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第一章

第一章

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 今日は僕の誕生日で明日は特別な日だった。
 つまりは今日で僕は16回目の誕生日を数え、『永久迷宮』に入る資格を得る。明日そこで狩りを行う収穫者〈ハーヴェスト〉として出発するつもりだ。

 この地は大昔から見渡す限り雪と大地に覆われていて、生命が生きていくには厳しすぎる環境だった。しかしこの白銀のみの世界に、忽然と現れる翠峰。それこそが死の中で唯一生命の湧き出る泉と言われる


「 翠塔山大薬師神宮」通称『永久迷宮』だった。
   

 数百年前、翠塔山の麓に建立された大薬師神宮は、神秘の力と深い知識で霊薬を調合する"薬師"と呼ばれる神官たちがいて、各地にある薬師神社の総本山となっていた。
 その周りにある薬師の里は、大薬師神宮の門前町として開かれ、数千に及ぶ人々が暮らしていた。

 東の大通りに面した一角、そこに僕の働く〈豊穣の恵〉亭はある。

 お世辞にも決して立派とは言えない店構えだが、店主のカクトス親方の豪快な人柄と豊かな料理の味で、客足は絶えないほど繁盛していた。

「ハイドラ、今日はもうあがっていいぞ」

  厨房の隅で馬鈴薯の皮を剥きながら呆けていた僕に、親方が声をかけた。

「えっ?でもまだこんなにありますよ。明日の開店に間に合わないんじゃ」

  僕は背後に積んであった野菜袋の山を見てぼやき半分に応える。

「大鳥居の頭が雲で見えんから、明日は午後から雪になる。客は少ないさ。
それにお前はさっきからニヤニヤしっぱなしで気持ち悪いぞ。明日から僕はハーヴェストに……なんて甘い妄想していたのだろうがな」

  親方はひげだらけの顔でガハハと豪快に笑う。

「そ、そんなにニヤついてましたか  」

  僕は顔が赤くなる。
  ここ何日かは同じネタでからかわれていたので、気を引き締めたつもりだったが、そんな事は親方には全てお見通しだった。

「いつも言ってるが迷宮の中では気を緩めるなよ。少しの油断が死につながる。
ここにある野菜どもとはまるで違う」

 親方は袋詰めされた野菜を肘下の義手で指した。

〈豊穣の恵〉亭は、僕が小さい頃から働いている食堂だ。
 カクトス親方は、父さんの昔の収穫者仲間という関係で何かと世話になっている。
 家族のいない僕にとっては、ほとんど親代わりのような存在で、厳しくも優しい懐ろの大きな人だ。

 僕の母さんは僕がその存在を記憶する前に死んでしまい、僕は男手ひとつで育てられた。
 その父さんも六年前のある日、突然帰ってこなくなってしまったが、それについて僕は特に考えたことはあまりない。まわりには結構同じような境遇の人はいたし、みんながその境遇を受け入れて、助け合って生きている事がここでは日常的だった。

 三十年ほど前までは収穫者と呼ばれる人々は存在しなかったそうだが、いつしか迷宮内には人を襲う凶暴な植物が出現するようになり、それらから薬師を護衛する目的で組織されたのが始まりだと聞いている。
 今は主に、薬師が使う薬草や食料となる野菜を倒して収穫するのが仕事になっていた。

「俺としてはお前にこの〈豊穣の恵〉亭を継いでもらいたかったのだがな。
ノレーゴ種とカラパソン種の玉葱の違いが分かるヤツなんかお前だけだし、その料理の腕と味覚の鋭さがあれば、この店をもっと大きくだって出来たのに……だが、もうそれは言うまい」

 親方は天井を見つつ溜め息を吐きながら腕を組んだ。

「すみません親方。料理は大好きですが、父さんがよく言ってた"自分にしか出来ない事"を探しに行きたいんです。僕には迷宮の中にその答えがある気がしてならない」

 親方としては迷宮に挑む冒険心も、それを止めたい親心も、両方理解できるだけに苦しいところなのだと思う。
 一度迷宮に入ってしまえば、軽く年単位で帰ってこれない。

 収穫者として、大薬師神宮のために働くのは非常に名誉なことではあったが、その寿命は短く、ほとんどが父さんのような迷宮内での行方不明者だった。

 親方のように大怪我を負っても、生きて帰って来る収穫者は本当に稀な事だと何度も聞かされていた。

「大鳥居を出るまでが収穫作戦、ですよね? 」

  親方は満足そうに首肯し口端を緩める。

「無事に帰って来い。きっとだぞ」

 力強く叩かれた肩はじんと熱くなって心にまで届き、再会の誓いが深く刻まれた。
 僕は親方の目尻にあった光るものを見ないように頭を下げ、〈豊穣の恵〉亭を後にした。
 

 通りに出ると、どの家もおそろいの雪帽子をかぶり仲良く並んでいた。
 この辺りでは冬になると当たり前のような光景なのだが、人々がこれぐらいの雪や寒さで家にこもる事はほとんど無いと言っていいと思う。

 大薬師神宮の門前町に暮らす人々は、食糧が乏しくなる冬場のこそ活気付く。
 翠塔山のふもとの大鳥居から山頂に鎮座する本殿へと至る大空洞は、そこに生息する植物が作り出す密林になっていて、かつては古代遺跡だったとも神の気まぐれの産物とも言われてた。

