人ならざるはオムファタル

坂本雅

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 胃腸の不調と憲兵による事情聴取が重なり、退院には三日を要した。
 雲間に青空が覗く早朝、アシャは肩から鞄をさげ、膨らんだリュックを背負って門を出た。
 少し離れた場所で立ち止まり、聖ロゼッタ教会の正面部を仰ぎ見る。
 彫刻が施された大理石を左右対称に組み、中央に円いバラ窓を配した純白の造りは侵しがたい威光を放っている。
 どこか近寄りがたいのは、時として命の危機と向き合う救命の場であるからだろう。
 アシャは息をついて気合いを入れ直し、宿までの長い帰路を歩き始めた。
 目的地まで直接運んでくれる辻馬車は高くつき、街を巡る乗合馬車では時間が掛かりすぎる。
 休憩を挟みつつ自力で移動する他なかった。
 昨日降った雨の影響か大通りは朝もやに包まれていて、人の往来もきわめて少ない。
 数歩先すら見渡せず、辛うじて水溜まりを避けながら、アシャは医院でのやりとりを思い返す。
 本来なら相応の治療費が必要となるところ、今回の入院にかかった費用は全額免除された。
 アシャの私物はほとんど鞄に収まっており、リュックの中には表向き、匿名の慰問で贈られた物品が詰まっていた。
 特に重いのは、聖人の名にちなんで栽培されている薔薇から精製したローズオイルとローズウォーター。
 どちらもきわめて純度が高く、平民の一ヶ月分の生活費に匹敵する高級品である。
 しかし、それら全てがスイに関する口止め料だと思うと素直には喜べなかった。
 人の窮地を救った善業が知られようと損にはならないはずだが、上流階級ともなれば話は別なのかもしれない。
 何もかもを見渡せる万能の存在が路傍の石に目を向けるなど、あってはならないこと。
 スイを取り巻く者たちがそのように判断したのなら、アシャには打つ手がない。
 黙認しなければ、この国にいられなくなる。
「……もう会えないのかな」
 口をついて出た独り言は想定よりはるかに寂しげだった。
 彼が次期宰相の立場にあるなど寝耳に水であったし、予知によってもたらされる富にも興味は薄い。
 ただ純粋に、スイ個人への情があった。
『我は……要らぬことを告げたな。悪癖が出た。すまない』
 言い淀みがちな、たどたどしい謝罪が記憶に強く焼き付いている。
 悪癖。冷静になった今思い出すと、少々違和感のある物言いだ。
 あの時、意識を保っていれば続きを聞けたのだろうか。
 たらればを考えつつ、アシャは広場近くの花市場に差し掛かる。
 すぐに通り過ぎるつもりでいたが、多彩な色と香りに満ちた露店の合間から、つばの広い帽子を被った長身の男が出てきて目を引かれた。
 手には青い八重咲きの花束を携えており、背中のみ覆う薄手の外套を羽織っている。
 レースアップシャツを着た姿は旅人に近いものの使用感がなく、まるで芝居の衣装のようだ。
「嘘。何で……ここにいるの?」
 スイ。服こそ違えど、その風貌は間違えようがない。
 いるはずのない人物が想像の世界から抜け出てきたような、非現実的な感覚にアシャは開いた口が塞がらなかった。
 青みがかった金髪を帽子の中にしまい込み、平民の装いをしてまで買うべき花があったのだろうか。
 スイはアシャに気付いても驚きを示さず、無表情で接近してくる。
 そして、さも当然のように購入したばかりとみられる花束を差し出してきた。
「は……えっ?」
「見舞いだ。不用なら捨てて良い」
 ひどく端的な投げかけは、ぶっきらぼうですらあった。
 退院日を知らずに買い、都合良く現れたから渡そうとしているのか。
 あるいは、今日この時間に遭遇すると予期していたのか。
 どちらなのか判断はつかないが、善意の表れであることは確かだった。下手に遠慮する方が失礼にあたる。
「あ、ありがとうございます」
 花束を受け取ったアシャは小さく照れ笑いをこぼした。
 スイは眉一つ動かさずに帽子の角度を整える。
 市場を行き交う人の数もまばらで、穏やかな沈黙が流れた。
「えっと……数日前はありがとうございました。もし良ければ、少しだけお話をしませんか?」
 このまま別れたら次に会うのはいつになることか。駄目で元々、言うだけ言ってみよう。
 そんな思いで持ちかけると、スイは意外にもあっさり頷いた。
 時間帯的におおよそ飲食店が開いておらず、酒場に連れて行くのはためらわれて、広場のベンチを選んだ。
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