ライトブルー

ジンギスカン

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1、The die is cast

The die is cast

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 始業前の校内、私は鞄を持ったまま男子トイレの個室に籠りポーカーフェイスの練習をしている。これまで念入りに計画を企ててきた。今日は遂に蒔いた種を刈り取る日である。しかし、いざ企みが成功した際、あまりにもニヤニヤしていたらこの騒動の首謀者は自分だと教えているようなものである。笑いを、笑いを堪えなければならない。頭の中でイメージトレーニングをする。

 仕掛けが機能し慌てふためく松山。
「俺じゃない!俺じゃない!」と慌てふためく松山。

「ぶひぃぃーーーっ!!」

 鼻の孔から粘性の液体が噴射される。
いかんいかん、これはまずい。もしかしたら笑いを堪えることがこの計画で一番難しいかもしれないぞ。
トイレットペーパーで粘性の液体を拭き取る。
再度イメージトレーニングを試みる。
私はその後も幾数回と「ぶひぃーーっ!!」を繰り返した後、これは何か作戦が必要だと思い至った。脳内の松山でさえこれ程まで「ぶひぃーーっ!!」を誘発してしまうのだ。実物を目にしたらきっと耐えられない。本物の豚になりかねない。
 般若心経を唱えよう。
 そう決意し個室を出る。手を洗おうと歩を進めると、数人の男子生徒がトイレ入り口に立って進路をふさいでいた。松山智成も、その中にいた。
「おいおい、『ぶひぃぶひぃ』うるせぇ奴がいるなぁって思ってたら、椚田かよ」
 いつものように松山がニヤニヤしながら挑発の言葉を浴びせてくる。いつもならこちらから「邪魔」とか言って応戦し、ちょっとしたいざこざに発展するのだが、トイレをふさぐいつもと違う松山を目にし、私は言葉を失っていた。
 そう、私は驚愕していた。
 先ほどまで何度も脳内再生された松山智成。しかし眼前の松山智成は茶髪のアップバングのうち8分の1、前髪の左半分をライトブルーに染めていた。
 嘘だろ、松山、お前、なんでそんな中途半端に髪を染めてきたんだ。待て、何をそんなニヤニヤしているんだ?お前これから自分がどんな目に合うのか分かっているのか?
 髪を染めてテンション上がっているところ悪いがお前は今日……
 私は想像する。
 髪の毛を中途半端に染めて浮かれ気分の松山が「違う!俺じゃない!」と喚いている姿を。
 なんて、哀れなんだ。

 私の頬を何かが伝う。
 涙?
 何故?

 突然頬を濡らす私を見て松山たちは動揺する。
「え?椚田泣いてる?」
「え?え?」
 当の松山も中途半端なライトブルーをいじりながら反応に困っている。
「え?泣いてる?なんで?」

 本当に、何故私は泣いているんだ?
 思案に耽りながら手を洗い、松山の前に立つ。
 松山は不可解な涙を流す私を前に委縮し、道を譲る。
 そのまま私は男子トイレを出て教室に向かう。
 後ろで松山たちはしきりに「え?え?」「え?あ、え?」「え?何?え?」と「え?」を連呼している。
 何故、自分は泣いているのか、私は考える。
 不意に光明。私は一つの解を得た。
 これは、憐れみの涙。
 この作戦が機能すれば、ライトブルー松山はスクールカースト最下層にダイブすることになる。それほどの計画を立て、実行に移すほどに私は松山に対し強い憎悪を抱いていた。
 しかしそんな松山を哀れに思い、涙を流したのだ。
 男子トイレであのライトブルーのニヤニヤを目にしたとき、自分は再度「ぶひぃーーっ!!」を繰り出し、松山の顔面は汚物にまみれると思われたのだが、そうはならなかった。
 つまり、この憐れみの心を持てば、肝心な時に「ぶひぃーーっ!!」を発動し計画を無に帰す心配はない。
 私は笑いを堪えながら自身の教室、3―2に入る。

 私の視線はすぐに一人の女子を捉える。クラスで相対的に可愛い金谷美奈。まだ自身の机の中に仕込まれた爆弾に気付いた様子はない。ごめんね金谷さん、君はなんにも悪くないのだけれど、クラスで相対的に可愛く彼氏持ちであるが故に、この度は大変不快な思いをさせてしまうことを心よりお詫び申し上げます。
 予鈴がなる。金谷美奈は友達との会話を切り上げて自身の席に着いた。私も自身の席に着く。できるだけ彼女を視界の端に置きながら観察を続ける。
 金谷美奈はなんとはなしに机の中に手を入れる。そして、一つのノートを手にする。金谷美奈の動きがしばし止まる。自身の机の中に、他人のノートが入っていたのだから、戸惑うのも当然だ。そして、恐らく無意識だろう、ページをめくりだす。再び訪れる、静止。
 金谷美奈がそのページを見るかどうかは賭けだった。
 しかしその確率を高めるために、私は二つの細工をした。一つは角の折り目。この折り目は付箋の役割を果たす。しかしそれだけではページを開きこそすれ、目を留める確率は低いだろうと踏んだ。故にもう一つの仕掛け。ちょっとした、カクテルパーティー効果。人間はカクテルパーティーのように様々な会話が飛び交う喧噪の中でも自身の名前を呼ぶ声を聴きとれるのだという。実際にそうかは定かではないが、他人のノートの中に自分の名前が記されていたら、気にならない訳がない。
 金谷美奈はそのノートに記された文字を静かに読み進める。
「偽りのラブレター」
 それが松山をスクールカースト最下層へと叩き落とすための作戦名である。
 机の中に、松山のノートが入っており、そのノートには金谷美奈に対する愛の言葉が記されている。しかし、その愛の言葉は、大変おぞましい。


 金谷美奈たん

 美奈たん、君は月で俺は太陽
 そして、俺が太陽で君は月なんだ

 美奈たんは毎晩俺の夢を訪れてくれる
 俺はそのことがたまらなく嬉しいんだ
 だから俺も美奈たんの夢になるよ
 そう決意して、俺は毎朝枕に頬ずりをしている。
 いつかこの枕が君に代わることを願い・・・