 寒風の中、かじかむ手を揉みながら雪道を進み、大通りへと出た。
 そうだ、新調した防塵ゴーグルとマスクは明日取りに行こうと思っていたが、この時間ならまだ店は開いているだろう。
 僕は少し遠回りをして道具屋によって行く事にした。

 往来を行くたくさんの人によって踏み固められた雪道を通り、大鳥居へと通じる参道へと出た。屋根の上の雪帽子よりさらに高い大鳥居は、この位置からでもその容貌魁偉な巨体を確認できない。

 いつもあそこをくぐって迷宮へと旅立つ収穫者〈ハーヴェスト〉を、羨望の眼差しで見ていただけの小さな自分は今日で終わり、明日からはほんの少しだけ大きくなった自分で大鳥居をくぐる事が出来る。そう考えただけで胸元に熱いもの込み上げてくるようだった。

 少しだけ見ていこうかな。

 夜間の入場は原則禁止なので、門番がいるくらいで殆んど誰もいないはずだし。
 僕の脚は何か奇妙な力に引っ張られるように、次第に深くなって行く雪片を踏みしめ、晦冥に浮ぶ朱色の大木へと向かう。

 黒々とした木々が立ち並ぶ中、大鳥居まで半町(50mほど)の場所まで来ると、右へ左へと行き交う松明の光と共に張り詰めた空気が伝わって来た。その光照らされた数人の役人らしき人影は、棍棒やら刺又を手に何やら騒いでいる。

「どこへ行った⁉ 」

「足跡を追うんだ! 二手に別れろっ! 」

「かなり小さなヤツだ、見つけ次第拘束しろ! 」

 門破りでもあったのだろうか。

 収穫者〈ハーヴェスト〉以外の者の迷宮への入出門は、おもいのほか厳しく制限されている。収穫者が一人いれば、随行者として誰でも入れる事にはなっているが、年令と条件に応じて一定の〈奉納料〉と言われる金額を支払わなければならない。もちろん門破りは重罪で、捕まれば死罪もありうる。

 僕はそこに立ち止まって離れた場所から大鳥居の方を見ていたが、役人の数は増える一方で、騒ぎが収まる気配はまったく無い。
 面倒に巻き込まれる前に帰ろう。明日は大事な日だ。しっかり寝て体調を整え万全で臨みたい。

 僕は林に隠れている右の小道へ入った。


 この道は、僕みたいな商店の奉公人とか小間使いがよく使っている秘密の小道みたいなもので、左右の木の枝が張り出しているため、雪が積もりにくく歩き易い。そして直接親方の店、〈豊穣の恵〉亭の裏手に出られるのでよく利用していた。

 うねる小道を進んでいると、雪面に真新しい足跡がついている事に気がついた。雪道に慣れていないのかその足跡は小さくたどたどしく、途中で一度転んでいる。

 この大きさは……子供?

 そしてもう一つは動物らしき物。かなりの大きさらしく、その足跡は深く、大きい。小さな足跡について行っているように見える。

  足跡の続く先をずっと追うと、岩の陰に誰かが倒れている。

「大丈夫ですか!しっかりして下さい! 」

  僕は声をかけながら倒れている小さな人影に駆け寄った。
  こんな時期に外で倒れていては命に関わる。ほんの数時間でも指先から凍傷になり切断を余儀なくされる事もあるのだ。

  倒れた人影は声にまったく反応せず、石のように固まったままだ。もしかしてもう手遅れだったのかもしれない。
 僕は急いで助け起こし、意識の有無を確かめようとした。

「……女の子? 」

 木々の間から遠く街の灯りが雪に反射して、まだあどけない顔を頭巾から半分だけ照らし出していた。はらり、と動いた前髪は、陽光の元にある雪原のごとくきらきらと銀に輝き、その褐色の肌と相まって何か特別な宝石を手にしているように思えた。
 身に纏っている鮮やかな刺繍が施された外套や、生地の薄い白衣からして、この辺りに住む娘じゃない。
 誰なんだこの子は………ん?


……このコ、うす目アケテル……


 僕は試しに自分の頭をゆっくりと左右に動かしてみた。すると彼女の薄く開けられた瞳の中心は僕の顔を捉えたままゆっくりと左右に動いた。

 ??何がしたいんだ??

 もう一度声をかけようと思った途端、真横にあった大岩が突然ぐらり、と動き出した。

「え? 何なにナニ? 」

 僕は思わず女の子を抱き抱えたまま逃げ出してしまった。
 脚を取られるほど雪が積もっていなかった事が幸いしたのか、何だか分からないモノに追いかけられる恐怖感なのか、いつもの道をいつもの倍の速さで駆け出した。


2017/5/8 なろう 次↓から

 もちろん間違っても女の子に怪我をさせる訳にはいかないので、しっかりと抱きしめたまま走るのだが、それにしても軽い! 何だろうこの軽さは! とても人ひとり抱えているとは思えない。僕が勝手に勘違いしているだけで、実は綿とか羽根を抱えているんじゃないかと本気で疑ってしまう。

 し、しかも細いのにすごくふにゃふにゃして柔らかいし、なんだかいい匂いが!すごくイイッ匂いがする!
 走っているからなのか、恥ずかしいのか、僕はひとり溶岩みたいに顔を赤くして雪道を疾走して行った。

