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第20話 灰の庭に、はじまりの市
しおりを挟む朝の光は、灰の上で薄い金箔になっていた。
焼き立てのパンの匂いが路地の角を曲がり、子どもたちの笑いがそれを追い越す。鐘楼は遠くで、三度、間を置いて鳴った。告別の鐘じゃない。呼び出しの鐘だ。集まれ、と、静かに、しかし確かに街の骨へ浸みていく。
広場——もとは宮殿の影が落ちていた場所——に、木の台が並ぶ。節の出た板、曲がった脚、釘の頭はまちまち。でも、脚は四本、板は水平。必要が揃えば、十分だ。
私は灰色の上衣に短い前掛け、髪は結い、扇は帯に差したまま。紅の仮面は箱の底。名札には、短く「セラ」。肩書きはない。肩書きは、商品の横に置くと腐る。
「ここは日陰がいい」「パンは風上」「水の桶は交差点から離して——」
指示は小声で、しかし矢のように飛ぶ。ヌールが「魚は昼に吠える」と笑い、アルマンが帳面をめくって「今日の税率は空気と同じ」と冗談を言い、パスカールが「祈りは自宅で」「ここは段取りの殿」と肩をすくめる。
ギヨームは近衛の残党を束ね、鉄ではなく縄で秩序を作る。縄は、引けば伸びる。伸びる秩序は、怒りより強い。
市場の真ん中、私は一枚の布を広げた。麻布、粗い目。布の中央に、黒い線を一本。線の上に印の札を三枚、並べる。《仕入》《手間》《公の分》。
「値札は?」と若い娘。
「これが値札」私は線を指で叩く。「どれだけ仕入れ、どれだけ手間をかけ、どれだけ街に返すか。——見せる。見せれば、騙れない」
娘は目を丸くして笑い、「かっこいい」と言った。
「かっこよさは続かないと意味がない」
「続く?」
「続ける」私は言い切る。「搾取は利益の早道。でも、市は長い道でしか育たない。長い道は、今日の足で測る」
パン屋が窯から板を引き出し、焦げた縁が朝を呼吸する。パンは四つ切り、塩は一摘み、値は重さ。老いた女は列の最後尾から、子の手をいったん離して、パンの香りに目を細める。「帰り道にも匂いが付いてくるさね」
「匂いは税にならない」アルマンが笑って、すぐ真顔に戻る。「でも、記憶になる」
私は台の端に小瓶を並べた。香の素——《告白》でも《忘却》でもない。名は《平常》。レモン皮、白樺、微量のパン酵母。朝の匂いを瓶の中に沈めた。
「匂いの商いはこりごりだ」と誰かが茶化す。
「だからこそ、効能は一つだけ」私は瓶を指先で弾く。「“今日が今日だと思い出す”」
市場の流れは、最初が肝心だ。押しと引き。声の高さ。硬貨の音。笑いの分量。
私は《供出証》と《配給札》で培った動線を、市に流し込む。
入口で手を洗い、右回り、左回り、交差は広場の中央を避ける。歌は要らない。代わりにパンのため息、果物の皮が剥ける音、釣り銭の細かな雨音。そういう音を、私は市場の“主旋律”に据える。
「これ、値切れます?」と男。
「値切れるのは『手間』の枠内だけ。『仕入』は詐欺に、『公の分』は窃盗になる」
「手間の値切りは、職人の誇りを削る」とヌールが横から杖で男の足元を小突いた。「削った誇りは、次の冬に凍るよ」
男は鼻の頭を掻いて笑い、「じゃ、これで」と硬貨を出す。硬貨の音は、石畳にやさしく落ちる。やさしく落ちる音は、長持ちする。
子どもたちが跳ねる。目当ては飴玉でも玩具でもない。籠の中で、紙片が二千鳥の影のようにひらひらする《市のくじ》。当たりは小さな木のスプーン。外れても、笑いがもらえる。笑いは物々交換の通貨だ。
「お姉ちゃん、名札、セラ?」と小さな男の子。
「そう。君は?」
「ミロ」
「ミロ、今日の市場の“監視係”を頼める?」
「なにするの」
「誰かが泣いたら、泣いてないふりをしないこと。誰かが笑ったら、笑ってないふりをしないこと。それを私に教えること」
ミロは胸を張り、「うん!」と返事した。監視は見張りじゃない。見届けることだ。子どもの目は、街の鏡になる。
ガラガラ、と車輪の音。古本屋が積んだ本をシートで覆い、紐を解く。雨に強いインクで刷られた『公的悔過台帳』の抜刷が伍銭で売られていく。人は他人の罪より自分の行いを見るようになった。視線は学ぶ。
司祭崩れが小声で言う。「説教が売れない夜は、台所の段取りが売れる。神よ、これが——いや、段取りよ、これが神の正体だ」
パスカールが肘で小突き、「職業替えは紙一枚」と笑う。
私は小さな秤を台の端に置いた。皿の上で、果物が軽く踊る。踊りながらも、数字は端正に並ぶ。数字が整うと、怒りは整う。怒りが整うと、市は美しくなる。
ふと影が差し、私は顔を上げた。
ダミアンがいた。
包帯は薄く、歩調は静か。剣はないが、背中に“守る”の形が残っている。彼は列に並ぶ。主催者のところへ真っ直ぐ来ないのが、好きだ。
