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プロローグ

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 それは、突然の出来事だった。
 学校の帰り道、いきなり足元に現れた大きな穴に落ちてしまった私は、気が付くと見知らぬ部屋の中に居た。
 簡素ながらもどこか高級感漂うその部屋は全く見覚えがなく、身じろぎをするとふかふかのソファに身体が沈み込んでいく。
 今までの人生で一度も座ったことのないくらい気持ちいい座り心地に、こんな意味の分からない状況にも関わらず私の身体は力を抜いてくつろぎ始めてしまう。
 しばらくその心地よい感覚を楽しんでいると、突然目の前に何かの気配を感じた。
「やぁ、気が付いたみたいだね」
 声を掛けられ慌てて視線を上げると、そこには人影が立っていた。
 それはまさに、人の影だった。
 黒い靄のようなものが人の姿を形作っていて、その正体がいったい何なのかは全く分からない。
 何とも形容しがたい謎の存在は、音もなく現れて私に向かって声を掛けてくる。
 そんな、普通なら怖くて怯えてしまうはずのそれを見ても、不思議と私の中に恐怖は浮かび上がってこない。
 まるでソレがソレであることを最初から分かっていたように、当たり前のように存在を受け入れてしまっている自分が居た。
「どうやら、恐怖はないみたいだね。僥倖、僥倖」
 一切怯えることのない私の態度を見て安心したように人影が揺れると、なんだか不思議な安心感さえ覚えてしまう。
 まるで母親にあやされているような、父親に構ってもらっているような。
 そんな得も言われぬ安心を感じながら、私は人影へ向かって口を開いた。
「あの、ここってどこですか? それにあなたは?」
「そうだね。まずはそれから説明しようか」
 私の質問に優しく微笑んだ(表情は分からないけど)人影は、ゆっくりと語り始めた。
「ここは世界と世界の狭間にある僕の部屋。君をここに連れてきたのは、この僕だ。それで、僕が何者かというと……」
 そこで一度言葉を切った人影は、一瞬だけ迷うようなしぐさをしながら再び口を開く。
「そうだね。君に分かりやすく言うなら、僕は神様と呼ばれている存在に近い。君の生きている次元より、もっと高い次元にいる存在だ。だから君は、僕の姿を正確に認識することはできていないと思う」
 なるほど、だから影にしか見えないのか。
 まるで夢物語のような話に、しかしなぜか納得してしまう。
 この人影は嘘を言っていないと、理性より先に本能が理解しているみたいだ。
 もしかしてこれも、高次元の存在がなせる業なのかもしれない。
 だから私は気にするのをやめて、さらに質問を重ねていく。
「あの、どうして私をここに連れてきたんですか?」
「いい質問だ。それじゃ、次はこれからのことについて説明しよう」
 まるで先生のような口調で答えると、人影はそっと私の隣に移動してくる。
「君にはこれから、私の駒になってもらいたいんだ」
「駒……?」
「そう。私というプレイヤーの代わりに、ゲームに参加する駒だよ」
 さも当然のように言われても、私には全く理解できない。
 そもそも、ゲームというのはなんなのだろう?
「うん、じゃあまずはゲームについての説明から始めようか」
 その言葉と同時に私の目の前には半透明のウィンドウが現れる。
 そこにはどこかの地図みたいなものが表示されていて、そのところどころに小さな光の点が置かれていた。
「これは、君たちの住んでいる世界とは別の世界の地図だ。私たちは、ロストベルトと呼んでいる。そしてこの光が、これから君に行ってもらう場所の候補だよ」
 人影がいくつかの光の点を指さすと、その場所の具体的な情報が表示されては消えていく。
「ゲームというのは、この世界で行われるサバイバル。参加者はそれぞれ、別の世界から調達した駒をロストベルトに送り込んで、そして生き残りをかけて戦わせるんだ」
「そんな……、まるで漫画みたいに……」
 そんなことが、本当に現実で起きるのだろうか。
 にわかには信じられないけど、しかし心の中ではやけに納得している私もいる。
「もちろん、これじゃただ君の身を危険に晒してしまうだけだ。ゲームに協力してもらうからには、それなりのリターンもなくてはね」
「リターンって?」
「報酬、というか優勝賞品といった方が正しいかな。最後まで生き残った者には、どんな願いでも叶えてあげよう」
「どんな願いでも……。それ、本当に?」
「もちろん。私は嘘をつかないよ」
 そう断言する人影に、私の中の疑う気持ちは一瞬にして霧散してしまう。
 そうだ、この人は嘘なんてつかないんだ。
 本能のままそれを信じた私に、人影はさらに言葉を続ける。
「さぁ、どうする? もしも拒否するなら、残念だけど強要はしないよ。元の世界に戻りたいなら、今の話の全てを忘れて普段通りの生活を送ることもできる」
 そうやって逃げ道を作ってくれる人影。
 しかしその声には、断らないだろうという確かな確信が宿っていた。
 きっと、すでに私はこの人の手のひらの上なんだろう。
 自分の意志で選択しているはずなのに、全ては人影の思い通りに事が進んでしまっている。
 そんな小さな危機感を感じながら、しかし私は誘惑に抗うことはできなかった。
「……やります」
 だから私は、人影に向かって頷きとともに答えた。
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