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ジンギスカン

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4、Are you suspecting me?

Are you suspecting me?

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 東雲由紀乃は誰もいなくなった職員室で一冊のノートを覗き込んでいた。誰かが松山の筆跡を真似て書いたという、偽りのラブレターが書き込まれた例のノートである。
 松山は既に犯人探しはどうでも良くなったと口にしたが、由紀乃はこの事件が有耶無耶になることを良しとしなかった。別に犯人を炙り出して懲らしめてやりたいというつもりはないが、ただこのまま「被害者がもういいと言っているのだから今回の事件は解決」とすることは、違うと思った。
 当然由紀乃は、「学校では犯人探しをしない」という指導方針を知らない訳ではない。犯人探しは生徒と教師、また生徒同士の信頼関係を損なう恐れがあり、下手をすれば生徒の人権を侵害しかねない。今朝の朝礼で全体の注意喚起はした。松山へのメンタルケアもした。由紀乃は既にやるべきことを十分に行ったと教員の常識では言うことができる。
 ——これ以上は蛇足である。
 ——これ以上踏み込んではいけない。
 ——被害者は犯人を赦している。
 ——ここで終われば全てハッピーエンドではないか。
 ——何故無意味に傷口を抉る?
 ——何故自ら平穏を脅かす?
 ——お前がすることは周りに迷惑をかけるだけだと分からないのか?
 ——それが教育者のすることなのか?

 幾つもの警鐘が由紀乃の脳内で鳴り響く。
 自分が現代の常識から外れたことをしようとしていることは、分かっている。
 しかし、由紀乃の頭には松山とは別の、もう一人の生徒の姿が浮かんでいた。

 椚田司。

 自分の弱さから、傷つくままに任せてしまった生徒。
 彼が負って来た傷を無視して、ハッピーエンドだと本当に言えるのか?
 時代がそう言うからという理由で、傷つき傷つけることを恐れて、目の前の生徒から目を背ける、それが自分の理想の教師像なのか?

 ——自身の正義を妄信することは危険だ。
 ——社会の正義を受け入れよ。
 ——そうすれば、好くなくとも責任は社会が負ってくれる。
 ——可愛い己が身と心が傷つく必要はどこにもない。
 
 それ故由紀乃は愚かな選択をした。
 全ての責任は自分で負う。
 己の教師という無意味なプライドを守るため、椚田司の犯行を明らかにする。
 心を歪ませたままの椚田司を見捨てないために。
 求められてもいない救いの手を差し伸べるために。

 プライバシーは絶対に守ると約束し、松山の承諾を得た由紀乃は例のノートを譲り受けた。とはいえ、彼が明日も学校に来るかは分からないが、彼にも授業があるのでそう長くは借りられない。これが公になっただけでも大問題だろう。管理は徹底しなければならない。
 このノートを由紀乃に手渡す際、松山はこう言った。


 さっき、椚田を疑った俺はどうしようもないクズだって言ったよな。ほんとにそう思うよ、それに、あいつにはアリバイがあった。
  分かってるよ、自分がどうしようもなくだせぇって。でもよ、改めてあいつと言葉を交わして、やっぱり分かっちまうんだよな、
 多分。
 いや、絶対。
 根拠なんてねぇけど、
 この罠を仕掛けた犯人は、あいつだって。
 別に、今さらだからどうしようとは思わねぇけどよ。

 
 椚田司、事件前日の放課後、教室にいた生徒。
 にもかかわらず、自分にはアリバイがあると、松山に嘘の供述をした生徒。
 なにより、最も妥当な動機を持つ生徒。
 椚田司が犯人で間違いない。
 しかし証拠がない。
 由紀乃は手元のノートを見る。
 松山の筆跡に似せて書かれた字、一見すると松山本人が書いたと錯覚してもおかしくない程に似ている。それでもやはり素人が似せて書いたからか、やはり本人の筆跡とはどこか違う。
 しかし問題はそこではない。
 これだけ筆跡を似せて書くには、それなりの時間を要しそうである。
 美術部顧問の瀬戸も、椚田が打ち上げに参加していたことを証明している。しかしトイレで10分程抜けたということも聞いている。おおよそのこの時間は物理の田中が椚田を教室で見かけた時間と一致している。
トイレに10分は長すぎないかと思われるが、忘れ物を取りに教室まで行ったのだとしたらこの時間も頷ける。むしろ早いくらいだ。何はともあれ10分であの文章を、しかも筆跡を似せながら書いたとは考えにくい。
 ましてやあのおぞましい内容である。一度冒頭に目を通した由紀乃は反射的にノートをバタンと閉じて机の端に遠ざけてしまった。あれは精錬された文章である。もはや兵器と言っても過言ではなかった。夢に出てきたらと思うと怖くて夜も眠れない。あのようなものを一朝一夕で書ける訳がない。
 確かに椚田司にはアリバイがある。
 由紀乃はうーんと頭を悩ませる。