「親方! 親方っ! 」

 僕は叫びながら先ほどまで働いていた食堂に飛び込んだが、そこにいつも頼りにしている髭だらけの笑顔は無かった。

「ッそ! 」

 後ろを振り向くと、黒い塊はすぐそこまで迫っていた。女の子を降ろしてから引き戸を閉めていては間に合わない! 
 とっさに足で戸を蹴飛ばすが、黒い塊は引き戸に激突して倉庫全体を揺らし、天井の埃を残らず頭の上に降らせた。

「牛……? 毛長牛だ 」

 外れかかった引き戸には巨大な黒い塊、毛長牛の頭が挟まっていた。

「ロバロ、そのまま待つ」

 小さく、霞がかかった穏やかな声が流れた。

 すると不思議なことに先ほどまで鼻息荒く興奮していた黒い塊は、しぼんでいく風船の如く急におとなしくなった。
 いつの間にか腕の中で身を起こした少女は、どんな術を使ったのか、自分の数倍はあろうかという毛長牛をいとも簡単に落ち着かせてみせたのだ。
 僕は口をだらしなくあけたまま、女の子と毛長牛を交互に見て、何が起こっているのか理解を超えている事態に呆然としていた。

「あの……もう、降ろしてくれ下さい」

「あ……ごめん」

 雲か霞かと思える彼女の小柄な体をゆっくりと床へと降ろす。顔が近くて僕の顔が赤いことを悟られてしまうのではと、ささっと二、三歩離れる。

 一方彼女も、外套の頭巾を深くかぶり直し、倉庫の中へ入って来た毛長牛を、なだめる様に撫でて身を寄せる。……何だか気まずい空気が流れた。

「お姫様抱っこ……都会はススんでますね」

「??  は、はい。 そ、その毛長牛は君が飼っているの? 」

「飼ってる?ロバロは友達」


 か、変わった子だなあ。



 同世代の友達とか知り合いも何人かいるけども、なんだろう? この会話の噛み合わない微妙な感じは。かなり遠くから来たのかな。

「あ、あの……ワタシ、名前は黒駒ルルディです。えと……薬師してます」

「あ、どうも。夜街ハイドラジア、ハイドラって呼んで下さい。明日から収穫者〈ハーヴェスト〉予定です」

 その言葉にルルディはピクリと反応し、初めて僕と目を合わせた。
 怪我でもしているのだろうか、顔の右側は包帯で覆われ、眼は見えていない様子だった。


「(黄金色……)」


 残る左眼は、薄暗い店の中でもそれとはっきり分かる金色。大きく見開かれた瞳は吸い込まれそうな深さで僕を見据えている。

「それじゃ、ハイドラはめいきゅうに入れるのか? 」

「うん。明日から行くつもりだけど」

「お願い、私を一緒に迷宮に連れて行ってくれ、下さい 」

  彼女の意外な言葉に、またもや混乱する。
 確かに、収穫者には荷運びなどの目的で随行者が認められている。
  僕がいれば彼女も迷宮内に入ることは可能になるが、僕自身も他の収穫者仲間に入れてもらおうと考えているぐらいの素人だ。

 収穫以外の目的で迷宮内に入るなら、普通は腕の立つ者や集団に属するという方法をとる。
素人同然の僕に同行を願うなんて、何か特別な事情があるのだろうか。

「え……あの……ワタシ……知らない人に声かけられなくて……」

  単なる人見知りでした

  それもかなり重症。

  しかしそれはそれで疑問は残る
  人見知りの少女が無理に迷宮に入る目的とは?

 迷宮内は毒を持つ植物やら人を襲う野菜やらがいて、普通の人にはかなり危険な場所だ。それに見たところ、小さくて武器も持っていない彼女が、戦いに向いているとはとても思えない。

 もしかしたら、さっきの大鳥居での騒ぎは彼女の仕業で、一人で無理に入ろうとしたのではないだろうか。
 そう考えを巡らした時、急に表の喧騒が気になり、僕は慌てて引き戸の錠を降ろした。

 そして聴覚だけで表の様子を伺うと、明らかに戸を叩く音や怒号の中心がこちらに近づいて来ている。

「ルルディ、さっき門を破ろうとしたのは君なのかい? 」

  僕の問いにルルディは伏し目がちに首肯する。

「どうしても本殿にいる大薬師に会いたかった。でもお金無いし、収穫者〈ハーヴェスト〉でもない……」

 どうする? 

自分自身に意地悪な質問を投げかける。
 このまま見つかれば当然僕は疑われるだろうし、良くて明日発(た)つ事は出来ない。悪ければ今後、迷宮に入ること自体を禁止されるかも知れない。

 何より捕縛されれば死罪かもしれないルルディを、役人なんかに差し出すことなど出来るわけがない。
 でもどうやってここから逃げ出す?

