住人などには普段食べられもしないような、美味そうな料理がのせてある。
 本当なら大喜びするような食事なのだが、いまは誰もそれに関心をもつ者はいない。

 お花は店の者に丁寧な礼を云うと、あとは自分たちでするからと次の間へ夕餉の膳をならべはじめる。
 それを手伝っていたお梶が、じろりと男衆三人をながめると、「なんだい、みんなして病人のまわりにいることはないんだよ、あんたらは邪魔だからこっちの部屋で夕餉をおあがりな」そう威勢よく云った。

 お花もそれに頷いてみせたので、虎蔵、夜吉、八助の三人は立ち上がり、次の間で夕餉をとることにしたのだった。

「いいかい、お銚子は一本きりだよ、おかわりだなんて云ったら承知しないからね」そう云って笑うお梶に、三人の男衆は苦笑いをしたようである。

 むろん酒があろうと楽しいような夕餉になるはずもない。殺風景な六畳間で男三人は黙然と手酌で酒をなめている。
 夜吉は食がすすまないまま、酒をちびりと飲んだ。そのときふと見た八助の顔が、涙をながして歪んでいることに気がつく。

「おい、どうしたんだ八っつあん」

八助は鼻水をすすりあげながら、「どうもこうもねえや、ちくしょうめ」と云って、涙をぽたりと杯にこぼした。

「相楽の旦那みたいないい人が、なんでこんな目にあわなくちゃなんねえんだよ」

 まるで独り言のような八助の言葉に、夜吉も虎蔵も無言で応えるしかできない。

「こんな酒、うまかねえや……」八助はなおも続けて云った、「おらあ正月に相楽さんにご馳走して貰った、長屋のみんなと一緒に飲んだ、あの酒の味が忘れられねえよ……」

「うん、そうだな……」と、夜吉はそう小さく相槌をうった。

「夜吉よぉ、おらあ、あんなにうまい酒は生まれてはじめてだったよ、それもみんな相楽の旦那のおかげだぜ? あの人の振る舞い酒だったから、あんなにうまかったんだ……ちがうかい?」

「ああ、そうだとも……まちがいねえ」

「そうか、そうだよな?」

「うん、そうだ」夜吉もまた目に涙を浮かべてそう応える。

「なあ夜吉よぉ、おらあ、いつまでも忘れねえぞ、あの日、自遊長屋であったことはよ」

「俺もだよ、八っつあん」

 虎蔵もそれに黙って頷いた。手酌で注いだ酒はそのまま杯の中に残っており、虎蔵はそれを飲み干そうとして口にまではこんだが、途中で手を止め、呟いた。

「あの人は──」

 そこで言葉が途切れた。虎蔵は止めていた手をうごかして酒を一口飲むと、やがてまた言葉を続けたようだ。

「……あの人は、ただの一度も長屋の人たちを、町人だと見下したことがなかった」

 今度は夜吉と八助が、虎蔵の言葉に黙って頷く。

「あたり前のようなことだと思うかもしれねえが、お武家様が町人のおれたちに対して、あたり前にできることじゃねえんだ」

 そう云うと虎蔵はまた何も云わなくなり、夜吉と八助も無言で酒を啜るのであった。


 病間では相楽の額におかれた濡れ手ぬぐいを、お花が新しいものに取り替えている。そっと額に手をおいてみたが、熱は一向に下がる様子をみせてはいない。

「お花ちゃん、あたしが相楽さんをみてるから、あんた先に雫ちゃんとお夕餉を頂いちゃって」

 お梶が洗い物をたたみながらそう求めた。

「はい、じゃあお願いします」お花は素直にお梶の言葉に従うと、そばにいた雫に振り向いて、「おなかすいたでしょ? ごはんにしましょうね」と頬笑んでみせる。

 雫はお花に頷くと、さっきまで折っていた千代紙でつくったのであろう、ちょっとわからないようなものをお花にみせた──

「ちゅる(鶴)よ」


 二人が次の間へいき、お膳のまえに座ろうとしたとき、「ちょっ、ちょっと!」とお梶の慌てた声が部屋に響く、「お花ちゃん、相楽さんが!」

 お梶の声を聞いた途端、いっぺんに全身から血の気が引いていくように感じたお花は、少し膝をがくがくとさせながらも急いで病間へやってくる。

「どうしたの! お梶さんっ」

 お花はすぐに何があったのか分かった。相楽の口から「う、ううっ……」と微かな声がもれているのだ。もちろんこれは事件以来はじめてのことである。相楽の意識が戻りかけていることを認めたお花は、力いっぱい相楽に呼びかけた。