「頑張ってるね、こんな遅くまで、残業代もでないのに」
 ふと、声をかけられる。養護教諭の白石である。
「いや、その、なんというか」
「松山さんの件?」机上に置かれたノートを目にし、白石が尋ねる。
「そうですけど、分かっちゃいますか?」
「終礼後、松山さんに家庭訪問するって教頭に許可とってたじゃん、松山さん、どんな感じだった?」
「やっぱり落ち込んでて、明日も学校に来るか分からないですけど、でも今回のことにも前向きに向き合おうとしているみたい」
「そう?力になってあげられたんだ」
白石はにこりと笑う。
「じゃあ今は、何に悩んでるの?」
 由紀乃は返答に困った。
 椚田司が犯人だと思うんだけれど、彼のアリバイが崩せない。
 正直に言っても大丈夫なのだろうか、他の教師にだったら適当にごまかしていただろう。
 しかし由紀乃は白石を尊敬していた。教師は「お友達先生」になってはいけない、毅然としていなければならないと初任の頃、先輩教師からよく言われたが、白石は生徒に寄り添うあまり、教師としてのタブーを平然と冒す危なっかしい教師であった。それでも白石は自分の中に確固としたものを持っており、そのためなのか、教師からは異端視される一方、生徒からは厚い信頼を勝ち取っていた。本当は由紀乃もこんな教師になりたいと思っていた。
 相談するなら、この人しかいないと由紀乃は思った。
「なるほどね、椚田さんが怪しいけれど、10分でこの文章を書いたとは到底思えないってことね」
「はい、それも筆跡を真似て、ですよ。彼が事件前日の放課後、教室にいたことは確かなんですけど」
 本当は犯人ではないのか?
 犯人は別にいるのか?
 いるのだとしたら、誰?
「椚田さんは教室で制汗スプレーを使用していたんだよね?」
「はい、そうです、田中先生が証人です」
「田中先生はどうしてそれを制汗スプレーだと判断したのかな?」
 由紀乃はきょとんとする。
「どうして?って、椚田くんが、それを自分に振りかけていたからじゃないですか?塗料とかだったら色で見分けがつきますよね」
「なるほどね、話は変わるんだけれど、由紀乃ちゃんは、椚田さんの犯行を暴いて、どうしたいの?」
 本当に話が変わって由紀乃は驚いたが、それでも自分の気持ちに整理をつけながら、懸命に答える。
「どうってわけじゃないけれど、話し合いたいんです。ちゃんと。これまでのこと、これからのこと、有耶無耶になんかしたくない」
「そう」白石はそう言って、しばらく何かを考えるように黙り込んだ。
 由紀乃は何かを考えている白石の顔を見ながら、心臓がどくどくと脈打つのを感じた。
——なんで今、そんなことを聞くんだろう、やっぱり私は、間違えているのかな。
「そのノート、貸してもらってもいいかな?」不意に白石が口を開いた。
「え、まぁ、見るだけなら」そう言って由紀乃は例の文章が書かれたページを開きながらノートを手渡した。
 白石はノートを受け取るや否や向きを変えて歩き出した。
「え!ちょっと!白石先生⁉どこ行くんですか⁉見るだけって言ったじゃないですか!」
 構わず白石はずんずん進み、電子レンジの前に立つと、その扉を開き、ノートを中に入れてつまみを回した。
 ブゥーンと電子レンジが起動音を鳴らす。バチバチっという不思議な音がする。
「何をしているんですか!」
 由紀乃は悲鳴にも似た声をあげる。
 慌てて白石を突き飛ばし、電子レンジからノートを取り出す。
 ほかほかである。
 ほかほかのノートを見て、由紀乃は絶句した。
「椚田さんのアリバイは、崩れたね」
 突き飛ばされた白石が、どこかにぶつけたのか腰をさすりながらそう言った。
 