 通りを行けば、ルルディと毛長牛のロバロでは必ず止められる。さっき来た道を大鳥居の方へ戻って……いや、ダメだ。隠れる場所がない。安全な僕の長屋へ行きたいが、そのためには二町(220mほど)は歩かなくてはならない。どうしよう、通りを歩いて疑われない方法なんてあるのか?どうしても逡巡ばかりで一歩が踏み出せない。

「ムリならいい。私ならヘイキ」

眉尻を下げてぎこちなく笑うルルディの右手は、痛々しい包帯が巻かれていた。その腕の形、大きさは華奢な彼女の一部として明らかに異形だった。

「ルルディ、その右腕はどうしたの?怪我? 」

「む……びっ病気だ。別に 感染ったりしないから、あんしんしろ」

 狼狽し、今更右腕をうしろへ隠す仕草。

 それにしては違和感があり過ぎる。まるでお伽話に出てくる鬼のような腕だ。
 金色の瞳は視点が定まらず、次第に銀の髪が覆い隠す。

 涙の気配、落涙の予感、一歩、二歩と後ずさり解決の無い方向へ逃げ出す準備。

 見え隠れする彼女の過去。


 途端に父さんの言葉が鮮明によみがえり、その道を照らし出す。
(ハイドラ、自分にしか出来ない事を探し出せ。そしてそれを見つけた時は迷わず進めばいい)


僕の心は決まった。


「力のなれるか分からないけど、一緒にいこう。僕は君の事がもっと知りたい。」

泣き出す寸前だった ルルディは、涙をぬぐって、差し出した僕の手に包帯の手で答えてくれた。


 〈豊穣の恵〉亭は、収穫者〈ハーヴェスト〉が収穫して来た野菜や植物を仕入れている。元収穫者の親方の人脈と人望で多くの人に愛されて来た。

 僕は、父さんが生きていた頃から親方の所で働かせてもらっている。

 今は冬季で多くの地域で野菜が採れないので、一年中狩が可能な永久迷宮では今がまさに農繁期なのだ。
 つまり、〈豊穣の恵〉亭の奉公人であるハイドラがこんな時間に荷車に野菜袋乗せて毛長牛に引かせて移動していても、何ら不自然な行動ではないワケだ。

〈豊穣の恵〉亭と所有を表す印章の入った大布の下に女の子を隠している事以外は。

 「引いた事はないけど、大丈夫と言ってる」とのルルディの言葉を信じ、僕はロバロに荷車を引かせて、脱出を試みることにした。

 店から通りに出て、喧騒を抜けなくてはならない僕の長屋ではなく、反対方向へ行けば逃げ果せる可能性が出てくる。

 先ほど見たルルディの右腕。僕は彼女がアレを治療しにここへ来たのではないかと考えていた。であるならば、これから逃げる先にその手助けしてくれるかもしれない人物がいる。

 ガロゴロと重苦しい音を立てて、荷車は通りへと現われ出でる。店の右手方向ではほんの15間(27mほど)先で役人が集まって屋内の検分をしているのが見える。

 僕らはそれらを背に左方向へ折れ、焦る気持ちを抑えつつ一歩一歩着実に安寧陸塊へと歩みを進めた。

「おっ、ハイドラじゃねえか」

 突然に裏路地から声をかけられ、心臓が大きく脈打った。暗がりから現れたそいつは、ニヤニヤと口元を歪め、手にした棍をもてあそぶ。

「トレボル……さん」

  嫌な役人(ヤツ)に見つかってしまった。

 大薬師神宮には、ここを警護する役人が多数いる。
 それは掟を守らせ、違反者を取り締まる為だが、三十年前に今の神代聖薬師、黒牛ニエべに代わってからその掟は厳しくなる一方だという。

 聖薬師ニエベは今まで不治の病とされていた病気も、その霊薬でたちどころに治療してしまうような高名な薬師だ。
 その名は遠く国外のまで届き、ニエべの霊薬を求める人は後を絶たない。

 しかし大薬師神宮では、より多くのより良い薬を作るために、という理由で多額の納金を求められている。
 その為ここでの掟はすごく細かくて、迷宮に入るための〈奉納料〉とか収穫量に応じた〈税金〉とかもきちんと決まっている。

 しかしそれを取り締まる役人にはお金に汚いヤツが多く、賄賂や略奪を行う者や、犯罪をでっち上げる者もいるほどだ。

 今、目の前にいるトレボルという男も、その例に漏れず役人として立派な小悪党だ。
 顔を会わす度に、難癖をつけて金や物を要求してくる。酒に酔っては暴れて喧嘩をする。まさに街の厄介者、嫌われ者だった。

「こんな時間まで仕事とは感心感心」

「何かあったんですか? 」

「門破りの犯人探し。寒いのにいい迷惑だぜったくよ。そういやオマエ明日、迷宮に入るんだって?たっぷりと稼いで来るんだろうな」

トレボルは僕と話しながら、荷台の野菜袋をチラチラと見ている。

「そんな。僕なんてまだまだですよ」

 わざと恐縮して見せるが、僕にあまり余裕はない。
 心臓の鼓動の一回一回に大きく頭を揺さぶられるようだ。
 門破りの事を疑われてはいないだろうけども、何かの拍子に大布をめくられたら一巻のおしまいだ。

「オマエが犯人だとは思っちゃいないが、万が一って事があるからよ、協力してくれよ。大変なんだぜ? こんな時間にこき使われてよ、腹は減るし金は無えし腹は減るし……」

 そう言うとトレボルは荷台の大布に手を伸ばそうとする。

「トレボルさん! 」

 咄嗟に叫んだ声にトレボルは一瞬怯んだが、取り繕う様に目を見開き、威圧しようとする。
僕は下を向いたまま、無言で荷台の大布の下から野菜袋を二つ取り出し、トレボルの前に差し出した。