 あまりの気持ち悪さに全文を載せることが躊躇われた。今載せた文章は全体の4分の1であり、残り4分の3はよりおぞましさが増していく形となっている。
 まるで脈略のない言葉の羅列、単にかっこよさそうな響きを集めた自己陶酔と生理的嫌悪感を引き出す表現、この恋文は、私が推敲に推敲を重ねた結果生み出された、もはや兵器である。このような死の呪文が見開き1ページを埋め尽くしている。
 ここまでは順調、あまりのおぞましさに金谷美奈もノートをバタンと閉じる。そして汚物でも扱うかのようにそのノートを机の隅にやる。しばらく固まった結果、自身の脳内で処理が追い付かなかったのか、女友達のもとへ例のノートを持っていき解釈を仰ぐ。女子グループの中でどよめきが広がる。そして次第に哄笑が巻き上がる。
「きもくね?」
「これは、ない」
「えー!無理!」
 その負の感情は、嵐のように彼女たちの心を支配する。
「え?美奈、どうするの?付き合う?二股かける?」
 金谷美奈の友人の一人が面白半分で尋ねる。
 対して冷え切った目で、金谷美奈は答える。
「冗談でも、そんなこと言わないで」

 私は参考書で口元を隠している。まさか、こんなにうまく行くとは思わなかった、というのが正直な感想であった。金谷美奈がノートを開かずに松山に返したら、あのおぞましい恋文に金谷美奈がときめいてしまったら、いろいろ懸念事項はあったが、ここまでは全て計画通りだった。
 同時に焦りも感じていた。取り返しがつかないことをしてしまったという思い、罪悪感もないわけではない。胸が少しチクリとする。しかし、もう戻れない、事は起こってしまった。
 後は松山が絶望を目の当りにする、それだけなんだ。
賽は投げられたのだ。


  *
 何故、椚田司が泣いたのか、俺は考えていた。
 弱い者いじめは駄目だと小学校の教師も中学校の教師も言っていた。くそみたいな教えだな、そう思った。口ではそういう大人たちも子どもである俺たちを前に威張り散らしている。「敬語を使え」「誰に向かって物を言っているんだ」と。あんたたち大人が一番弱い者いじめをしているじゃんかよ。
 しかし、それは仕方がないと思った。口ではどれだけきれいごとを抜かそうが、世の中、強い奴と弱い奴に分かれる。こと学校の中だけでいえば俺は強かった。
 真面目な性格は面白くないと思われるから、全てにおいてふざけ倒す。すると勝手に同属の仲間ができる。大きな声を出して馬鹿な話をして笑い合っているだけでスクールカーストの上位に立つことができる。あほみたいに簡単な世界だ。いじめの対象がいるということは、笑い話を作る上でかっこうの餌となる。だれかを攻撃することで、俺たちは自分が偉くなった気がするし、仲間の結束を強めることもできる。いいことしかない。
 とはいえ、何もそんな計算高く他人を貶める訳ではない。現に俺たちにいじめをしているという意識はない。
 仲間と一緒にただ馬鹿をしている。ただそれが、結果として他人を傷つけている、ただそれだけなのだ。
 椚田とは1年の時からずっと同じ組だった。椚田は真面目で4月から随分経っても友達が少なく、攻撃するには格好の的になると思った。
 しかし椚田は折れなかった。こちらが挑発すると、侮蔑の目でこちらを睨み返し、暴力で脅すと退学を盾に怯みもしない。スクールカースト最下層の癖に、俺たちを見下している、そのことがどうしても許せなくて、俺たちは今日まで執拗に、時には陰湿に、椚田を攻撃し続けてきた。しかし椚田は決して俺たちに屈しようとはしなかったのだ。
 その椚田が泣いていた。何故?
 家族との間に何かあったのか?失恋か?
 それとも、俺たちの攻撃はしっかりと椚田に届いていたのか?
 だとしたら、椚田との勝負に俺たちは勝ったのか?
 本当に勝ったのか?
 勝ったと言えるのか?
 数人で一人を一方的に攻撃し、泣かせて、それは勝利と言えるのか?
 勝利したというのなら、何故これ程までに、気持ちが重たいんだ。

 晴れない気持ちのまま、俺は教室に入る。
 クラスの女子の一人が、俺の顔を見て、嗤う。
「ヤバい」とその女子が嗤いながらこぼす。つられて別の女子も俺の顔を見て視線を逸らす。そして嗤う。

 どうした?

 違和感の正体がつかめない。
 俺はふと椚田に視線をやる。椚田もこちらを見ていたようだが、視線をスマホに移し、般若心経のようなものを唱え出した。
 あいつ、そこまで追い込まれていたのか。

 俺は自身の机に向かう。
 一つの違和感。朝、登校した時点ではなかったもの。一冊のノートが机の上に置かれている。表紙には、「現文」「3‐2」「松山智成」と記されている。間違いなく、俺のノート。昨日もこのノートを使って授業のメモをとったのだ。
 しかし何故、机の上に出ている?
 ノートを手に取ると、クラスの端っこで再び女子たちが声を殺して嗤い出す。
 なんだ?
 ノートをめくる。昨日までの授業メモ、白紙のページ。そして…

「なんだよ、これ……」思わずこぼれた言葉。

 クラスメイトである金谷美奈に対する書いた覚えがない気持ちの悪いポエム。そしてそれに応えるように別の筆跡で「ごめん、ムリ」と記されている。
 スクールカースト上位の女子たちが嗤っている。

 なんだこれ……?
 事態が呑み込めない。攻撃されている?この俺が?

 なんなんだこれ!
 女子の嗤い声がうるさい。
 誰かが俺を陥れるために罠を張った!
 なんで?
 嗤い続ける女子
「ドンマーイ」とどこからか投げかけられる声
 誰が?
 なんだこれは!なんだこれは!なんだこれは!!

