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第9話「傷だらけの黒豹と、涙味のシチュー」
しおりを挟むその知らせは、いつもの朝とそう変わらない時間にやって来た。
森の入り口の方から、ばたばたと慌ただしい足音が近づいてくる。
カリオンの住処の前で足音が止まり、どん、と荒っぽく岩を叩く音。
「カリオン! いるか!」
低くよく通る声――狼族のハルクだ。
焚き火の前で根菜を刻んでいた私は、思わず手を止めた。
カリオンは鍋の蓋を持ったまま、わずかに眉をひそめて立ち上がる。
「いる。穴を壊すな、うるさい」
「穴って言うのやめてっていつも言ってるでしょ……」
小声でツッコミを入れる私をよそに、カリオンは出入口まで歩いていく。
岩の陰から顔を出すと、狼耳をぴんと立てたハルクが険しい表情で立っていた。
「どうした」
「魔物だ」
一言で、空気の温度が変わった。
「森の奥で、見慣れねえ奴が出た。
狩りに行ってた若いのが、腕を噛まれて戻ってきた。
放っときゃ、里の近くまで出てくる」
「……そうか」
カリオンの尻尾が、ぴたりと止まる。
「どんな奴だ」
「デカい。熊よりひと回りは大きくて、牙が異様に長い。
体の一部が黒く変色してたって話だ。毒か、呪いか……」
「面倒そうだな」
カリオンは短く息を吐き、振り返る。
「ハルク、他に誰が行く」
「俺と、お前と、もう二人。
数を増やしても無駄だろう。動きが鈍った奴を食われるだけだ」
「判断は妥当だ」
危険な話をしているはずなのに、二人のやりとりはどこか淡々としていた。
森の外で生きてきた私にとっては、それが逆に怖い。
“危険”が、彼らの世界では“よくあること”なんだと、いやでも突きつけられる。
「じゃあ、すぐ発つぞ。準備しろ」
「……ああ」
カリオンがうなずいた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
「ちょっと待って」
気づいたら、声が飛び出していた。
カリオンもハルクも、同時にこちらを振り向く。
黄金の瞳と灰色の瞳。どちらも鋭い。
その視線にひるみそうになるけれど、私は一歩前に出た。
「私も、一緒に行く」
「――は?」
ハルクの耳が、明らかに「は?」と言った角度でぴくりと動いた。
カリオンは、しばらく無言で私を見つめる。
その視線は怒っているわけでも、笑っているわけでもなく、ただ静かに測っている感じだった。
「ルシア」
「魔物って、危ないんでしょ? 里のみんなにも被害が出るかもしれないんでしょ?
だったら、私だって――」
「お前は来ない」
遮る声は、静かなのに有無を言わせない力を持っていた。
「なんで」
「なんで、じゃない。
お前は、守られる側だ」
その言葉が、胸に刺さる。
「またそれ……」
思わず唇を噛んだ。
「守られる側でいるの、もう嫌だって言ったでしょう。
火も起こせるようになった。料理だって覚えた。薪だって集められる。
私だって、ここで生きるって決めたのに――」
「火は魔物を一撃で殺してくれない」
カリオンの声が、少しだけ強くなる。
「薪で殴っても、そいつは笑って噛みついてくる。
お前が持ってるものは、“生きるために必要なもの”であって、“戦うための牙”じゃない」
「でも――」
「戦いに行って、俺の背中を守るどころか、振り返る度にお前を気にしなきゃならないなら、
それは“足枷”だ」
言葉は冷たい。
でも、その奥にある感情だけは、はっきり伝わってきた。
“お前が傷つくのを見たくない”。
それを、彼は不器用なやり方で言い換えている。
「……足枷になりたくて言ってるんじゃない」
「分かってる」
カリオンは、わずかに目を伏せた。
「分かってるからこそ、ここにいろ」
静かな押し返し。
狼族のハルクが、少しだけ口を挟んだ。
「黒豹の言うとおりだ、人間。
あの手の魔物は、慣れてる奴でも命を落とす。
戦う気持ちがあること自体は否定しねえが、今のあんたは、“帰りを待つ”以外できねえ」
正論だった。
悔しいくらいに。
それでも、喉の奥から出かかった「一緒にいたい」という言葉は、飲み込むしかなかった。
カリオンは、住処の奥から武器を持ってきた。
よく研がれた二本の短剣。
黒い鞘は、彼の尾や耳と同じ色をしている。
腰にそれを括りつける動作は、あまりにも慣れていた。
(……何度もこういうことをくぐり抜けてきたのね)
その事実が、さらに怖かった。
彼は私の前に戻り、じっと見つめる。
「火は絶やすな」
いつもの調子で言う。
「夜になっても、薪を惜しむな。