「おっ、二つも悪いな。じゃ気を付けて帰れよ」

 小悪党はすいた歯を剥き出しにして、精一杯の作り笑いを掲げ、野菜袋を受け取った。どうやら目くらましに上手く騙されてくれたようだ。
 僕は表情を固めながらも背中から緊張が氷解していくのを感じていた。


「お待ち」


ーーたった今、溶けた氷は無慈悲な氷点の声振に再び凍りつき、心臓の鼓動が加速していく。突如晒された緊張に体がついて行けず、呼吸のバランスがおかしくなる。

 ぬるり、と現れた影は最大限の悪寒を伴い、自分の中の最悪を確信させた。

「ブブキ……様」

 トレボルの勝ち誇った笑みは、みるみるうちに崩壊し、大量の汗と共に緊張の度合いを増していった。

 さくりさくりと雪を踏む脚は、異常に細長く規則正しい歩調を乱さない。肩からだらりと下げられた両腕は、脚よりもさらに長く青白い指へと繋がっている。背中を丸めた姿勢でも六尺(182cmほど)を超える大男。何の毛皮を仕立てたのか細かい毛がびっしりと生えた全身黒ずくめ、腰には曲刀を下げている。幽鬼じみた白い顔にこけた頬。前髪に付けられた瞳を模した飾りによって、どこを見ているか解らず心が見えない。


「(よりによって……! )」

 僕は自分の不運を呪い倒した。


闇蜘蛛ブブキ。


 聖薬師ニエべ様に仕える庭師
 得体の知れない怪人
 底の見えない狂人


「何をしているの?そこで」

「へへへ……あ……あの、コレは……ぎゃあっ⁉ 」

無理やり卑下た笑みを浮かべていたトレボルは、軽く空気が鳴くと同時に野菜袋を落としていた。
見るとその腕の皮膚は裂き剥がれ、白面の雪に赤黒い血を撒き散らしている。

「アナタには聞いてないわ」

 ヒイと情けない音を発して逃げるトレボルを目で追いながら、僕はブブキをまともに視界に入れられずにいた。
 今一体何をしたんだ……どうやればあんなに遠くから攻撃が届く?

 二人の間は三間(6m)ほどあったはずなのに、ブブキが軽く腕を振った様に思った途端、トレボルの腕が弾き飛んだのだ。

「掟通り印章入り大布。しかし毛長牛はあまり見ないわね。どこの店かしら?」

 冷静に事務的に問いを突きつける。

 「……〈豊穣の恵〉亭です。いっ今は……野菜の仕入を」

 いくら落ち着かせようとしても声が震えてしまう。

「市場は反対方向よ。」

「あの……ちっ直接お得意先を回るので……」

「繁盛ね。二袋も賄賂に出すなんて。あの程度の輩なら一袋で充分あしらえるわ。なのに二袋も。そんなに早く立ち去って欲しい理由でもあるのかしら? 」

「いっいえ、けしてそんな事は……」

 明らかに荷を疑っている口調。僕と会話をしながらも意識は常に荷台へと向けられている。


「何を隠しているの? 」


 核心を突く一撃。

 ブブキは頬が触れんばかりに顔を寄せ、耳元で囁く。

 ぺちょり、と舌を鳴らす響きが鼓膜にこびり付き、吐いた息が首筋を伝って滴り落ちていく。
 恐怖で硬直する僕の体を楽しむように、何故か左手で無防備の股間を触られていた。

「正直に話してくれたら、いいコトしてあげるわ」

 僕はその行為の意味もわからず、羞恥に顔を火照らせ、声を漏らしそうになる。

 恐怖と斬鬼。

 本当ならここで抗う力など出せるはずはなかった。しかし僕の心はルルディと繋いだ右手を忘れてはいなかった。
 怖くてもいい。ふるえながら絞り出すんだ。
 がくがく揺れる手をやっとの事で前へと移動し、ブブキの身体をゆっくり突き剥がす。