「なんなんだこれ!!」
 ドンっ!と机を叩くとともに俺は怒鳴っていた。
 教室は静まり返る。
 クラス全体を一瞥する。クラス全員の視線が俺に向いている。
「どした~?」と馬鹿友達の堂島敦が駆け寄ってくる。
 俺はそれを無視して再度怒鳴る。
「誰がやった!出てこい!」

 しばらく沈黙が続いたが、不意に金谷美奈が立ち上がった。
「誰がやったもなにも、今朝来たら私の机の中にそれが入ってたんよ」
 俺は言葉に詰まる。
「だから返事をして返した。『ごめん、ムリ』って」
 何を言っている?金谷の机に俺のノートがなんで?
 俺の混乱を他所にどこからともなく般若心経のようなものが聞こえてくる。
「俺はやってねぇ!この文章を書いたのは俺じゃねぇ!」
「ぶひぃーーっ!!」という声が聞こえる。
「何々?」と堂島が俺からノートを奪い、おぞましい言葉を読み上げる。

 そこに紡がれる愛の言葉に、クラス一同戦慄。

「やめろ!」俺は堂島からノートを奪い返す。
「いや、松山、これはヤバいって、これはない、『ごめん、ムリ』も仕方ない」
「だから俺じゃねぇって言ってんだろ!!」
 再度「ぶひぃーーっ!!」が聞えてくる。なんなんだあの豚は!
「いやいや松山それは無理があるだろ」堂島はなおも引かない。
「俺はこんな気持ちの悪い文章書かねぇ!」
 当たり前だ。「美奈たん」なんて気持ち悪い呼び方、誰がするか。誰かが仕組んだ罠なんだ、気付けよ堂島。
「でもよー」堂島はノートに書かれた文字に目を通してから、すっと視線を上げ、俺の目を見て、言った。
「これ、お前の字じゃん?」

 あぁ、だからありえないんだよ。
 確かにそれは、俺の筆跡だった。
 そして、それは確かに、俺に向けられた悪意だったんだ。

  *

「おはようございまーす!」
 良く通った声が教室の空気を少しばかり和らげた。3年2組のクラス担任、東雲由紀乃(しののめゆきの)である。東雲は元気よく教室に入ってきたが、教室の雰囲気が少しぴりついていることに気付いたのか、教室中を見渡し、状況把握に努めている。
「松山くん、何かあったの?」
 返答に困った。誰かがいたずらを仕掛けたことを正直に話そうとも思った。別に東雲を信用しているからという訳ではない。教師に伝えることで事態を大事にし、犯人を心理的に追い詰めるためである。しかし同時に迷った。この気持ちの悪い文章が公になることを恐れたのだ。
 俺が何も答えようとしないのを見て、堂島が口を開いた。
「いやね、東雲先生、朝、学校に来たら金谷の机の中に何故か松山の現文のノートが入ってたんよ。」
「金谷さんの机の中に?」
「そう、でね、なんとそのノートには松山から金谷への……」
「堂島ちょっと黙れ!!」

 自分で思った以上に、大きな声が出た。大きな声を出すのは得意だった。大きな声を出すだけでスクールカーストの上位に立てる。
 しかし気付いた。今のは、駄目だ。
クラス中が再びぴりついた。「なんだよ」と堂島がこぼす。
「松山くん、どうしたの?何かあったの?」東雲は本当に心配してくれているのだろう、しかし、今はその優しさがうるさい。
「なんでもねぇよ」
「その、ライトブルーの……」
「なんでもねぇって言ってんだろ!」
 目線を合わせず自分の椅子に座り、ノートを机の中に隠した。
 俺が何も話す気がないことを感じ取ったのか、東雲はそれ以上詮索しようとはしなかった。東雲は「話したくなったら、話してね」と言い残し、朝のショートホームルームを始めた。
 自身の選択が正しかったのか、分らない。本当は東雲に打ち明けるべきだったんじゃないか。どうしたら正解なのか、分からない。初めて自分に向けられた悪意に対し、どのように応じたらいいのかまるで答えを出すことができなかった。そして、この後自分がどういう状況に立たされるのかも、まるで考えが及ばなかった。

 ショートホームルームが終わり、クラスは授業の準備を始める。いつもなら、馬鹿友達の堂島や浅井とくだらないことをだべって時間を潰すのだが、今はそんな気分になれなかった。時間が欲しかった、状況を整理する時間が。しかし馬鹿友達はそんなことお構いなしでやってくる。
「松山~お前、まじ?金谷のこと好きだったの?俺てっきり2年の早瀬さんを狙ってるもんだと思ったわ」
「俺も俺も!何回か覗きに行こうって誘って来たけど、あれはブラフだったのか。虎視眈々と金谷を口説く文言を考えてたんだなぁ、でも、あの文章はマジで引いたわ」
「え?まじで松山、あれ書いたん?『愛しの美奈たん』て?」
「うるせぇな、なわけねぇだろ」
 俺のいらつきを気にする素振りもなく、浅井と堂島はいつものバカみたいなテンションではしゃいでいる。
「いやでもあの字は松山でしょ?」
「なぁ俺にも見せろよ!」そう言いながら浅井が例のノートを取ろうとする。
 なんなんだ、こいつらは。友達じゃねぇのかよ。
 誰かが俺を嵌めたんだってなんで気付かない。なんでそんなに人の不幸を見て嬉しそうにすることができるんだ。
「なぁ、見せろって」
 浅井の手が、俺のノートに触れる。

 気が付けば、浅井を思いっきり突き飛ばしていた。浅井は床に尻を打ち、「え?え?」と驚きを口にしている。隣で堂島も「え?あ、え?」と似たような反応。
 そんな間抜けな二人を見て、俺は納得する。
 そうだ、俺たちはこうやって生きてきたんだ。なんでもかんでも馬鹿言って、笑い話にして。人の不幸は格好の笑いの種だった。そして今は、笑われる対象が俺になっただけ。
 俺が本当にやったかどうかは関係ない。面白いか、面白くないか、この場合、「松山智成があの文章を書いていたら面白い」それだけ。
 ただ、それだけなんだ。

「いてぇな松山何すんだよ!」浅井が起き上がり俺の胸ぐらを掴む。
「お前さ、八つ当たりすんなよ」堂島も俺を睨む。
 俺達が大好きだった構造。複数で一人を攻撃する。今はその一人が俺になっただけ。なんだよ、こんだけクラスに人間がいるのに、一人になるってこんなにたやすいことだったのか?