  *
「失礼します」
どうして呼び出したんですかという目つきで、椚田は由紀乃をねめつける。
「急に呼び出してごめんね、椚田くん」椚田の敵意むき出しの視線を受け止めてなお、由紀乃は平然と応える。
 放課後の生徒指導室、由紀乃は椚田と一対一で向かい合う。
 ——大丈夫、私は椚田君と戦おうとしている訳じゃない、ただ、ちゃんと話をしたい、それだけなんだ。
「最近どう?何か困ってることはない?」できるだけ、椚田に寄り添う形で由紀乃はアプローチをかける。まずは信頼関係の形成からだ。何も自分から椚田の犯行を暴かなくても、椚田が自分を信用し、自発的に告白してくれたなら、それが一番いい。
「話って、なんですか?」そんな由紀乃の気持ちを意に介さず、ぶっきらぼうに椚田は切り込む。
 不愛想な椚田の態度に面食らったが、由紀乃はすぐに柔らかい笑みを浮かべた。
「私は、教師として至らない所ばかりだけどさ、できる限り皆の力になりたいんだよ。それで、もし椚田くんに悩みがあるなら、私も一緒に頭を抱えたいなって思ってさ」自分は味方だと、由紀乃は必死に訴える。
「悩みなんて、特にありません」しかし椚田は、取りつく島を与えない。
 由紀乃は絶句する。
 由紀乃は自分が目の前の生徒から全く信頼されていないことを思い知った。
「話って、それだけですか?」
「え?」
「では、もう帰りますね」
「まっ待って!」
 由紀乃は必死に椚田を引き留める。
 なんて冷淡な生徒なのだろう。
 教師に対して、なんの期待も抱いていない、冷え切った目。
 ——当たり前だ、私は今まで何一つ彼のためにしてやれなかった。そんな私が彼から何か期待を得られると期待する方がおこがましい。
 由紀乃は自身の弱さを、今までの愚かさを痛感していた。
「なんですか?」年下である生徒の、こちらを見下すような目つき。
 それでも、自身の弱さを知りながらも、立ち向かわなければならない時がある。
 小手先の技術は不要だ。
 由紀乃も核心に一歩踏み込む。
「松山くんについて、なんだけど」
 椚田が、由紀乃を見る。
 雰囲気が変わった。
「松山が、どうしたんですか?」
 由紀乃の本心を探るような目を、椚田が向ける。
「昨日の松山くんの事件、椚田くんはどう思う?」
 少しずつ、核心へと近づいていく。
「なんで僕に、そんなことを聞くんですか?僕には関係ないじゃないですか」
 椚田の警戒の色が強くなる。
 核心に近づくにつれ、由紀乃の口は重くなり、心は傷を負っていく。
 由紀乃の言葉は椚田を傷つけて、自身も傷を負う。それでも止まることはできない。
「間違ってたらごめんね、椚田くん、松山くんから何か、嫌がらせを受けてなかった?」
 しばらく椚田は口を紡ぐ。
 椚田が触れてほしくない部分に、由紀乃は今触れている。
 ごぽごぽと、血が、あるいは怒りが、椚田の心から噴き出してくる。
「知ってたんですか?」
 至極真っ当な非難の言葉。
「なんとなく、ただ、確証が持てなかったの」
 なんとも無様な言い訳である。
「そうですか」
 それは、今さら何をどうしたところで、過去はもう変えられないという、諦観のつぶやき。
「つまり、昨日の松山の事件は、松山に恨みを持つ、僕の仕業だって、先生は言いたいんですね?」
 あくまでも婉曲的な物言いをする由紀乃に対し、椚田は単刀直入に核心に触れた。

  *
「別に、疑っている訳ではないよ、ただ、椚田くんの話を聞く必要があると思ったんだ」
 東雲は詭弁を弄した。
 無理もない事である。
 疑っていることを、露骨に伝えてはならない。
 それは事態の大きさによってはお互いの人間関係を壊滅的にしてしまう。
 お前はそういうことをする奴だと思っていた、と認めてしまう行為。
 信じてないよと伝える行為。
 この場合、教師は絶対に、疑っている旨を生徒に伝えてはならない。
「絶対あいつがやったのに、あぁマジむかつくわぁ」と兄が愚痴をこぼすのを私はよく聞いていた。
 東雲に呼び出された時、私は「疑ってるのか?」と聞き返す作戦を実行することを決意した。東雲は真面目で賢明な良き教師である。そこらの馬鹿教師であれば「お前がやったんだろ!」と口にした瞬間PTAにチクって終わらせることができる。しかし東雲は真面目で賢明な良き教師である、一つ一つの言葉を丁寧に選ぶ。その結果、中途半端な追及しかできず、私の自白を招くには至らない。
 中途半端な正義しか振りかざせない、型にはめられた存在なんだから、大人しく黙っていれば良いのに。東雲は本当に良い教師であったが、私を敵に回したが故、今日、教師として終わりを迎える。
「僕の、何を聞く必要があるんですか?」
「松山くんの事件の前日、放課後、椚田君は何をしていたの?」
「やっぱり疑ってるんじゃないですか」
 東雲が歯痒そうに顔を歪ませる。
 東雲は松山のような馬鹿ではない。恐らく何らかの根拠をもって私を糾弾しようとしている。だけど、彼女が自身の推理を述べることはできない。
 それを述べるということは、疑っていることと同義であるから。
 正しいが故に、東雲は無力だった。
 言うなれば、松山以上に雑魚である。