「少年。見直したわ、イヤ違うわね」

 惚れちゃったかも、と耳を疑う声。

 金属の擦れる音と共に抜刀、白刃を高く掲げる狂人は歓喜の嬌声をあげて、荷車の大布へと曲刀を振り下ろした。

「ひゃははははあああああっ‼ 」

  柔らかい何かが曲刀に突き刺される音、音、音。

 「やめろっ!やめろおっ! 」

  懇願に近い叫びをあげ、止められない腕に向かって空を掻くムダな抵抗ムダな努力。

「アタシは刺したいの!ブッ刺し殺したいのよ‼  」

  暴れる曲刀をを刺し続けるブブキの狂気とそれを止めようとする僕の興奮が感染したのか、今まで大人しかった毛長牛のロバロが、前脚を踏みならして唸りだした。

「ロバロ! ロバロっ落ち着いてくれ頼む‼ 」

……
失敗だった。


 僕がどんな状態になろうとも、絶対にやってはいけなかった。

 荷台の大布の下の事よりも牛の事を気にするなんて。

 ピタリと動きを止めたブブキは何事かを感じ取った様に、初めてそれとわかる目玉を動かした。

「アナタの出る幕ではないわ。退きなさい」

 見るとブブキの曲刀は刀を納めたままの鞘に制され、振り下ろす事を赦(ゆる)されていなかった。


「迷宮外での抜刀は掟違反だ。町人への危害もな」


 その人物は 藍の紋付羽織、格子模様の藍木木綿の武道袴に脇差し二本の剣士、いや女性剣士だった。

僕よりも二つか三つ年上だろうか、後ろで結わえた流れる艶髪、引き締まった顔つきは〈眉目秀麗〉が最も似合う。意志の強そうな黒曜の瞳と太い眉が印象的だ。

「……ちッ」

 ブブキは舌打ち一つ残し、曲刀を鞘に納める。

 「今日はアナタの勝ちよ。また会いましょう」

 黒ずくめの狂人は楽しそうに負けを認め、夜の闇に溶け込む様に見えなくなった。

「仕事とは言え、夜に出歩くのは感心せんな。これからは気をつけろよ」

 いきなり現れて僕たちを救ってくれた剣士は、艶のある長い黒髪をひるがえすと、厳しい表情を崩さず忠告した。
彼女が 何者かは全く分からないが、たった今見せたあの闇蜘蛛ブブキを一瞬で黙らせる強さは只者じゃない。

 僕は助けてくれたお礼を言うのも忘れ、ただ呆然と去って行くその背中を見送っていた。



「ルルディ大丈夫? ケガはない? 」

 終始ゆっくり歩くロバロを無理に急かし、僕らは町外れにポツンと佇む薬師のオババのあばら家へとたどり着いていた。

 ロバロに掛けていた〈豊穣の恵〉亭の大布を剥がし、隠れていたルルディの無事を確認する。ロバロに荷車を引かせて注意を集め、背中に乗っているルルディから意識を遠ざける作戦はなんとか成功していた。

 並外れて大きなロバロと小さなルルディだから上手くいったのだろうが、今まであんな緊張を強いられた経験は無かったので、あれを乗り越えられた事は僕の中でとても大きかった。

「ルルディ? 」

 返事がない。

 僕は慌ててロバロからルルディを引っ張り降ろし、ぐったりしたままの彼女をそうっと地面に降ろした。
  毛長牛はあまり人に慣れないが、ロバロは特別なのかルルディの言う事をよく聴いていたし、その行動にも敏感に反応している。

 その為かぼくは勝手に、ルルディの危機にはロバロが何かしらの行動をすると思っていた。逆に言うとロバロがおとなしい時は、ルルディの身に危険はないのだと油断をしていた。

 呪いがなんらかの影響を体に与えた所為で、気を失っているかも知れないが、もしかしてブブキの曲刀が、彼女を傷付けていたら、一刻も早く手当をしなくてはならない。
しっししかし、気を失っている隙に女の子の身体を、みっ見るなんて事をやっても良いのだろうか?

「ルルディ? 」

 軽く肩を揺すってみる。何の反応もない。

 今度は薄眼を開けていないし、本当に気絶しているのかも……
……
……
 ーーコレは彼女の身を案じてやる事で、決して他意があってやるんじゃないぞ。

 違うから、断じて違うからなあ。

  僕は外套を閉じていた紐を解いて、広げてみる。血が付いたりはしていないが、見た目よりかなり汚れていて、彼女の旅の径路が平坦で無かったことが伺える。

 白衣の袖から出ている褐色の肌は、改めて見ると水面に立つ波を思わせる曲線の美しさがある。その分包帯の下に隠された、恐らくは人の肌として認識出来ない形貌の右手は、ことさら悲憤を感じる。

  ふと見ると、幼い胸部は呼吸の上下変化をしていない。息をしていない⁉
僕は慌ててルルディを抱き起こして顔に頬を近づけ呼吸を確認しようとした。

「そこで何をしておるんじゃ? オマエは」

 いつの間にかあばら家から出てきた薬師のオババが、明らかに不審者を見るような半目で僕を見ていた。

「寝ている女の子を襲うなんていい度胸じゃが、違うところでやってくれんかの」
「えっ? ちっ違いますよ! これは、そうじゃなくて!」
「何が違うんじゃ。たった今、接吻しようとしてたじゃろが 助平が」

 しかし僕の眼前では、金色の瞳を潤ませたルルディが両の手を口元に当てて、頬を朱に染めていた。

「えっ? ちょ、待ってまって! 」
「…………えと、ワタシには少しはやいとおもう」
「僕は何もしないって!絶対にしないから‼ 」

  恥ずかしさも相まって、必要以上に力を入れて否定してしまった。がしかしーー

「……あ、大平原の小さな胸の分際で調子に乗った。ワタシなんかを相手にしても楽しくナイな」

  ルルディは目尻に大きな溜まりとへの字口を作って、ぷいと横を向いてしまった。

 次の瞬間、頭の衝撃と同時に僕の視界は暗転し、弁解の機会は永遠に失われてしまった。後から聞いたが話だと、ルルディの心の機微を敏感に感じ取ったロバロは、見事な後ろ蹴りを僕の後頭部に命中させていたそうだ。