 あぁ、壊れる。壊れる。コワレル。

 物理の田中が教室に入ってきたのを見て、浅井と堂島は自分の席に戻っていった。田中はその様子を特に気にすることなく授業を始めた。


  *

 授業が終わっても、浅井と堂島が俺に話しかけることはなかった。その代わり、「美奈たんはやべぇ」「頭がいかれてる」「中途半端なライトブルー」等、俺を嗤う声に男子の声が加わった。その中には、浅井と堂島の声も混じっている。明らかに、俺に聞こえるよう囁かれる陰口に、自身の地位が蝕まれつつあることを感じ取っていた。声を荒げて怒鳴り、当座のさざ波を鎮めることはできる。しかしそれは、根本的解決には至らない。
 俺は無力だった。
 自分に向けられた素性の知れない悪意に対し、悲しい程に無力だった。
 この世に強い人間と弱い人間がいるというのなら、俺は弱い人間のうちに数えられるだろう。
 今まで散々周りを嗤って来た俺は、敏感に感じ取る。
 周りの目に映る自分はどこまでもどこまでも惨めだと。

 お前も、こんな気持ちだったのか?椚田。
 今お前は、心底喜んでいるだろうな。
 毎日毎日しつこく絡んでくる俺が、これ程までに窮地に立たされている。
 なぁ今、どんな顔をしているんだ?

 俺は椚田の表情を伺う。
 椚田はただまっすぐに俺を見つめ、その両目からは恐ろしい程の涙がこぼれ落ちていた。
 まさかの号泣。
 え?なんで?なんでこいつはさっきから泣いているんだ?
 え?なんで急に般若心経を唱えだすんだ。おい。やめろやめろ。
 俺は一体今まで何を相手にしてきたんだ。こいつは一体何者なんだ。

「お―い!松山智成たーん!」
 隣のクラスの男子が、俺を呼んでいる。
 古畑亮真、金谷美奈の彼氏だ。わりと仲が良い方だったけど、古畑が金谷と付き合うようになってからは絡みがなくなった。用件は、まぁ、あのことだろう。
「俺はやってねぇぞ」
「うんうん信じる信じる、え?そのライトブルーは何?」
「うるせぇライトブルーはどうだっていいだろ」
「あぁ、まぁ、いいか。なぁ、松山、例のノート見せてくれよ」
 「信じる」という言葉に心を開いてしまったのか、特に警戒することもなく例のノートを古畑に見せる。
「筆跡は俺のに似てるけど、俺が書いたんじゃねぇ」
「うんうん分かってる分かってる」
 そう言い古畑は俺の手からノートを奪い取ると、

「ぷははっ!まじで書いてある!金谷美奈たん!『君は月で、俺は太陽』って、やべぇ!まじか!えーーー!」
 全身が熱を帯びるのを感じた。
「俺が書いたわけじゃねぇからな!」
 しかし古畑は話を聞いているのかしばらく笑い続けた後、俺の目を見て言った。
「ごめん、松山」
「は?」
「美奈たんは、俺の彼女なんだ」
 クラス中で笑いが巻き起こる。「ぶひぃーーっ!!」という鳴き声も混ざる。
「ごめんな智成たーん!」再度笑いの嵐が吹き荒れる。
 理性が壊れる音がした。
 俺は思いっきり古畑を殴りつけた。
 今日何度目かの静寂。またしても自分がやらかしてしまったことに気付く。
 思いっきり顔を殴られ、床に尻もちをついた古畑はしばらく驚いた顔で俺を見上げていたが、おもむろにその顔に笑顔を浮かべた。
「だからごめんて、キレんなよ、智成たん」
 その言葉は、一瞬にしてこの教室から俺の居場所を奪い去った。
 周りは敵、敵、敵

 それは、まるで本能という獣に突き動かされているような感覚だった。
 命の危険から身を守るように、
 俺は教室から飛び出した。

「おーいどこに行くんだー?」
 後ろから浅井の呼ぶ声が聞こえる。

 どこに行く?
 さぁ、どこに行けば、この悪夢は終わるんだ?

   *

 こういう展開になることは、正直想定していなかった。
「待てぇ松山ぁー!」
「落ち着け松山ぁ!そのライトブルー、ふざけてんのかぁ!」
 数学の柳沢と1年の授業を教えている教師が走って追いかけてくる。よく漫画とかだったら教室を飛び出した生徒はすんなりと一人になれたりするものなのだが、現実はそんなに甘くなかった。俺は全力で特別教室棟2階の廊下を走っていた。生徒が教室から飛び出した際のマニュアルは既に確立されてあるのか、教師どもはその職責を果たすべく俺のあとを追ってくる。どこに行くべきか特に考えもなく教室を飛び出したが、いよいよ無策ではいられない。とりあえず校門から出てしまえば幾分楽になると思われる。廊下の端まで走り、一階に降りようとする。しかし階下では2年の男性教師が行く手を塞いでいた。
「どこに行くつもりだぁ!松山ぁ!そのライトブルーの前髪はなんだぁ!」両手を大きく掲げ、階下の教師が叫びながら階段を上がってくる。
 後ろから数学の柳沢と1年教師が迫ってきている。舌打ちをして、俺は階段を上がり、3階へと向かった。階段を上がるのは体力を使うがそれは相手も同じ、校門までは遠くなるが一気に距離を離せるかもしれない。
 息を荒くしながら廊下を走る。廊下の反対側まで行くとそちらにも階段がある。そこから階下に降りられるが、またもや待ち伏せをくらう可能性もある。一方、渡り廊下を通って一般教室棟に抜けることもできる。一般教室棟3階には3年生の教室が並んでいるが、今は授業中だ、姿を見られることはないだろう。俺は意を決して一般教室棟へ走った。一般教室棟に入りすぐに階段を降りればクラスの前を通らずに済む。そのまま階段を降りようと足を踏み出したところ、
「松山君、君がここに来ることは読んでいたよ」と2年生の学年主任が階下から姿を現した。
「どうしたんだい、松山君、一度落ち着きなさい」そう言い、2年生の学年主任が両手を広げ階段を上ってくる。後方からは数学の柳沢、1年教師と2年教師の姿が見えない。恐らくまたどこかで待ち伏せしているのだろう。いや教師多すぎだろ!授業しろよ!と内心毒づきながら一般教室棟の廊下を走りだす。当然クラスの前を通ることになり、好奇の目に晒されながら俺は廊下を駆けた。
「松山君!どうしたの!?」
 クラス担任である東雲が前方の教室、3年5組から飛び出してきた。一瞬躊躇したが、相手は女だ、強行突破が可能だと判断し、そのまま東雲を突き飛ばした。そのまま俺は一気に1階まで下りた。1階まで下りると、廊下の奥から先回りしていた2年学年主任が「松山君、どうして逃げるんだぁ」と叫びながら走り寄ってきていた。
 どうして逃げる?さぁ、そんなこと知らない。このまま大人しく捕まって、今朝あったことをそのまま言えば楽になるのかもしれない。でも、誰が信じるよ?親友だと思っていた奴らにも裏切られ、教室には敵しかいない。ましてや教師が俺を信じる?あり得ねぇだろ。
「うるせぇ!もう俺に構うんじゃねぇ!一人になりたいのが分かんねぇのかよ!」そう叫ぶや俺は非常口の扉のドアノブに手をかけ校舎を飛び出した。
  *