外の気配をよく聞け。変な匂いがしたら、すぐに洞窟の奥に引っ込め」
「……うん」
「それから――」
一拍置いて、彼はほんの少しだけ視線を柔らかくした。
「腹が減ったら、昨日教えたやつを作れ。
スープでも、シチューでもいい。温かいものを食え」
「あなたは?」
「帰ってからだ」
何気ない言い方なのに、その“帰ってからだ”が、胸を強く打つ。
当たり前みたいに言わないで。
絶対なんてどこにもないのに。
喉まで出かけた言葉を、私はぎゅっと飲み込んだ。
「……分かった。待ってる」
それが、今、私にできる精一杯だった。
カリオンは、満足そうでも不満そうでもない、いつもの無愛想な顔で頷く。
「行くぞ、黒豹」
「ああ」
ハルクの声に応え、カリオンは洞窟を出ていった。
黒い尾が、最後に一度だけゆらりと揺れ、岩陰の向こうへ消える。
足音が遠ざかる。
森の中に静寂が戻る。
私の中にだけ、嵐が残った。
*
時間が、やけに遅く感じた。
太陽の位置を見ても、正確な時刻なんて分からない。
それでも、いつもなら「このくらいで昼」「このくらいで夕方」という感覚が、少しずつズレていく。
待っているだけの時間が、こんなにも長いなんて。
火を絶やすな、と言われた。
だから、私は言われた通りにした。
薪をくべる。
火の高さを調整する。
鍋の水を足し、適当な具材を放り込む。
手は動いているのに、心は一点に縫い止められていた。
――森の奥。
――見たこともない魔物。
――黒い耳と尾を持つ男。
(大丈夫、大丈夫)
頭の中で何度も唱える。
カリオンは強い。
昨日までだって、何度も狩りに出て、無傷で戻ってきた。
里の獣人たちも彼を頼りにしている。
だから、大丈夫。きっと、大丈夫。
そう言い聞かせても、手の震えは止まらなかった。
「……っ」
刻もうとした根菜を、危うく指ごと切りかけて、慌てて包丁を引く。
刃先がまな板をかすめる音が、妙に高く響いた。
(落ち着きなさい、ルシア)
自分で自分に言い聞かせる。
深呼吸をする。
胸がうまく広がらない。
いつの間にか、外は暗くなっていた。
森の虫の声が、昼とは違うトーンで鳴いている。
焚き火の光だけが、世界を繋ぎ止めている気がした。
――夜更け。
何度目か分からない薪をくべ終えたとき、外で小さな物音がした。
かさ、と草を踏む音。
続いて、足音。
重い足取り。
心臓が、喉から飛び出しそうになる。
私は反射的に立ち上がり、入り口の方を見た。
「……カリオン?」
名前が、勝手に零れる。
次の瞬間、影が現れた。
岩の入口をくぐって姿を見せたのは――たしかに、カリオンだった。
けれど、その姿は、今まで見たことがないほどボロボロだった。
「っ……!」
息を飲む。
黒い上着は、ところどころ裂け、布の下から赤いものが覗いている。
腕には大きな噛み傷。
肩には爪で引き裂かれたような傷跡。
血の匂いが、焚き火の匂いを一瞬で上書きした。
彼の黒い毛並みも、血と泥でところどころ固まっている。
「遅くなった」
いつも通りの調子で言うけれど、声が少し掠れていた。
「なに、その……!」
言葉が喉で渋滞する。
「ハルクは? 他のみんなは? 魔物は――」
「ハルクは生きてる。
もう二人も、腕や足に傷を負ったが、魔物は倒した。
里の方には来ねえ」
事務的に説明しながら、カリオンは歩を進める。
足取りが、わずかにふらついている。
私の中で、何かがぶちっと切れた。
「座って!」
自分でも驚くほど強い声が出た。
カリオンは少しだけ目を見開いたが、逆らわなかった。
獣の毛皮を敷いた場所に、どさりと腰を落とす。
その瞬間、傷口から新たな血がじわりと滲んだ。
「っ……」
彼の喉から、短い息が漏れる。
「大したことはない」
「その台詞、説得力ゼロだからね!?」
怒鳴りながら、私は一気に動き出した。
清潔な布。
水。
薬草。
里で教わった応急手当の知識が、頭の中でフル回転する。
「服、脱いで」
「お前、人の羞恥心を――」
「死にかけのくせに見栄張らない!」
有無を言わせず、裂けた布をナイフでさらに切り開いていく。
露わになった肩と腕に、赤黒い傷跡が並んでいた。
歯形。爪痕。擦り傷。
そのひとつひとつが、どれだけ激しい戦いだったかを物語っている。
(こんな……)
胸の奥が、ぐしゃっと潰れるような感覚に襲われた。
もし――もしこれが、もっと深かったら。
もし――もし彼が、ここに戻ってこなかったら。
その想像だけで、呼吸が止まりそうになる。
恐怖は、遅れてやってくる。
“行かないで”と言えなかった自分への悔しさと、
“帰ってきてくれた”という安堵と、
その間にあった“もし”という奈落の深さに、足がすくむ。