「開店祝いは?」
「君が並んだこと」
「何番目だ」
「三十八番」
「いい数だ」
「みんなが“数える”ことを覚えたから」
彼は列の終わりで小さな女の子に道を譲り、女の子は「ありがとう」と言わずに笑って、葉物の束を抱えた。「ありがとう」を言わない笑いは、使い道がわからなくて好きだ。無償の笑いは、市の飾りになる。
ギヨームが近づき、「騒ぎはない」と短く報告する。
「騒ぎがないのが、いちばん難しい」と私は返す。彼は頷き、肩の力をほんの少しだけ抜いた。
レオナールの姿も見えた。鉛筆の粉が指に残ったまま、配達の荷台を押し、桶の水を配り、足元の泥を気にせず歩く。遅すぎる学習は、間に合っている。彼の「今」は、誰かの昼食を前倒しにする速度を持っている。
私は台から降り、布の端を踏まないように歩いて、鐘楼の陰へ回り込んだ。そこだけ風がよく通り、パンの匂いと果物の酸っぱさが混ざる。
「演説は?」とヌールが目で聞く。
「しない」私は笑って肩をすくめる。「言葉は、今朝もう十分売れた」
市場の中心で、子どもが「はじまりの歌」を口ずさんだ。洗い歌が転生して、市場の歌になった。「右手にひとすくい、左手にひとすくい、指の間は猫の舌。列は右、帰りは左。泣いたら抱っこ、笑ったら拍子」
拍子が自然に揃い、足音がむず痒く揃い、誰も指揮をしないのに、音がまとまる。これを私は“幸福の段取り”と呼びたい。
ダミアンが列を抜けて、台の前に来た。手には布袋。袋の口から、半分食べたパンが顔を出す。彼は無言で、袋を逆さにして見せた。底が二重になっている。
「盗み対策?」
「逆。過剰支払いの回収。釣り銭を受け取りそびれた人のための箱。あとで回る」
「やさしさの段取り」
「長持ちする」
「そうね」
私は扇を帯から抜き、ひと呼吸だけ開いて、すぐ閉じた。母の手紙の最後の一文が、朝の光で読みやすくなる。
——幸せは選ぶもの。
私は選んだ。終わらせること。始めること。続けること。
ダミアンがこちらを見た。
私は台の角に指を置き、彼の手に、自分の手を重ねる。
言葉は一つだけ。必要最小限の、でも、最大の意味で。
「これは私の幸福です」
彼の目が、はじめて、きれいに笑った。笑いは音を持たず、空気の密度を変える。私の頬に、その密度がやわらかく触れる。
「証拠は?」と彼がふざける。
「パンの匂い。子どもの笑い。鐘の音。……あなたの手」
「なら、有罪だ」
「幸福に?」
「幸福に」
市場の端で、古本屋が朗読を始めた。台帳ではない。昔の詩。戦争でも恋でもない、庭の手入れの詩。抜く草と残す草。陽の当たり具合。水やりの量。
私は目を閉じ、詩の「水やり」という言葉に、胸の空洞が小さく頷くのを感じた。空洞はもう、私の敵ではない。植木鉢みたいに、そこに土を入れ、少しずつ水を加える手順を覚えた。
「セラ、これ、いくら?」
ミロが走ってきて、木のスプーンを振る。
「仕入は木の端、手間はナイフと紙やすり、公の分は——」
「公園のベンチ」
「そう。ベンチは休むための税金」
「じゃ、ぼくは払う!」
「ありがとう。今日の市は、君の背中で立ってる」
笑いがまた一つ、どこかで弾ける。
パンの香りが焼け石を慰め、魚の目が水桶で涼み、花屋が——罰金を払い終えた花屋が——朝顔の苗を配る。「咲きすぎたら、少し切ってね。来年も咲くから」
“来年”。
その単語が、灰の庭の上に、羽根のように落ちる。
私はその羽根を掬い、帯の内側に一度しまってから、胸の真ん中に戻した。
終幕の金具は外れ、物語の帳は閉じる。
でも、私の人生は、今、開く。音もなく、しかし確かに。
ギヨームが遠くで口笛を——吹かない。彼はただ、腕を組み、広場の角を見て、風を読む。職務の目は、もう刃じゃない。段取りの目。私は目礼し、彼も、ほんの少し、頷いた。
私は台の上の瓶を一本取り、蓋を少し開けた。《平常》の匂いが、朝をもう一度、朝にする。
扇の骨は、今は飾り。
私の笑いは、地獄の底で鍛えた刃先を、やっと鞘に納めて、人間の温度を帯びた。
冷たい雨も、燃える夜も、紙の棘も、鐘の重みも——全部を抱えたまま。
それでも、軽い。
鐘がもう一度鳴り、子どもが走り、パンが割れ、硬貨が落ち、誰かが手を振る。
私は手を振り返し、台に戻る。
仕事が、私を呼ぶ。
幸福は、段取りを恋う。
段取りは、生を長持ちさせる。
——灰の庭に、市が開いた。
——物語は閉じ、彼女の人生が開く。
私の名はセラ。
今日も、明日も、ここで、売り買いをつなぎ、手と手のあいだに線を引き、線をやわらかくして、笑う。
これは私の幸福です。
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