 保健室のカーテンで守られたベッドの上で、俺は息を殺していた。養護教諭が扉の前で数学の柳沢と話をしている。
「白石先生、保健室に、松山は来ていませんか?」
「松山さんですか?見ていませんが、何かあったのですか?」
「いえね、私も、詳しくは、事情を、知らないのですが、教室を、飛び出しまして」
ずっと俺との鬼ごっこを続けていた柳沢はすっかり息が上がっていた。
「こっちの方に、来たと、思ったのですが…」
「あぁ、誰かが廊下の前を走っていく足音が聞えたのですが、あれは松山さんだったんですね」
「なるほど、ありがとうございます、では失礼しました。」そう言い、柳沢は去っていった。
 しばしの沈黙の後、カーテンが開かれる音が聞こえる。
「柳沢先生はもう行ったよ、どうしたの、松山さん?」
 その言葉を聞いて、俺は殺していた息を吐きだす。それから大量に息を吸って酸素を肺に送る。しばらく呼吸を整えるのに時間がかかった。息切れをしているのは、俺も一緒だ。非常口から校舎の外へ出たは良いものの、校門には既に他の教師が待ち伏せており、門も閉められていた。恐らく生徒脱走時のマニュアルがあるのだろうが、まさかこれ程までの人海戦術が行われようとは。校門からの脱出を断念した俺は、身を隠すところを探すべく学校中を走り回った。そうして体力が尽きて諦めかけた時、たまたま保健室の前を通った俺を眼前の養護教諭が呼び止めた。
「なんで、匿ってくれたんすか?」俺は率直な疑問を養護教諭に投げかけた。
「はは、なんでだろうね、教師失格かな?」養護教諭はにこりと笑みを浮かべる。
「めちゃくちゃ嘘ついてましたね」
「嘘ついちゃったね、胸が痛いよ」そう言い、また笑う。全然、悪びれる様子が見えない。一体この教師は何を考えているんだ、敵か、味方か、判別がつけられずにいる俺に、今度は養護教諭が質問を投げかける。
「ところで松山さん、どうして先生たちから逃げていたんだい?」
「別に…ちょっと、居心地が悪くなって、」
「何かあったのかな?話せる範囲でいいから、教えてくれないかな?」
 しばし考える。この教師は信用に足るのか。少なくとも、現状俺を捕まえてどうこうしようというのは考えてなさそうだ。それに、普段関わりがない養護教諭だからこそ、先入観なしで俺の話を聞いてくれるかもしれない。その思いが俺に勇気を与え、俺は、訥々と、今朝の出来事を語り始めた。
 養護教諭は静かに、俺の話を聞いていた。
 静かに、ただ静かに。
 今朝の出来事を思い出し、言葉を紡ぎだすうちに、怒りの気持ちが湧いてくるのを感じた。その気持ちに気付いたら最後、とどめようもなく、一気に溢れ出した。
 教室に入った時の、女子グループの笑い声。
 身の毛のよだつ、誰が書いたのか分からない恋文。
 親友だと思っていた奴らの手の平返し。
 クラス全体からの蔑視。嘲り、嗤い。
 そして、孤独。
「これは罠なんすよ!誰のかは分かんないすけど、俺を貶めるために誰かが仕込んだ罠なんすよ!それなのに!クラスの馬鹿どもは、簡単にそいつに騙されやがって!浅井も堂島も!友達の癖に、その手紙を、俺が書いたと本気で思ってやがるんすよ!誰も!誰一人!俺の言葉を信じやしねぇ!」
 拳が強く握られていた。
 どうしてこうなったのか分からない。
 昨日までは普通に馬鹿して笑いあって過ごしていた。
 それが、誰が仕込んだのか分からないたった一冊のノートによってすべて奪われてしまった。自分の地位も、居場所も。
 どうしたらよかったのか分からない。
 金谷美奈が例のノートを俺に渡した時、女子達が嗤いを浴びせる中、なんて言葉を返したらよかった?
 堂島敦がノートを朗読し始めた時、どうしたら良かった?
 しきりに問われるライトブルーの前髪に対して、どう答えたら良かった?
 クラス中の好奇の目に晒される中、俺に何ができたんだ?
 明らかな悪意を向けられた時、人は、どうするのが正解なんだ?


 ぽん、と頭の上に手が置かれる。
 養護教諭の手が俺の頭の上に置かれ、その掌から、熱が伝わってくる。
「それは、びっくりしただろうね」
 養護教諭が優しい声音で、俺の頭をなでる。
「どうしたらいいのか、わかんないよね」
 俺の膝の上で、握りこぶしが震える。
「苦しかったよね」
 身体中が、熱を帯びる。
「話してくれて、ありがとう」

  *
「少しは、気持ちも落ち着いたかな?」
 俺の気持ちが落ち着くまで、養護教諭は静かに待ってくれていた。
「はい、その、すみません、取り乱して」
「誰かに話をすると、気持ちの整理ができていいでしょ?」
 そういって、養護教諭は笑う。
 その笑顔に、しばし返答に困る。
「先生は、信じてくれるんですか?俺の話」
「もちろん、信じるよ」
「・・・どうして、すか?」
「逆に疑う理由がどこにある?」
 また全身が熱くなって、俺は、何も言えなくなる。なんでそんなことを、さらっと言えるんだ、この人は。
「ところで松山さん」
「なん、ですか」
「松山さんは、これから、どうしたい?」