    *
「別に、椚田くんを疑っている訳ではないんだよ、ただ、私もいろんな人から話を聞いて、確かめないといけないことがあるんだよ」
「確かめないといけないこと?僕が犯人かどうかってことですか?」
「椚田君がどうとかじゃなくて、もっと全体的なことだよ」
 自分で言っていて、苦しい言い逃れをしていると由紀乃は感じていた。
 話を進めたいのに、「疑っているんですか?」と問われるたびに言葉を濁さなければならなくなる。歯痒い。
「全体的なことってなんですか?」
「今回の松山くんの件、不可解な点が多すぎるんだよ。だからどんな小さなことでもいいから情報が欲しいんだ。ねぇ、事件前日、何か変わったことはなかった?」
「さぁ、特に心当たりはありませんが」
 のらりくらりと椚田は詰問を躱す。
 ——このままでは埒が明かない!
 由紀乃は手札を一枚切ることにした。
「確か椚田くんは、美術部の打ち上げに参加してたんだよね?」
「そうですよ」こともなげに椚田はそう答える。
「一度も、3年2組の教室に行かなかった?」
 椚田の目をじっと見つめる。
 これは由紀乃が仕掛けた罠であった。
 行かなかったと答えれば、すぐさま物理の田中による目撃証言を突き付ける。

「行きましたよ」
 一瞬言葉を失った。
 まさか、椚田があっさり認めるとは想定していなかった。
「何をしていたの?」
「忘れ物を取りに行っていたんです」用意していたかのような回答を、椚田が述べる。
「そう」
 言葉を区切る。更に踏み込むべきか、由紀乃は逡巡する。
「田中先生も、教室で、椚田君を見たって言ってた」
「来られましたね、戸締りをしっかりするように言われました」
 このままだと、せっかく切った札が無駄に終わってしまう。
 由紀乃は焦る心を押し殺しながら椚田の顔を見た。
 終始余裕の様子である。
 恐らく、物理の田中に教室に居るところを見られた時からこの展開は織り込み済みであったのであろう。
 嘲笑うかのような口許。
 教師である自身の弱みをよく理解している狡猾な目。
 先ほどから事あるごとに疑っているのかと口にする。
 そう言っておけば、こちらは何もできないと思っているのだろう。
 由紀乃はギリっと歯を鳴らす。
 ——仕方がない、最早手段を選んではいられない。
 もう一枚の手札を切る。この手札は、諸刃の剣である。
「松山くんの事件があった放課後、椚田くん、松山くんと会って話をしたんでしょ?」
 椚田が訝しむような目を向ける。
「どうしてそれを、先生が知っているんですか?」
「松山くんから、話を聞いたの」
「やっぱり東雲先生、僕を疑ってるんじゃないですか?」
 その質問に、由紀乃は応えない。
「椚田くん、自分は美術部の打ち上げに参加していたから、自分にはアリバイがあるって、そう松山くんに答えたんだよね?」
 椚田の顔が青くなる。どうやら自身の推理は間違ってはいないらしい。
「でも実際には教室に行っていた!アリバイなんかなかった!」
 椚田の視線が泳ぐ。
「矛盾しているよ」
 椚田が口をパクパクさせている。
「う、疑ってますよね?これ、完全に僕を疑ってますよね?」
 由紀乃は拳を強く握る。

 馬鹿の一つ覚えみたいにそればっかり口にして、それさえ口にしていればこっちが大人しくなると思うなよ!