 思いがけず僕は〈ルルディの危機にロバロが反応する〉と言う自説を体現する結果となった。


『これは"鬼装"じゃ。間違いない』


  街外れにある崩れかけた小屋、偏屈で知られた薬師オババは、深く刻まれたシワの向こうにある目を輝かせた。

 重症人見知りのルルディは、僕がロバロの一撃を喰らって倒れていなければ逃げてしまっていたのでは、と思えるぐらい挙動が怪しい。

 オババの『見せてみい』という言葉にもなかなか従わず、最終的に僕の後ろから右手を出す、という始末だ。
 しかしながならこの体勢は、ルルディが後ろから僕を抱きかかえている、と言えなくもないので非常に恥ずかしい。頼むから余り身体を密着させないでほしい。

「どう?オババ。治せる? 」

「いくら出すかね? 」

 ゴツゴツと岩のように赤黒く変色した右手を熱心に観察しながら平坦な口調でオババが問う。

 背にいる少女は、たいして大きくもない僕に身を寄せて震えていた。
 たった一人、病気を抱えて長い旅路を経て来たのか。そう思うと、その小さな身体に宿る大きな勇気を感じる。僕に足りないものが。

「それでルルディの病気が治るなら」

「フン……戯れじゃ。小僧も娘も金がない事ぐらい知っておる。金があったらワシの所になど来んわ」

 厳しい事だが、大薬師神宮のお膝元と言えど安価で薬師の扱う霊薬を買えるわけもなく、貧乏人はオババのような街薬師に頼るしかないのが現実だ。

 『それに"鬼装"は徐々に鬼の姿の変貌するという奇病での、ワシら薬師の中でも優れたる者のみ罹患する言わば"呪い"じゃ。ワシには治せんよ』

「呪いって……それじゃルルディは治らないのか⁉ なんとか頼むよオババ! 」

『簡単に言うてくれるな。
 薬師の腕の良し悪しは経験の差じゃ。より沢山の病と出会い、より沢山の薬を試す。失敗と成功繰り返して高めて行く。信頼される多くの薬師が経験を積んだ年寄りなのはその為じゃ。
たとえ師匠と弟子でも、タダで知識を譲ったりはせんよ。知識は財産じゃからのう』

 以前、親方が同じことを言っていた。

 収穫者は質の良い野菜が出現する場所を経験的に知っていて、たとえ仲間でもそれを教えたりはしないと。
 オババはふっとため息をつくと、改めて僕たちに向き直る。

『これから先は深い話になる。これを聞いたことで二人とも命を狙われる危険性もあるが、その覚悟があるなら聞くがいい』

  さっきまでのオババとは違い、ある決意を持って話をする意志が伝わってくる。
  僕はルルディの手を握り、軽くうなづいた。

『娘は名を黒駒ルルディと言ったか。間違いがなければ大薬師黒駒ウーヴァ殿の娘と見受けたが』

「……まちがってはいない。あんなのでも一応は」

『フン……憎しみか。ウーヴァ殿のあの性格では仕方なしじゃな。ここには何をしに?まさかただ会いに来た訳ではあるまい』

「挑戦。アイツはこの呪いを解いた。アイツに出来て私に出来ないはずはナイ」

『なるほどのう、ありえる話じゃ』

 オババは納得したように腕を組んで満足そうにうなづく。
でも、僕の記憶が正しければ、大薬師のウーヴァってたしか一年ぐらい前に……

『ではウーヴァ殿の書を持っておるな?アレについてワシから助言しよう』

「いらない。ジブンでやる」

『そう言うな。アレが著される時にワシも微力ながら協力しておる。助言をせねば公平ではないじゃろ?』

 ルルディは不満そうだが、オババはどこかからかい半分で楽しそうだ。
 しかしあんなに人見知りしていたルルディが、母親のこととなると感情をあからさまにする様子が不思議だ。黒駒ウーヴァ……どんな人だったのだろう。

『よいか、解呪霊薬には多数の解毒作用を持つ素材を必要とする。常識とは違うが必ず調合する量を守ること』

「量を守ることが非常識なのかい?オババ」

『霊薬は体格体重に従って調合量を変えるのが常識なのじゃ。それとこの三つの特別な素材じゃ』

 オババはルルディが持っていた書を開いて、ずらりと並んだ名前の中から三つをさした。


『"黄金〈メルキオ〉"乳香〈バルター〉"没薬〈カスパー〉"この三つが特に入手困難な素材じゃ。
黄金〈メルキオ〉は最も美しく、迷宮内に住む"森の人"が所持しておる
乳香〈バルター〉は最も多く、白き谷に
没薬〈カスパー〉は最も危険で、静かなる暗闇が必要じゃ』


 ルルディはその内容を聞いて途方に暮れてしまったのか、表情がかなり暗い。やはりこの三つを手に入れるのは並大抵の苦労では済まないという事なのか。

「"森の人"って本当にいるんだ。親方はただの噂って言ってたのに」

『それも含めて入手困難だという事じゃ』

  薬事辞典のそれぞれの項目に書かれている説明文は、他の物に比べ極端に少なく、外見の挿絵もない

「どんな薬草かも分からないの?」

「薬草とは限らん。昆虫、岩石、動物の内臓、薬の元は沢山あるでな」

ルルディの呪いを解くためには辞典の項目に載っている薬草全てと、入手困難な三つの素材を手に入れなければならない。

 彼女には悪いけれども、僕はオババの話を聞きながら、高鳴る胸を抑えきれずにいた。
 呪われた女の子を助けるために、危険な"永久迷宮"を旅するなんて物語の中でしか無いような状況じゃないか。