 どうしたい?
 どうしたらいいんだ?
 それが分からなくて俺は、教室を飛び出したんじゃないか。
「わかりません、こんなことはじめてで、どうしたらいいのか、わからないんです」
 正直に俺は言葉を返した。しかし養護教諭は、俺の返答に満足しなかった。
「どうしたらいいのか、ではなくて、どうしたいの?どうなりたいの?」
 この教師は、俺の気持ちを知りたがった。
 どうしたい?
 どうなりたい?
 戻りたい、昨日までに
 その上で変わりたい、もう少しましな自分に
 震える唇で言葉を紡ぎだす。
「俺の、無実を、証明したいです」
 俺がやってないことさえ証明できれば、まだ、やり直せるはずだ。

  *
「面白そうな話をしてますね!」
 ふいにどこからか声が聞えた、隣のベッドのカーテンが勢いよく開け放たれ、金髪女子が一人、姿を現した。
「涼香ちゃん!いつからここに!?」俺よりも先に養護教諭が驚いた声を上げる。
 俺はただ混乱して、突然現れた女子生徒をぽかんと見つめる。それは、2年生にして学校一の可愛さを有する早瀬涼香という女子生徒であった。金谷美奈と比べ、月とすっぽんレベルに可愛い。そんな早瀬涼香が何故こんな所に!?なんだこれ、なんだこれ。
「やだなぁ先輩、そんな熱い視線を送んないでくださいよ、やらしいなぁ」
 な、なにを言っているんだ!この金髪女は!
「え?先輩、その中途半端なライトブルーの前髪、罰ゲームか何かですか?」
 なにを言っているんだこの金髪女は!!
 未だに信じられない。学校中のアイドルにして、絶対に射止めると腹に決めていた相手がこんな所にいるだなんて。俺はライトブルーを隠すように前髪をいじる。
「涼香ちゃん、ここで何をしているのかな?授業は?」
 養護教諭が怒ったような顔で闖入者を問いただす。
「えーと、あれです。生理痛です。」生理痛がどういうものかまだよく知らない俺でも嘘だと分かった。
「そうだとして、どうして無断でベッドを利用しているのかな?いつからいたの?」
「ベッドは使用していません、ベッドの下に隠れていたんです」
 未だに信じられない、誰もが羨む早瀬涼香がこんな変態だったなんて。俺の中で早瀬涼香という女の株価が暴落した瞬間だった。
 養護教諭が眉間に手のひらを当てため息を漏らす。
「あのね、涼香ちゃん。保健室では生徒の個人的な悩みを聞くこともよくあるから、そうやって勝手に入られると困るんだよ」そう言って養護教諭は俺にごめんね、と謝る。俺も養護教諭と二人だけだと思っていたので、何も言えない。ただ、俺の今朝の話を黙って盗み聞きされたと思うと、恥ずかしいという思いと怒りの気持ちとが湧き上がってきた。早瀬涼香は「ごめんなさい」と平謝りをする。絶対反省してない。
「それで先輩、無実を証明すると仰いましたが、昨日の放課後は一体何をしていたんです?」
「昨日の、放課後?」
「そうですよ、アリバイです。アリバイを証明できないと、無実は証明できませんよ?」
「な、なんでそんなこと言わなきゃなんねぇんだよ」
「無実、証明したいんじゃないんですか?」
「っ!」
 なんなんだこいつ、なんでこんな急に人の話に首を突っ込んでくるんだ。

「涼香ちゃん、人の話に勝手に入ってきてはいけないよ。ほら元気なら授業に戻る」
養護教諭の助太刀が入った。そうだ出ていけ。勝手に人の話に首を突っ込むんじゃねぇ。
 闖入女はしばらく頬を膨らませていたが、どうやら諦めたのか、「わかりました」と言ってベッドから立ち上がった。大人しくそのまま保健室から出ていくと思われたが、おもむろに振り返ってにやりと笑った。
「先輩はアリバイを証明できないんですね?それではそのように、皆に伝えておきます」
「なっ!」
「それでは失礼します」
「ちょっ!ちょっと待て!」
ニヤニヤ女は意地の悪い目で俺を見る。
「ん?何か?」
「アリバイは、証明できる、だから…」言葉に詰まる。
「だから?」性悪女は目を細くする。
「だから、変な噂を流すのは止めろ」
 細目女はただでさえニヤニヤしているくせに、更に口角をあげて笑った。
「それは、アリバイを聞いてから考えます。」
 再度、養護教諭がため息を漏らす。

  *
 昨日の現代文の授業の時、俺はあのノートを使ってメモを取っていた。現代文の授業は4時間目だったから、少なくとも4時間目の終わりまで、あのノートは俺の手元にあったことになる。4時間目が終わった後、俺は浅井と堂島と一緒に椚田の席へ向かい、購買部へ俺たちの分のパンを買いに行くよう要求した。椚田はそれを断固として拒否し、俺たちも何とかして椚田をパシらせようと大きな声を出して威嚇する。どちらも引かぬ不毛な時間が流れた末、5時間目の授業が始まる予鈴が鳴り、「ああぁー!椚田のせいでごはん食う時間なくなったしー!」「ほんと最悪。まじふざけんなよなぁー!」と文句をたらして自分の席に戻った。5時間目の授業中、終始腹が鳴っていた。我ながらほんと馬鹿だなぁと思った。
 5時間目が終わった後、再度椚田を囲み、「お前のせいで授業中ずっと腹鳴りっぱなしやないか!」「おらさっさとパン買って来いやぁ!」と叫び続けた。俺たちは救いようのない程馬鹿だった。
 6時間目終了後、椚田は鞄からパンを取り出し、むしゃむしゃと食べ始めた。その光景を見た俺たちはたまらず椚田を囲んで「お前何一人だけパン食ってんだよ!」「おらそのパンよこせ!」とパン争奪戦をおっぱじめた。パンを奪われた椚田は一言、「それ、立派な窃盗だぞ?停学になるけどいいのか?」と脅迫。俺たちはおとなしくパンを椚田に返した。パン争奪戦はあっけなく終了した。このままでは面目が保てないと「お前そうやってすぐ先公にチクろうとするよなぁ?」「まじだせぇ!」とパンを食べ続ける椚田に罵声を浴びせた。そうこうしているうちに7時間目が始まった。