「じゃあ説明してよ!」
 いつのまにか、由紀乃は椚田に対抗心を燃やしていた。
 由紀乃は疑っていることを公言してしまった。

  *
 まさか、東雲がこんな愚かな選択をするとは思わなかった。
「じゃあ説明してよ」と言うことはつまり、「説明できないのなら疑うよ」という意味である。この瞬間、東雲は教師としての禁忌を犯した。
 東雲は馬鹿ではない。馬鹿ではないのなら、分かっていながら自らの破滅を招いた。
 私を道連れにするために。
「せ、説明?」
「だって椚田くんは松山くんに嘘を吐いたんでしょ?じゃあなんでわざわざそんな嘘を吐いたのか教えてよ!」
「本当のことをわざわざ話すと面倒くさいと思ったからですよ」
「面倒くさい?わざわざ嘘をつく方が面倒くさいと思うよ。現に今こうして問い詰められているように。本当にうしろめたいことがないのならどれだけ面倒くさかろうが真実を話すはずだよ。松山くんには嘘が見抜けないと分かった上で、自身の後ろめたい点を隠そうとしたんじゃないの?」
 東雲の言葉は的を射ていた。
 厳密には、松山に対しても「教室に行っていない」とは一言も言っていない。
そういう点で、言葉の綾だと言い張ることもできる。しかし私は美術部の打ち上げに参加していたことをアリバイとして提示した。それは、美術部の打ち上げに参加していたことがあらゆる疑惑を退けるに十分だと言及していることになる。
 しかし実際には十分ではない。私は教室に行っているのだから。
それなら最初から、「教室には行っていたけれど流石に10分であの文章は書けないよ」と供述するのが筋である。しかし私はそうしなかった。そこには松山を騙そうという意図があり、嘘を吐いたといっても相違ない。その点が怪しいと東雲は言っている。
「先生は僕を信じてくれないの?」
「信じたいよ!だから信じられるように説明してよ」
 開き直ったのか、疑っていることを隠しもしない。
 非常に厄介だ。
 嘘を吐いた理由。すなわち教室に行っていたことを隠した理由。
 それは、その時間、教室にいたということが容疑者の筆頭候補に挙がるからである。それは私が要したトリックが最後の防波堤となることを意味する。
 ましてや松山はトリックも論理も踏みにじる暴君である。私が教室にいたとなれば「怪しい」という力技で私の最終防波堤を突破してみせるだろう。
 それを避けるために、嘘を吐いたのだが……。
 どう言えば説得力がある?
 額に汗が浮かぶ。
 時間がない、咄嗟に言葉を紡ぐ。
「松山は、真実かそうでないかは気に留めません」
「・・・どういうこと?」
「松山にとって、それが怪しければそれが全てなんです。もし僕が教室に行っていたと知ったら、確証もないのに僕を犯人に仕立て上げます。それを避けたかったんです」
 東雲が返す言葉に詰まる。
 お?どうやらそれっぽい理由を説明することができたようだ。まぁ半分真実である。
 やればできるぞ私は。
「松山って、人の話を聞かないじゃないですか、いや、もっと言えば、聞いても理解できないじゃないですか」
 東雲も心当たりがあるのだろう、黙って私の話を聞いている。
「僕も最初の内は丁寧に論理的に納得させようと話していました。でも、一蹴されました。『訳が分からないことを言うな!』って、それで、僕もちょっと面倒臭くなってしまったんです」
 東雲はひどく動揺している。
「それは、つまり、松山くんが言っても理解できないから、口から出まかせを言ったってこと?」
「別に出まかせって訳ではありません、現に僕は犯人ではないんですから。余計な嫌疑をかけられないようにしようと思ったまでです。まぁ、そのせいで先生には、疑われてしまいましたが」
「でも、椚田くんがやってないって、誰も証明できないよね?」
 いよいよ疑っていることを包み隠さなくなってきたな。
「例の松山のラブレター、あれは松山自身の字だったんですよね?」
「確かに似せて書かれていた。でも松山くんの字と完全に一緒という訳じゃない」
「どっちでもいいですよ、松山の字でないとしても、松山の筆跡を真似て書かれた訳です。僕が美術部の打ち上げの席を外したのは10分程度、それは美術部の皆が証明できます。」
 事件前日の放課後、私が教室に居たということは知られてしまっている。最早隠す意味もない、いよいよ私は最後の防波堤で勝負をする。
「先生、10分ですよ?他人の筆跡を真似て、10分で、あの文章を書くことができますか?普通に考えたら無理ですよね。それが、僕が犯人でない証拠です。」
 私は渾身のドヤ顔をする。
 さぁ、東雲、あんたにこの謎が解けるか?
 解けなかったら、あんたはあらぬ疑いを生徒にかけて精神的に追い詰めた教師として世間からフルボッコにあうだろう。そんな惨めな大人の話なんて、誰も聞きたくないね。誰もあんたを尊敬の目では見ない。一生生徒に頭を上げられず、下を向いて生きるんだろうね。どんな情熱をもって教職の世界に踏み入ったかしらないけれど、もう教師、続けられないね。
 大人しくしていれば良かったのに、よりによっていじめっ子の松山の肩を持って被害者である私を糾弾するなんて。
「先生は、松山と違って、僕の言っていること、分かりますよね?」
 先生は、馬鹿ではないよね?
 愚かだけど。
「椚田くんが席を外した短い時間では、例のノートを仕込むことができなかった、それが椚田くんの、言い分だよね?」
「はい」
 愉悦を込めて、東雲を見る。
 東雲は俯いていた。
 口にする言葉を、懸命に探しているのか、口が開いては閉じる。
 しかし何かを決心したのか、小さく息を吸ってから、私の顔を見返して、言った。
「じゃあやっぱり、椚田くんが、犯人なんだね?」
「はい?」