「相楽さんっ、お花です、相楽さんっ!」
 
 この時すでに夜吉、虎蔵、八助も病間へきており、やはり相楽へと声をかけている。

「意識がお戻りになったんですね? そうですね? お花です、相楽さんっ!」

 すると相楽はゆっくりと片方の目をあけた。病間にいたものすべてが、このとき息をのんで相楽の変化をみつめている。やがて相楽の両の目がひらかれると、その口が微かに動いてかすれたような声がもれた。

「ああ、お目覚めになられた! なに相楽さん? いまなんていったのっ?」

 お花がすっかり舞い上がってしまっていたのも無理はない。だが虎蔵は厳しい声で、「落ちつかねえか、お花!」と一喝すると、お花をどけて相楽の横に座り、その口元に自分の耳を近寄せるのだった。

 相楽の口が動くのを待っていた虎蔵は静かに頷くと、「へい、ただいま」と云ってお花に振り向く、「おい、相楽さんは水が欲しいそうだ」

 お花は虎蔵の言葉を最後まできかずに動き出し、慌ててそばに置いてあった吸い口に手を伸ばした。

「ばかやろう! いきなりそんなんで水を飲ますやつがあるか」

 虎蔵はまだ落ち着きを取りもどしていないお花をそう云って叱ると、ようやくお花は我に返ったという顔をし、お梶が渡してくれた綿を手に取りながら、「相楽さん、すぐに綿に水を湿しますから」と、呼びかける。

 相楽は朦朧とした目をして、お花が口に含ませてあげた水の滲みこんだ綿を、ゆっくりゆっくりとしゃぶっていた。それを二回、三回とくり返すと、ようやく落ち着いたかのように小さく息を吐き、僅かに口元をゆるめたようだ。

 なお暫くの間、相楽が朦朧としている時間が続く。その間に店の者に頼んで氷庵先生を呼んできて貰っている。
 すると不意に気がついたと云うように相楽のその目に微かな力が戻り、初めて自分のまわりに人が集まっていることを知った。

「意識がお戻りになられましたか?」

 虎蔵がそう相楽に訊くのに、相楽は目だけを虎蔵のほうに向けて、その瞳で頷いてみせたものだ。

 いま病間では、さっきまでの重苦しい空気はもうない。しかし今度は相楽がこのまま本当に回復してくれるのであろうかという、期待からうまれる別の不安がひろがっている。

 すると雫が相楽の顔をのぞき込むようにして云ったのだった。

「ととさま、おっきした?」

 相楽はそう云う雫の声を聞いた。その途端まるで霧が晴れたかのように一人一人の顔が、雫が、お花が、夜吉が、虎蔵が、八助が、お梶が、ありありとその目に映り、自分のまわりにいた人たちが彼らであったことをようやく認めることが出来たようだ。

「ああ……」相楽の声は小さいが、それは確かにさっきまでとは違っている。

「ああ、そうか、わたしは帰ってきていたのか……自遊長屋に帰ってきていたのだな……」

 相楽はほっと安心したかのような表情をうかべると、「よかった……」と云って目を瞑った。

「ええ、そうですとも、帰ってきたんですよ」

 お花のその目からは我知らずにぽろぽろと涙がこぼれ落ちている。

「みんなここにいます、だからもう大丈夫、ご安心してくださいね」

 もちろんここは自遊長屋ではない。だがそう云ってあげたお花の気持ちは、ここにいるみんなの気持ちと同じであったろう。誰もが相楽の一番帰りたかった場所が、家族の待つ自遊長屋であることを知っていたのだから。
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