「……ルシア」
名前を呼ばれて、はっとする。
「手が震えてる」
「震えるに決まってるでしょ……!」
包帯を巻こうとする指が、ひどく不器用に動く。
自分でも笑いそうになるくらい、ぎこちない。
「ちょっと、じっとしてて。動かないで」
「動いてない」
「尻尾が動いてる!」
「それは……勝手に」
「勝手に動かさないで!」
怒鳴りながら、傷口を洗い流し、薬草を貼り、布を巻く。
何度も里で見た手当の手順を、必死に真似する。
カリオンは、冗談めかした文句を口にしながらも、大人しくされるがままだった。
痛いはずなのに、彼はほとんど声を上げない。
けれど、薬草が傷に触れるたびに、筋肉がぴくりと反応しているのが分かる。
「大したことないって、こういうのを言うの?」
「動くには困らない」
「困ってる顔してる」
「してない」
「してる!」
半ば泣きながら言い返すと、彼は少しだけ口元を緩めた。
「……心配性だな、お前」
「今さら?」
涙で視界がにじむ。
包帯の端を結ぶ手が、ぐっと力を込めすぎてしまう。
「痛い」
「我慢して」
「優しくしろ」
「死にかけで帰ってきた人に優しくしてほしかったら、せめて“無事”って顔で帰ってきてよ……!」
言いながら、喉が締め付けられる。
怒りも、恐怖も、安堵も、ごちゃごちゃに混ざって、何がなんだか分からない。
それでも、手当ては終わらせなければいけない。
全部巻き終えた頃には、肩で息をしていたのは、カリオンではなく私の方だった。
「……終わった?」
「終わった」
ふう、と大きく息を吐く。
手の甲には、カリオンの血が少しついていた。
赤黒いその色が、やけに生々しく見える。
「ありがとう」
ぽつり、と小さな声。
「……え?」
「助かった」
カリオンは、焚き火の向こう側を見ながら、そう言った。
「里の女たちは手当ての知識はあるが、今は怪我人が多い。
お前がここにいてくれて、助かった」
「それって――私にしかできなかったこと?」
「少なくとも、今この穴で出来たのは、お前だけだ」
その認め方が、胸にじんわり広がる。
涙がまた出そうになって、慌てて視線を逸らした。
「……じゃあ、次は私の番」
「何の」
「あなたの体温を上げる番」
手当てをしながらも、頭の片隅で考えていたことがある。
今日のこの夜に、彼に出すべきもの。
私は鍋を掴み、棚から材料を引っ張り出した。
「何を作る気だ」
「シチュー」
「シチュー?」
「体を温めて、回復を早くするための、ご飯」
火力を少し強め、鍋に油をひく。
まずは玉ねぎに似た野菜をじっくり炒める。
甘い香りが立ち上がるまで、焦げないように混ぜ続ける。
そこに、刻んだ根菜を加える。
人参に似たもの、芋に似たもの、森で見つけた白い根も。
肉は、今日は少なめに。
大量の肉は、傷ついた体には重すぎる。
少量を小さく切って、香草と一緒に軽く炒める程度にとどめる。
水と、少しのミルクに似た液体を加える。
里のヤギに似た動物から取れる乳を煮詰めたものだ。
これを入れると、スープがとろりと変わり、胃にやさしくなる。
香草は、今日は刺激の少ないものだけ。
体を温めて、眠りを深くする効果がある葉を、細かく刻んで最後に散らす。
(これまで教わったこと、全部)
火の扱い方。
森の食材の見分け方。
香草の効能。
宮廷で覚えた「疲れている時のメニュー」の組み立て方。
全部、ひとつの鍋の中に放り込む。
ぐつぐつと煮立つ音。
野菜と肉が柔らかくなっていく。
とろりとしたシチューに、木の匙を沈める。
「できた」
椀に盛りつけ、カリオンの前にそっと置く。
彼は、しばらくじっとそれを見つめていた。
白く霞んだシチューの中で、具材が顔を覗かせている。
「……匂いは、悪くない」
「味は?」
「食ってから言う」
「そうして」
カリオンは匙を取り、ゆっくりと一口すくった。
熱さを確かめるように息を吹き、口へ運ぶ。
その瞬間の表情を見るのが怖くて、私は少し視線をそらした。
焚き火の火が小さく跳ねる。
沈黙。
数秒が、永遠みたいに長く感じられる。
「どう?」
耐えきれずに問う。
カリオンは、少しだけ目を細めた。
「前より……ずっと旨くなったな」
その一言に、視界が一気に滲んだ。
ほっとして、気が抜けて、胸の奥に詰まっていたものが、一気に崩れていく。
「よかった……」
声が震える。
「本当に……生きて帰ってきてくれて……」
こらえきれず、ぽろぽろと涙が零れた。
シチューの匂いも、味も、一瞬で分からなくなる。
鼻の奥がツンとして、息を吸うたびに妙な音が混ざる。
「お、おい。どうした」
「どうした、じゃない……!