  *
「話を聞いてましたか?先生、僕にはできなかったんです。あの短い時間で、あれだけの文章、それも、筆跡を真似てですよ?不可能です」
「不可能じゃ、なかったら?」
 何を言ってるんだ?不可能じゃなかったら?
「椚田くん、あの日、教室で、何してたの?」
 何してた?何してたって、
「忘れ物を取りに行ったんですよ」
「コールドスプレー」
 どきりと、心臓が脈打つのを感じた。まさか、
「コールドスプレーを使っていた、そう聞いてるよ」
 先ほどまでの愉悦はすっかり引いて、気持ちの悪い汗がシャツを汚す。
 まさか、物理の田中は初見であれを制汗スプレーではなく、コールドスプレーであると見破ったのか?あり得るのか?しかし今はそれを確かめる術はない。
 白を切ろうかと考えたが、目撃証言がある以上、下手な嘘はつけない。
「走って行って、汗かいたから、コールドスプレーで身体を冷やしてたんですよ」
「コールドスプレーで?椚田さん分かってる?コールドスプレーは打撲や捻挫とかの、アイシングで用いるものだよ?他にも、運動後のクールダウンで。椚田さんは美術部だよね?どうしてそんなものが必要なの?コールドスプレーと制汗スプレーは全くの別物だよ?」
「兄の物を勝手に持って来たので、知らなかったんですよ!そんな違い!」
 必死に頭を回転させ、嘘を吐く。
「そう?まぁいいや、それよりも」
 まぁいい?狙いはそこではない?
 こいつ、まさか
「今も、持っている?」
 私は自身の鞄を見る。
「それが、なんだって言うんですか?」
「大丈夫だよ、私のがあるから」
「⁉」
 何をするつもりなんだ。
 東雲は自身の教材を入れている鞄の中からコールドスプレーを、そして、一冊のノートを取り出した。
「それは」
「そう、金谷さんの机に入っていたという、松山くんのノートだよ。」
 そう言って、折れ目のついたページを開いて見せる。
 私は息をのむ。
 何も書かれていない、一見まっさらなページが見える。しかし……。
「湿気防止のため、ラップも敷いておくね、さぁ椚田くん、よく見ていて」
 私の胸の動悸は激しさをどんどん増していく。
 やめてくれ、言葉が口から洩れかけた。
 ぷしゅーっ!と勢いよく冷気が放出される、すると、次第に何も書かれていなかったはずのページの上に言葉が浮かび上がってくる。
 気持ちの悪い、兵器とも呼べる、言葉の羅列。
 偽りのラブレター
 東雲は、私の顔を見る。
「今の作業、何分かかった?」
 私は言葉を失っている。
 そんな、馬鹿な、
「多く見積もったとしても、5分もかからなかったんじゃないかな?」
 私の最終防波堤が、突破された?

   *
「これは、アリバイが崩れただけ、証拠は何もないってことを忘れないで」
 椚田のアリバイをいとも簡単に崩した後、白石はそう由紀乃に忠告した。
 だから由紀乃は論理を構築した、椚田を仕留めるための論理。
「フリクションのボールペンで書かれた文字は60℃を超えると透明になり、マイナス10~20℃の環境下に置かれると色が復元される。なるほど、いかにも高校生が頑張って考えましたって思えるような、稚拙なトリックだね。
どう、椚田くん、今のトリックを使えば、ほんの短い時間でも例の仕込みをすることができるよ?そして現にこの文字はフリクションのボールペンで書かれている訳だから、犯人がこの方法を使ったということは十分にあり得るね。よって、椚田くんのアリバイは成立しないよ、言っていること、分かるよね?」
由紀乃は椚田を睨む。
 動揺を隠しきれない様子で、椚田の額に汗が浮かんでは流れていく。
 間違いない、犯人は椚田だ、由紀乃はそう確信する。
「い、言ってることは、分かりますが、言いがかりです。それを僕がやったという証拠はどこにもないじゃないですか」
 ——そう、証拠はない、でも、椚田くん、君はもう、言い逃れできないよ。
「確かに物証はないね、でもね、椚田くん、君は、10分という短い時間ではあの犯行は無理だと言ったんだよね?」
「そうですよ?普通に考えたらそうじゃないですか!誰がそんなフリクションで文字が消えたり現れたりする、稚拙?稚拙なトリックが使われていると考えるんですか?僕は間違ったことは言ってないはずです!」