「松山先輩って噂では聞いていましたが、想像異常に馬鹿なんですね」
金髪女が軽蔑しきった顔で俺を見る。後輩女子に馬鹿と言われることに苛立ちを覚えなかった訳ではないが、本当のことなので返す言葉が見つからない。
「それにほんとクズですね。椚田先輩可哀そう、こんな馬鹿でクズに絡まれて、その時間、本当に不毛です。」
「お、俺は、先輩だぞ?」駄目だ、その言葉は言ってはいけない、分かってはいたが、口から洩れてしまった。
生意気女は鼻で笑った。
「だから、敬語使ってあげてるじゃないですか?それ以上をお望みならそれを受けるに値する人間になってください」
 ポキンっと、俺の心が折れる音がした。助けを求めて養護教諭へ視線を向ける。
養護教諭はニコッと笑って一言。
「人は成長する生き物だよ」
 やはりこの人は天使か何かなのか。俺は誓った、これからは真っ当に生きると。

「成長するのは勝手ですが、しっかりと椚田先輩には謝罪してくださいね?」
 金髪女は目を細めてなおも俺を睨んでくる。
「先輩、この際だから聞きますが、椚田先輩以外にも迷惑をかけた人はいませんか?」
「なんで、今関係ないだろ」
「罪を告白するなら早い方がいいですよ、ほら、ここには天使がいますし」
 金髪女が養護教諭の方を向く。俺も養護教諭を見る。確かに、罪を告白するならここしかない。
「2年生の酉川、中学時代有名な不良だったらしく、調子に乗らせる訳にはいかんと、そいつが入学した時校舎裏に呼び出してカツアゲした」
「は?何言ってるんですか?何やってるんですか?酉川くんは」
「あぁ、俺の勘違いだった。不良で有名だったのは西川という男だった。」
 当の西川は想像以上にごつくて俺はビビッてしまった。
「最低です!ひどすぎます!酉川くんは頼まれたらノーと言えないお人好しの男の子ですよ!高校に入ってまで嘗められたくないとお年玉をつぎ込んでまで美容院に通ったのに…」
「本当に悪かったと思っている」
「謝ったんですか?」
「いや…」
「クズです!」金髪女が吐き捨てる。
「謝れば全ていいという訳ではないかもしれないけれど、悪かったって思うことはとても大切なことだよ」と養護教諭が微笑む。俺はもう顔が上げられない。
「他には?白状するなら今ですよ?」
「1年生の泉川、同じサッカー部の後輩だったんだけど、とろくさいという理由でパシらせてた」
「あなたは弱いものいじめしかできないんですか?ただただ軽蔑します」
「本当に、悪かったと思っている」
「悪かったと思う癖に椚田先輩にはするんですね」
「いや、悪かったと思うようになったのは、今日からの話で…」
 金髪女は刺すような目で俺を見る。
「他は?」
「さ、流石にそれくらいだ」俺は精一杯記憶を探る。
「本当に?先輩、人の痛みに鈍感だからどうせ無意識に迷惑かけ倒してるんでしょ?」金髪女は自分のことを棚上げして辛辣な言葉を吐き続ける。
「基本的に俺は高校入学以降ずっと椚田に絡んでいたからな。1年の時からずっと同じ組だ」
「椚田先輩、ほんとお気の毒です。3年間もこんなのに付き合うだなんて、絶対に謝罪してくださいね、これは松山先輩のためでもあるんです。大人になって、罪の意識に苛まれたくないでしょう?」
 金髪女の言っていることはもっともだ。しかるべき謝罪を経てこそ俺は真に胸を張って生きることができる。
 しかし、しかしやはり椚田に謝罪するということは、どうにも俺のプライドが許そうとしない。プライドがどうのこうのと言っていい立場ではないことぐらい、分かっているのだが、どうしても煮え切らない。
そんな俺の葛藤も知らずに金髪女は「えー?っていうかこんなクズに何年絡まれても屈さず堂々としているなんて椚田先輩めちゃくちゃかっこいいじゃないですか、今度紹介してくださいよ」なんて呑気なことを言っている。金髪後輩と椚田が手をつないで歩く姿を想像する。絶対に許せない。
「やめとけ、あんな豚」
「いいですよ、豚でも、豚で凛としているだなんて、なおさら惚れます。『紅の豚』じゃないですか。ちなみにサイズはどれくらいです?」
「いや、太ってはいないんだけど」
「太ってないんですか?じゃあ何が豚なんですか?」
「あいつ、時々『ぶひぃーーっ!!』て言うぞ」
「え?『ぶひぃーーっ!!』て言うんですか?」
「『ぶひぃーーっ!!』て言う。」
「『ぶひぃーーっ!!』て言うんですね、え?それはどんな時に『ぶひぃーーっ!!』て言うんですか?」
「俺も詳しくは知らないけれど、今日だけでも3回は聞いた」
 今日以前に「ぶひぃーーっ!!」を聞いたことはなかったが、得体の知れない「ぶひぃーーっ!!」に金髪女は少し残念そうな顔をした。何を守ったのか、小生意気な後輩の人生か、それともちっぽけな自身のプライドか、定かではないが、俺は小さな安堵を覚えていた。どうやら人は簡単には変われないらしい。

「まぁ、松山先輩がクズだって話はどうだっていいんです。それで?7時間目以降は何してたんですか?」
 椚田への幻想を砕かれた夢想女はすぐさま話を元の路線に戻す。俺がクズだって話で勝手に盛り上がったのは他でもなくこいつなのに。

 俺は再度、昨日のことについて記憶をたどる。
「7時間目が終わればすぐにホームルームだ。俺たちは昼食を食い損ねたからな、早々に学校を出て駅前のマックに向かったんだ。そこでハンバーガーを食べて解散。電車乗って家帰っておしまいだ」家に帰って前髪左半分をライトブルーに染めたことはこの際関係ないだろうから黙っておこう。
「つまり、浅井先輩と堂島先輩がアリバイの証人ということですね?マックには何時までいました?」
「何?探偵ごっこ?」
 探偵女は一瞬目をきょとんとさせたが、次第にその顔は怒りに満たされていった。
「誰のためだと思っているんですか!先輩がしょうもない奴にはめられたってピーピー泣いて身の潔白を証明したいと喚き散らかすから話を聞いてあげてるんじゃないですか!なんですか、その減らず口!それが人にものを頼む態度ですか!むしろ先輩こそ私に敬語を使ってください!その中途半端なライトブルー燃やしますよ!」
 なにがこのヒステリー女の気分を害したのか分からないが、俺は口をパクパクさせながら嵐が過ぎるのを待つことにした。
「涼香ちゃん落ち着いて、人にものを頼む態度もなにも、涼香ちゃんから勝手に話に入ってきたんだよ?」養護教諭が宥めにかかる。菩薩か何かか?
「それは、まぁ、そうなんですが」ヒステリー女が急にしおらしくなる。危うく可愛いと思いかけたがおもむろに「てへっ」と舌をちょろだしにする。
 こ、こいつぅ!