怖かったの……!
戻ってこなかったらどうしようって、ずっと……ずっと……!」
言葉が、泣き声に溶ける。
自分でも何を言っているのか分からない。
ただ、胸の奥に張り付いていた恐怖が、涙に変わって溢れていく。
カリオンは、最初こそ困ったように私を見ていたが――
やがて、ゆっくりと手を伸ばした。
大きな掌が、そっと、私の頭に乗る。
黒い爪は、今日は驚くほど優しい。
「……心配性だな、お前」
呆れたように言う声が、不思議とあたたかい。
「戦いに行って、傷ひとつ負わずに帰ってくる奴なんていない。
傷だらけで戻ってきたら、“ああ、また生き延びたんだな”って思うもんだ」
「思えない……!」
「慣れろ」
「慣れたくない……!」
「そうか」
くしゃくしゃになった顔のまま睨み上げる私と、
苦笑とも微笑ともつかない表情で見下ろすカリオン。
頭に置かれた手が、軽く撫でるように動いた。
黒豹の掌が、乱暴ではなく、驚くほど慎重に、私の髪をなぞる。
それだけで、胸の痛みが少し和らぐ。
「……もう行かないで、とは言わないのか」
「言いたいけど」
ぐす、と鼻をすすりながら答える。
「あなたが行かなきゃ、守れないものがあるって、分かってるから」
「分かるのか」
「分かるようになったの。
ここで火を起こして、薪を拾って、料理をして……
“生きること”を近くで見てたら、
“誰かが戦わないと守れない場所”があるって分かるようになった」
カリオンの手が、ほんの少しだけ止まる。
「だから……
“行くな”って言わない代わりに、“必ず帰ってきて”って何度でも言うから」
震える声で言い切ると、カリオンは小さく息を吐いた。
「……面倒な女だ」
「知ってる」
「でも、嫌いじゃない」
「っ……」
心臓が、ずきん、と音を立てた。
それ以上何か言われたら、きっと私の中の何かが決壊してしまう。
だから、ここで止めてくれたのは、ある意味で救いだった。
頭に乗せられた手の重さと、シチューの湯気と、焚き火の温度。
全部が混ざって、世界の輪郭が少しぼやける。
「ほら、冷める」
カリオンが、軽く私の頭から手をどけた。
「せっかく作ったシチューが台無しだ」
「もう……味なんて、分かんない……」
「じゃあ、俺が味わっておく」
彼は残りのシチューをゆっくりと口に運ぶ。
その表情が満足げなのを見て、ようやく私も少しだけ落ち着きを取り戻した。
自分の椀を手に取り、一口すすってみる。
塩加減は悪くない。
香草の香りも、きちんと効いている。
野菜は柔らかく、肉は口の中でほろりと崩れる。
でも、その奥に、しょっぱい味が混ざっていた。
(……涙味のシチューなんて、聞いたことないわ)
そんなことを思って、少しだけ笑う。
カリオンと私の距離は、この夜、一気に縮まった。
けれど、それに“恋”という名前を与えるには、まだ少しだけ早かった。
胸の奥で生まれたこの感情が何なのか、
まだちゃんと確かめる勇気はない。
ただひとつ、はっきりしているのは――
この黒豹が、再びこの洞窟の出入口をくぐって来るたびに、
私はきっと、何度でも同じように泣いて、笑って、シチューを作るんだろう、ということだけだった。
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