「そうかな?それじゃあちょっと考えてみよう、今回のトリック、フリクションのボールペンが使われた目的は何だろう?」
「目的?犯行時間の短縮でしょう?犯行時間が長かったらそれだけ見つかるリスクは高まるんですから、当然でしょう!」
「そうだね、それももちろんあるね、でも、こういう見方もできるんじゃないかな?自分のアリバイを作るために、フリクションボールペンの性質を使ったトリックを用いた」
「アリバイを、作る?」
「単に犯行時間を短縮することが目的なら、事前に松山くんのノートを無断で持ち帰り、例の文章を書き、現代文の授業と重ならない日の放課後、金谷さんの机の中にこっそりいれておけば事済んだはずだよ。それが一番簡単だよ。」
 椚田が唾をごくりと飲み込む。反論はない。
「いや、違うね、もっと簡単な方法があるよ、そもそもどうしてノートなんかに恋文を書くの?それも、使いかけの、本当に気持ちを伝えたかったら手紙にするよね?ずっとその点が不可解だった。でも、アリバイを作るためだっていうのなら、説明がつくね」
 椚田の上半身が、後ずさり、由紀乃と距離を取ろうとする。
「ただ、それだと誰にでも犯行ができてしまうよね?それだと、目撃証言があがるだけで、一発で犯人にされてしまう」
 椚田は必死に反論の言葉を探している様子で、視線をきょろきょろと彷徨わせながら口をパクパクさせている。
「だから、わざわざ手間がかかるけれど、今回のトリックを使ったんだ。目撃証言があがっても、アリバイを残せるように、私の言っていること、分かるかな?椚田くん?」
「何、を?」
「分からない?アリバイを作るために使われたトリックに、そのトリックによって生み出されるアリバイを隠れ蓑にしようとした人間がいる。もう少し話そうか?今回のアリバイにはもう一つ効果があるんだよ、もし万が一、椚田くんの作戦が上手くいかず、皆が犯人探しをしようとしたらどうなるだろう?皆が犯人像として、松山くんに恨みを抱いている人物をあげるのは自然なことだよね?もし犯行を他の誰かの仕業に押し付けたいのなら、こんなトリック使わなかったらいいんだよ。そうしたら皆自動的にある人物を疑うんだから、最も松山さんを恨んでいるだろう人物を。逆に考えれば、このトリックが使われたということは、犯人はどうしてもアリバイを作らなければならない程に疑われやすい人物だったということだよ。ね?どう考えても怪しいよ、椚田くん、だってこのトリックは、君のために用いられたものなんだから」
 椚田は未だ反論できずにいる。
「事件の全貌はこんな感じかな?松山くんから執拗な嫌がらせを受けていた椚田くんは、松山くんに報復する方法を考えた。それが、今回の事件、目的は、松山くんの居場所を学校から奪うこと。金谷さんの机の中に松山くんが書いたと思われるラブレターを仕込むことで、松山くんの印象を操作しようとしたんだ。しかし、少なくとも松山くんは自分がやってないことは知っている訳だから、彼が犯人探しをすることは、容易に想像がつく。そして、その松山くんが、最も自身に恨みを抱いているであろう椚田くんを疑うことも。そのため椚田くんはアリバイを作る必要があった。そのために用いられたのがこのトリック。椚田くんは予め、松山くんが普段使用しているノートと同じものを購入し、後ろの方のページにフリクションのペンでこの恋文を書いたんだ。そしてそのページの表面を何らかの方法で温める。次第に文字は薄れ、一見するとそれは新品のノートのように見える。椚田くんはこのノートを翌日、松山くんの机の中に入れる。このノートを手にした松山くんは『新品のノートが机の中に入れっぱなしになっていた、ラッキー』としか思わず、たまたま使い切った現代文のノートの続きとして、椚田くんが仕込んだノートに自分の名前を書く、こうしてこのノートは松山くんのものとなった。後は、そのノートに秘められた恋文を復元し、金谷さんの机の中に入れるだけ。椚田くんはアリバイを作るため、美術部の打ち上げを利用することにした。そして、トイレに行くと言って10分程打ち上げの場から退席する。椚田くんは急いで3年2組の教室までやって来て、松山くんの机からこのノートを取り出し、コールドスプレーを使ってこの恋文を復元したんだ。こうして椚田くんは自分だけのアリバイを作ることに成功した。どうかな?事実と異なる点が、あるかな?」