「オババ、もう一つだけ。最初に言ってた"命を狙われるかも"っていうのはどういうこと?」

「……娘に聞かせるには酷かもしれんが、ウーヴァ殿は一年ほど前に亡くなられておる。表向きには"鬼装"による呪死でな」

「え?でも呪いは解けたって」

「死の原因に何か不都合がある場合、病死とされるのはよくある事じゃ」

 母親の死を聞かされたルルディの横顔は複雑な表情をしていた。
 それも普通に訪れた死ではなく、謀殺の疑いさえ伺える内容となれば、いくら母親を憎んでいても哀しみがあって当然だと思う。

 ずっと握ったままのルルディの手からは、戸惑いはあっても諦めるつもりは無く、前に進み続ける力強い意志が伝わって来る。

 その手は小さく柔らかくても、決して弱くは無かった。

「誰かに……殺されたってこと?」

「フン……若者は怖いもの知らずじゃの。どこで誰が効いておるやも知れんのに。あくまでただの推測じゃが、名のある大薬師の死因を捻じ曲げられる者など、この里では一人しかおらんじゃろ」


 神代聖薬師 大黒屋ニエベ


 僕はとっさに、その言葉を飲み込んだ。
 そんなバカな……大薬師神宮にいる神職の頂点、数百の薬師束ねる聖薬師が、神の前で隠し事など……
いや、それよりもこの薬師の里にいて、絶大な力を持つ聖薬師に睨まれば、まともに行きていけるはずがない。

『解呪霊薬を作るということは、ウーヴァ殿の死の真相に近づくという事じゃ。その覚悟がないなら、この事は忘れて二度と口にしないことじゃ』

 先ほどまでの高揚感はすっかり影を潜め、今自分が立っている岐路の危うさを思うと、膝の震えが止まらなかった。

 薬師に里は比較的平和な場所ではあるが、年に何度か罪人の処分が立て札に記される事がある。そのほとんどが聖薬師の定めた掟を破ったとして死罪を言い渡されている。どんな微罪であろうと聖薬師の逆鱗に触れれば死は免れないのだ。

『小僧、今ここでお前が背を向けたところで、誰も責められん。ワシとて同じよ。ニエベを恐れて、ウーヴァ殿の死に疑問を持ちながら口をつぐんでおったのじゃからの』

 もし僕が、何らかの理由をつけられて捕まれば、親方やオババにまで累が及ぶかも知れない。
 それに何十何百といる役人や、あの闇蜘蛛ブブキから、ルルディを守りながら迷宮を旅するなんてとてもできそうに無い。

 もっと僕が強ければ……あの女剣士みたいに強ければ……
 ぐるぐると出口のない逡巡を繰り返していると、ルルディが僕の腕を軽く引いた。


「ハイドラ、ここでお別れしよう」


 彼女は潤みのある金色の瞳で僕を見る

「で、でも……ルルディキミ一人では……」
「一人じゃない。ロバロがいる」
 
 鬼装を患う右手で僕の襟を持ち、小さな体を精一杯伸ばして顔を近づける。

「ワタシ、人間がとても怖い。何を考えてるか分からないし、うまく話せない。でもハイドラはこわくない」

 風がそよぐとすぐにでも消えてしまいそうな声で、必死に想いを伝えようとしている

 顔は紅く、手は震えていても、その瞳は真正面から僕を見つめていた。

「手を差し伸べてくれたこと、すごく嬉しかった。だから……ありがと」


 ルルディの唇が僕の頬に軽く触れ、その熱が僕に伝わって来る。
「バアちゃん男の子はこうしてあげると喜ぶって言ってたから……私にはあげられるものは何もない。だから……せめて……おれい」


 ルルディの突然の行動にどう反応していいか分からず、ぼーっとしている僕を残して、彼女はふわりと身体を離しぎこちない笑顔を作る。

 そしてそのまま身をひるがえすと、小屋の隅で座り込むロバロの元へ行ってしまった。

 ルルディは、母親の死を聞かされてなお、危険で困難な道を進むことを諦めてはいない。あんな小さな身体の、どこにそんな勇気が秘められているのだろう。


 僕は弱い、

 弱いけれども、

 何者にも屈しない強さが欲しい

 どんな困難にも迷わない勇気が欲しい
 そして真っ直ぐに生きる彼女の力になりたい。
 僕の心はもう決まっていたはず。彼女の手を取った時、もう覚悟をしていた。

 何を、迷う事があるんだ。


「ルルディ」


 毛長牛の陰で足を投げ出して座っていた彼女に声をかける。

「僕、こう見えても料理が得意なんだ。迷宮の中でもキミの好きな料理を作ってあげられると思うよ」

 最初は僕が何を言っているのか分からない様子だったが、惚けているその顔に向かって軽くうなづくと、ようやく安堵の微笑みが返ってきた。

「……よかった。ワタシ、料理できないから、どうしようとおもってた」

 僕は涙ぐむ彼女の抱擁を受けながら、やはり女の子には心からの笑顔でいて欲しいと思った。

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