悪役令嬢?ええ、喜んで地獄の底から幸せを掴みますけど何か?

タマ マコト

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第8話 薬酒《忘却》、便利な悪徳

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 冬の川は、音を低くして流れる。
 ルヴァンの朝は薄い霧で、石の匂いは湿って重い。私は宿の小さな厨房を借り、火加減を親指の腹で測った。鍋にはワイン、蜂蜜少量、レモンピール、シナモン、クローブ。そこに、ごく微量の“鍵”を落とす。鍵は香りではない。神経の綾に触れて、夜という布の端をほどく針だ。

「名は?」

 宿の女が背中越しに言う。

「《忘却》」

「また物騒だねえ」

「物騒じゃない。便利。——悪徳の中でも、もっとも丁寧」

「丁寧な悪徳?」

「翌朝だけ、記憶の輪郭が曖昧になる。罪悪感は鈍るけど、良心には触らない。触ってるのは“自己弁護”の筋肉」

「……怖いわ」

「“少しだけ”だから効くの」

 火を止め、瓶へ。透明のガラスが赤を飲み、喉の線が細く震える。私は一本ずつ包み紙で巻き、ラベルに《忘却α》と手で書いた。α、と小さく。βのときより、もっと限定の響き。限定は虚栄の栓を軽く跳ね上げる。

 午後、私は市場で一本だけ、試飲を掲げた。
「“昨夜の後悔”が、朝にだけやんわり鈍る酒」
 説明は足りないくらいでいい。足りない説明は、想像力を呼ぶ。想像力は財布をあたためる。

 最初に立ち止まったのは、宮廷に出入りする楽師だった。目の下に薄い隈、指先に松脂。
「眠れる?」
「眠れる。けど、本当に欲しいのは“気にしない朝”。昨夜の演奏のミスを忘れるほう」
 彼は苦笑して、銅貨を置き、小瓶を懐に滑らせた。彼の客はすぐ宮廷にいる。音は香を運ぶ。香は噂を運ぶ。噂は買い手を連れてくる。

 二人目は、祭服の裾を隠した司祭崩れ。
「神の前では使えんが、王の前なら使えるな」
「神は香に弱いって、あなた言ってた」
「私の神は気まぐれだ」
 彼は一礼して、小瓶を二つ持って行った。彼が飲むのではない。誰かに渡す。誰かはいつも、酔いの言い訳を探している。

 三人目は、信じられないほど人当たりの良い笑顔の衣装係。宮廷の衣装部屋は秘密の温床だ。
「“内緒”を着て歩く人たちのための酒」
「洗濯で落ちる?」
「朝には落ちる。記憶も、染みも」
 彼は笑い、銀貨を置いた。彼の手の甲には針の細かい傷がたくさんあった。針は秘密の重みを知っている。

 《ノワール》の糸は、瓶の行く先を静かに誘導した。楽師から廷臣へ、衣装係から夫人へ、司祭崩れから財務官へ。夜会の晩餐で、《忘却》は“ちょっとした気配り”として現れた。
 「胃にも優しい」
 「翌朝ラク」
 便利な言い訳は、上等なカトラリーより早く席に広がる。私はその夜、王都のとある館の壁のこちら側にいた。壁は厚いが、声は隙間で曲がる。煙突の根本、飾り梁の陰、額縁の裏。音は道を選ぶ。私は耳で地図をなぞり、通り道に耳を寄せた。

「昨夜の……いや今夜か。倉庫の番号、三十八——」

「おい、誰かに聞かれたら」

「誰に? 朝には覚えてないさ」

 男の笑いは軽い。《忘却》は、言葉にクッションを付ける。クッションは、ぶつけやすい。

「それより、聖女様の“奇跡”の費用。帳簿の“慈善”にまとめろ、と陛下が——」

「総勘定は合ってるのか?」

「合ってる。“合うようにした”。——明日の朝は、覚えてない」

 私は壁に指先を当てて、脈を測った。建物の心臓と、人間の心臓。拍の重なり。重ならないところが、嘘の居場所だ。
 ダミアンの影が通路の曲がりで止まり、私を見る。灯りに浮く横顔。
「拾いすぎるな」
「拾わなすぎると、砂金は流れる」
「砂ごと拾えば、目が潰れる」
「目は潰れても匂いは残る」

 彼は小さく舌打ちして笑った。「強情だ」
「復讐者だから」
「お前まで壊れるな」
 その言葉は、壁より厚いところに届こうとした。胸骨の奥。私は微笑む。
「私は、壊れてから美しくなるの」
 ダミアンはほんの少しだけ瞬きをし、視線を細めた。「冗談に聞こえない」
「冗談じゃないから」
「美しさの定義を、いつか聞かせろ」
「落ちる音が綺麗で、切り口が光ること」
「……やっぱり冗談じゃないな」

 夜会場の空気が熱を帯び、笑いが蒸気になって天井にたまる。私は《忘却》の効果時間を頭の中で刻む。二時間で緩み、四時間で最高潮、六時間で下降、明け方で霧散。霧散の直前、人はいちばん軽口が重くなる。
 飾り柱の陰で、財務官がひそひそ声。
「王太子の賭債、誰の財布で塞ぐ?」
「“義援金”で名を立てたい貴族から。名簿は用意してある」
「伯爵夫人は?」
「昨夜の件で……弱い。押せ」