 由紀乃は自身の勝利を確信した。
 今回の勝負は、自身も痛みを負った。
 教師として、あるまじきことをしてしまった。
 生徒を疑ってしまった。
 生徒を傷つけてしまった。
 それでも、目の前の生徒の犯行を暴くことができた。
 私の勝ちだ、
 そう思った、矢先のこと。
「証拠は、あるんですか?」絞り出すように、椚田が言う。
「椚田くんが、そのトリックによって生じるアリバイをアリバイとした、それが証拠だよ。純粋に、やってないで押し切れば、まだ違っただろうにね」
 しかし椚田は再度呻く。
「そういうことを言ってるんじゃないです。僕がやったという確固たる物証ですよ!指紋は?指紋はあるんですか?ちゃんと検査したんですか?」
由紀乃は、突然椚田が何を言い出すのかと思い、唖然とした。
「指紋?指紋なんて——」
「ないんですよね?採ってないんですよね?先生が証明したことは、僕に犯行が可能だったってことだけですよ?確かに、僕は教室にいるところを田中先生にみられました。でもそれは、あの日の放課後、僕以外誰もあの教室に立ち入らなかったということを証明するものではない!たまたま僕が見つかっただけで、こんな取り調べのようなものまで受けて、論理的に自分の無実を証明しようとしたらそれが怪しいから犯人だ?めちゃくちゃですよ!」
 由紀乃は動揺していた。
 何を言っているの?話を逸らさないで!
「僕が犯人だって言うのなら、証拠を提示してください。論より証拠ですよ!今時警察も、単に怪しいからってだけでは逮捕なんかできませんよ。先生も大人なんだから、ちゃんと証拠を掴んでから言ってほしいですね」
「証拠は、だから——」
 由紀乃は、理解した。
 自分に、椚田を納得させるだけの証拠なんてない。
 ましてや学校という場で、犯人を追い詰められる程確固とした科学的な証拠を用意するだなんて、土台不可能なことであった。
「あるなら、ほら、出してくださいよ」
 挑発的に、椚田が言う。
 由紀乃の動揺する姿を見て、大分平静を取り戻してきたようである。
 むしろ、余裕の笑みすら浮かべ始めている。
「学校で、そんな、指紋を採るだなんて、そんなこと、理由もなくできないって、椚田くんだって分かるでしょ?」
「えぇ、分かりますが、だからといって理由もなく人を疑っていい道理はないでしょう?」
 由紀乃は下唇を噛んだ。
 何を言ってるの?
 あなたが犯人でしょう?
 今さらそんな屁理屈で、言い逃れようっていうの?
 そんなの、許される訳がない!
 あなたは!
「椚田くん!あなたは人を傷つけたのよ?確かに自分に嫌がらせをする赦せない相手だったかもしれない。憎くてしかたなかったかもしれない!それでも、あなたは一人の人間を傷つけたのよ!」
「いや、だからやってないですって、証拠はないんですよね?」
「証拠証拠ってあなたねぇ!」
 由紀乃は自分の底から溢れてくる感情を抑えられない。
「証拠は大事ですよ?先生がそれを否定しますか?」
 由紀乃は拳を強く握る。悔しくて仕方がない。
 ——これは、アリバイが崩れただけ、証拠は何もないってことを忘れないで。
 白石の言葉が蘇る。
 由紀乃は椚田を追い詰める論理こそ見事に構築したが、そんなもの、ここではまるで意味を持たない。
 由紀乃は自身の立場の圧倒的な弱さを痛感した。
 犯人は、分かっているのに、
 自分には力がない。
「先生、証拠はないんですよね?じゃあ、今日の話はこれでおしまいでいいですか?」
 由紀乃は応えることができない。
 このまま見逃す訳にはいかない。
 でもこれ以上、自分にできることは何もない。
「じゃ、勉強もあるので、帰りますね」
 椚田が立ち上がる。
 由紀乃はそれを制止することができない。
「あ、そうそう」
 去り際に、椚田が由紀乃を見下ろして言う。
「すみません、実は、今の会話、全部録音していました」
 由紀乃は視線を上げて、椚田を見る。
 手にはスマートフォンが握られている。
「ろく、おん?」消え入りそうな声で、由紀乃は返す。
 何を言っているんだ?この生徒は
「はい、今も録ってます」
「なん、で?」血の気が引いていくのを、由紀乃は感じた。
「さぁ、どうしてでしょう」邪悪な笑みを、椚田が浮かべる。
 全身に怖気が駆け回り、ようやく理解が追い付く。
 椚田が手に持っている、今録音されたデータが流出しようものなら——。
「消して!消しなさい!」由紀乃は必死に椚田の手からスマートフォンを奪おうとする。
「ちょっと、やめてくださいよ」
 椚田はスマートフォンを取られまいと由紀乃から距離を取り、
「何か、聞かれたらまずい発言でもしていましたか?」
不敵な笑みを浮かべる。それからぶひぃーーっ‼と吹き出した。
「すみません、今のは忘れてください」そう言って録音を停止する。
「消してよ」由紀乃は動くことができない。
 その録音データが流出すれば、自身の教師生命が断たれる。
「んーそんなに消して欲しいですか?」
 邪悪な笑みが、止まらない。
「消して」懇願するように、由紀乃は言う。
「どうして消して欲しいんですか?」どこまでも、嫌味たらしく椚田は言う。
「どうしてって」
 そこに録られているのは、過剰な正義心を振りかざし、生徒を断罪しようとする非情な教師の姿。
 どこまでも試すような目で、椚田は由紀乃を見る。
 私は教師として、どれほどの存在なのか。
 一度地に堕ちたその身体で、再びそれを示さなければならない。
「そこには、私の」
 間違った指導をした姿が録られている。
 間違った。
 私は、間違っていた?
 ——生徒を疑ってはいけないなんて常識じゃないか。
 ——それを一教師が暴走し、生徒との信頼関係を損なう結果を招いた。
 ——だから言ったじゃないか、大人しくしていれば良かったのに。
 ——見て見ぬふりをしていれば良かったのに。
 ——正しさよりも、大事なものがあったでしょう?

 由紀乃を責める言葉がぐるぐるとめぐる。
 私は間違っていたのか?
 認めたくない。
 認められない。
 認められない私が間違っているのか?

「いいよ、そのデータ、持って行けばいいよ」
 由紀乃は絞り出すように、そう言った。
「いいんですか?じゃあ、帰りますね」
 由紀乃の返答に、どこか興ざめした様な顔で、椚田が答える。
 由紀乃が答えないのを見て、椚田はそのまま去ろうとする。
「私は、認めないからね」
 由紀乃は小さく、しかし強い意志を込めて、そう言った。
「何をかは知らないですが、頑張ってください」
 そう言い残し、椚田は進路指導室を後にした。
 廊下を歩いて去って行く音が遠く、聞えなくなると、それまで自分を支えていた糸がぷつんと切れたように、ドサリと由紀乃はその場に崩れ落ちた。
 頭が混乱している。感情の波が激しくうねる。呼吸がうまくできない。
 静寂が満ちる進路指導室で由紀乃は一人、嗚咽を漏らした。
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