「それで?マックを出た時間は何時何分何十秒地球が何周回った時なんですか?」
 小学生かよ、とツッコミそうになったが、また怒られると怖いのでぐっとこらえる。
「授業が終わったのが16時半、そこからすぐ終礼、10分くらいか。そこから駅まで10分、ハンバーガー食べながら少しだべって17時40分くらいにはマックを出たな。」
「それからその場で解散ですか?誰か一緒に電車に乗りませんでしたか?」
「浅井も堂島も電車使わねぇからな、その場で解散したが?」なんでそんなことを気にするんだこの女は。
「先輩」
 金髪女はどこか困ったような顔をして、俺を見る。
「昨日の最終下校時刻は18時半です。17時40分にマックを出て、学校まで10分」
「あっ!」
「先輩のアリバイ、成立しませんよ?」

  *

「違う!俺はやってない!そのまま電車に乗って帰ったんだ!駅員に確認してみよう!その時間帯に俺が改札を通ったことを覚えてるかもしれない」
「まぁ、行かないよりはマシかもしれませんね、そのライトブルーはインパクトがありますし」
「いや、この前髪は昨日染めたんだ」
「どうしてそれを早く言わないんです?いつです?時間帯によっては美容師さんが証人になってくれますよ?」
「家に帰ってすぐだよ。18時50分くらいかな」
「それ、アリバイになりませんし、え?てことは、自分で染めたんですか?」
 俺は黙って首肯する。
 金髪女は「あぁ~」と何か納得したような顔をする。ふざけやがって。
「松山さん、涼香ちゃんもだけど、皆がどういう格好をしようとそれは皆の自由だよ?でもね、その見た目は周りの人にとって私たちがどういう人間か判断する材料になるってことも覚えておいて。そしてそれだけじゃなく、二人は制服を着ているんだから、この学校がどういう学校かというイメージにも繋がるってこともあわせて覚えておいてほしい。一人の服装が、学校全体のイメージに、それはその学校に通う一人一人のイメージに繋がるんだよ。私たちにそのつもりがなくてもね」
 やめて先生、ライトブルーは今日っきりにするから、そんなド正論な生徒指導はもうやめて。
「先輩のライトブルーを見たら、この学校の生徒は馬鹿だって思われますね」
お前!先生が親切にもオブラートに包んだ内容をこの女!お前も金髪の癖に!言い返してやりたいことは沢山あるが、さっきみたいに怒られるのも嫌なので歯をギリギリ鳴らして我慢する。そんな俺を見てヒステリー女はふふんと鼻を鳴らして満足そうな顔をする。
「そんなことよりも先輩、いいですか?このままだと先輩のアリバイは成立しません。無実を証明することは、できません」
 金髪女の目は俺の目をじっと捉える。

 そんなこと言われたって、じゃあ、どうすればいいんだよ。
 結局現状は変えられないのか。スクールカーストの最下層に落ちて、クラス中から嗤われる日々は変えられないのか。一度張られた不名誉なレッテルは、取り外すことはできないのか。それじゃあもう、俺は……
 いや、違う。
 どうすればいい?簡単なことだ。
 犯人を見つけてしまえばいいんだ。

  *
 保健室には静寂が満ちていた。授業の終わりを告げるチャイムが鳴るやいなや、仮病女は養護教諭に追い出された。「そんなぁ!これからだってのにぃ~!」と人の不幸をどこか楽しんでるような生意気女が去った途端、保健室は再び居心地の良い空間となった。養護教諭はしばらく俺との話に付き合った後、「犯人探しとなると、私は協力できないな。教室に居づらいならここにいていいから、何か力になれることがあったら言ってね」と天使のような言葉を言い残し、デスクワークに移った。
 犯人が分かれば無実を証明できる。いやいやそんなことは百も承知だ、それが分からないから困っているんだろ。俺みたいな馬鹿に犯人を見つけられる訳がない。
 いや、本当に犯人を見つけることは不可能なのか?俺が混乱しっぱなしだから分からないだけではないのか?せっかく静かになったことだし、今回の事件を整理してみようと思う。

・昨日の現代文の授業(4時間目)の段階では例のノートは俺が所有していた。
・4時間目終了後から終礼まで、俺は教室を出ていない。
・今朝、例のノートは金谷美奈の机の中に入っていた。
・例のノートの後ろ側のページに金谷美奈への恋文が書かれている。
・筆跡は俺の筆跡のように思われた。(俺は書いてない)

 恐らく犯行時刻は放課後16時40分~最終下校時刻18時半の110分間。誰でも犯行可能なように思われる。後はクラス全員分、昨日のアリバイを聞き出せば犯人を絞り込むことができる。ぬか喜びしかけて、考えを改める。
 そもそも、犯人をクラス内の誰かと絞ることは妥当なのか?他クラスの奴の仕業ということも十分考えられるのでは?他学年は?ましてや犯人が教師だとしたら犯行可能時間はぐーんと伸びる。そしてそれらの情報を、どうやって集める?
 終わった。やっぱり俺に犯人を見つけることなんてできるわけがない。犯行可能時間が長すぎる。
 そこまで考えて、一つの疑問が脳裏に浮かぶ。
金髪女は昨日の放課後、俺が何をしていたのか聞いた。
どうしてあの金髪女は俺の昨日の様子ではなくて、昨日の「放課後」の様子について尋ねたんだ?いや、もっと言えば事件が昨日仕組まれたとどうして断定できたんだ?あいつは昨日4時間目に現代文の授業があったことも知らないだろうし、俺が教室から離れなかったことも知り得なかった。
 なんか、怪しいぞ、あの女。
 怪しいと思えば、妄想がどんどん膨らんでいく。
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