 壁越しの言葉は石を伝って冷たくなる。それでも内容は熱い。私は短くメモを取り、暗号で折りたたみ、靴の中敷に滑り込ませた。奪われても、奪われにくいところへ。

 夜が深まるにつれ、館の隅々で《忘却》が仕事をする。隠し部屋の接吻、裏庭の誓い、書庫の鍵の貸し借り。すべてが「朝には覚えていない」で包まれる。包まれたものほど、形が残る。私はその形だけを拾い上げる。
 楽師の控え室で、衣装係が囁く。
「聖女様、明日の巡行で“花が咲く”奇跡をお見せに——」
「花は倉庫から来る」
「花は“花”であるべきだ」
 笑い声。
 私は耳を離し、机の影から影へ、匍匐するみたいに移動した。ひざに埃の匂いがつく。埃は正直だ。捨てられた年月だけ香る。

 夜明け前、館の裏口が一度だけ開き、私は空気に紛れて外へ出た。外は凍る直前の温度。肺が引き締まる。ダミアンが先に待っていた。マントの裾、露で重い。

「収穫は?」

「倉庫の裏番号、王太子の借金穴、聖女の“花”。——それと、検察卿の“勇気”の持続時間」

「持つか?」

「あと二回の夜会まで。三回目には、彼は“神の沈黙”を言い訳にし始める」

「神は便利だな」

「《忘却》より」

 彼は肩を竦め、私の髪の先に触れない距離で視線を落とした。「冷えてる」
「熱いと匂いが揮発する」
「その理屈、好きだ」
 彼は私の手に薄い包みを押し付けた。温い。
「パン屋から。“夜明けパン”。糖は脳を動かす」
「採用担当にしては、やさしい」
「採用は続けたいからな」
「なら、私の壊れ方を見届けて」
「見届ける。だが、壊れた先に戻る道が一本でもあるか、確かめながらだ」

 宿に戻る途中、私は扉の影に身を入れて包みを開け、パンを齧った。甘さと温度が舌に広がり、脳の歯車が音を立てる。歯車は甘いほどよく回る。
 部屋に着くと、机いっぱいに紙を広げ、ひと晩の“拾い物”を配置した。点、線、矢印。名前、時間、場所。アルマンへ送る束、パスカールへ投げる束、ヌールに見せて匂いの整え方を相談する束。
 《忘却》は困りごとを解決する薬ではない。困りごとを“うやむや”にする酒だ。うやむやは膨らむ。膨らんだものは、針に弱い。針は私の役目。

 昼過ぎ、古着屋の婆がやってきて、カウンターに肘を突いた。
「昨夜、あんたの酒、いい仕事したねえ」
「どの口が言うの」
「全部だよ。噂は口を選ばない」
「噂は風。斜めに立って」
「斜めに立ってる女の目は、冷たくていい」

 彼女が去った後、私は鏡の前に立つ。鏡は正直だが、持ち主に嘘をつかせる。私は鏡に向かって笑ってみる。笑いは剣。刃こぼれしてないか、光で確かめる。——まだ切れる。
 机の端には、次の瓶が三本並んでいた。《忘却β》のラベル。αより持続を短く、切れ味を立たせる。対象を選べるように、香りの芯に目印を仕込む。目印は外からではわからない。飲む者だけが、曖昧になる。

 夜、私はまた別の館の壁のこちら側にいた。昨夜とは違う音。昨夜拾った名が、別の口で踊る。
「“花”は、明日の正午に咲く。川べりの広場で」
「倉庫からの搬出は、巡行の直前」
「検察卿は?」
「朝に聖堂、それから裏門で財務官」
 私は紙片に短く記し、指で折り畳む。折り目は習慣。習慣は暗号。
 ダミアンが別の柱の陰から短く合図する。指で“1”。
——一つ、決定的な穴。
 私は呼吸を深くし、耳を壁から外した。
「帰る?」
「帰らない。——あと十分」
 彼は眉をわずかに上げ、しかし何も言わない。主導権は私。彼は櫂。川は、今夜も私の読みに従って曲がる。

 十の呼吸の間に、十分以上の軽口が落ちた。人は軽口に真実を紛れ込ませる。重い真実は軽く包装しないと運べないから。私はそれを拾って、重さを元に戻す。
 外へ出ると、空気が薄くなっていた。夜が終わる準備をしている。
「壊れてないか」
 ダミアンの問いは、昨夜より近く。
「壊れているわ」
「どこが」
「“良心”の縁。——良心は、縁をちょっと削ると、よく切れるナイフになる」
「……やっぱり冗談じゃない」
「冗談じゃないものを、冗談みたいに言えるうちは大丈夫」

 彼はうなずき、私の歩調に合わせた。
「次は」
「《忘却》を“必要としている”相手にだけ届くように、目印を変える。匂いに“罪悪感の匂い”を足す。罪悪感は人によって匂いが違う。聖職者は蝋と煙、兵士は鉄と脂、貴婦人は粉と涙。——配合は私がやる」
「頼もしい」
「危険」
「危険は僕が拾う」
「拾いきれない危険もある」
「その時は、逃げる。——誰も踏まないように、な」

 私は笑い、頷いた。
 翌朝、王都の小さな新聞の片隅に、地味な行。
《倉庫No.38、一時封鎖》
 誰も《忘却》とは書かない。書けない。そこがいい。
 便利な悪徳は、正義の裏手でよく働く。
 私は瓶を拭き、次の夜に備えた。
 壊れながら、美しくなる準備を。
 落ちる音を、私が選ぶために。
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