追放即死と思ったら転生して最強薬師、元家族に天罰を

タマ マコト

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第5話:同じ世界の片隅で、泣かない産声

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 暗闇は、落ちるものだと思っていた。
 底なしの穴に、どこまでも沈んで、最後には自分が何だったかも分からなくなる――そんな終わり方。

 でも、違った。

 エリシアは“落ちる”のではなく、“戻って”いた。
 背中から冷たい石畳が離れていく。雨音が遠ざかる。
 息が止まったはずなのに、胸の奥に小さな鼓動みたいなものが蘇る。

 ――チリン。

 鈴が鳴ったような気がした。
 冷たくて、小さい音。
 それが、暗闇の中で唯一の輪郭だった。

 次の瞬間、世界がひっくり返る。

 息が入る。
 肺が、初めて空気を飲み込むみたいに痛い。
 喉が、焼ける。
 身体の外側の感覚が、いきなり押し寄せる。

 寒い。
 いや、寒いだけじゃない。空気が肌に触れるだけで、全部が刺激になって刺さる。

 目を開けようとする。
 まぶたが重い。
 重いのに、無理やり開く。

 視界はぼやけている。
 煤けた天井が、ぐにゃりと歪んで見える。
 木材の梁が走り、隙間から薄い光が差している。
 薬室の白い壁じゃない。
 大理石の床でもない。

 匂いが――全然違う。

 薪の焦げた匂い。
 湿った土の匂い。
 古い布の、少し酸っぱい匂い。
 人の生活の匂い。

 エリシアは、思った。
(……ここ、どこ)

 声にしようとして、出ない。
 喉が震えるだけ。
 そもそも、口の形が思ったように動かない。

 視界の端で、大きな影が動いた。
 誰かが自分を抱いている。
 腕。手。指。
 それがやけに大きくて、怖い。

「……起きた?」

 低い声。
 若い男の声だった。
 落ち着いているのに、どこか硬い。
 壊れ物を扱うみたいな慎重さが混じっている。

「ミラ。……見て」

「うそ。ほんとに生きてる……!」

 次に聞こえたのは女の声。
 驚きと安堵が混ざった、少し掠れた声。

 視界が揺れる。
 抱き上げられたまま、少し角度が変わる。

 男の顔が見えた。
 二十三歳くらい。黒髪が雨で湿って額に張り付いている。
 目は暗い灰色。疲れが溜まっているのに、見開かれた瞳だけが妙に真剣で、優しい。

 ただ――右腕。
 袖口から覗く皮膚が、赤黒く、少し引き攣っている。
 火傷跡。
 それを隠すみたいに、男は腕の角度を変えた。

「泣かないな」

 男が、ぽつりと言った。
 その言葉が自分に向けられているのだと、理解するのに時間がかかる。

 泣かない。
 そうだ。
 泣けない。
 いや、泣きたいのか? 分からない。

 赤子の喉から出るはずの声が、出ない。
 出そうとすると、胸の奥で別の音が鳴る。

 ――チリン。

 鈴。
 冷たい鈴の音。

 泣く代わりに、胸の奥で鈴が鳴る。
 怒りでも悲しみでもない、もっと硬い感情の音。
 復讐の音。

 女――ミラが、男の隣に顔を寄せた。
 二十八歳くらい。頬は少し痩せているのに、目だけが強い。
 髪はざっくり結われ、指先には薬草の緑が薄く染みついている。

 ミラは、エリシアの頬に触れた。
 その手は温かい。
 驚くほど温かい。
 さっきまでの石畳の冷たさと、正反対の温度。

「この子……冷えてない。ちゃんと生きてる。ねえ、ライル……」

 ライル。
 男の名前。
 エリシアの頭が、ゆっくり言葉を拾っていく。

 ライルは赤子――自分を抱いたまま、少しだけ息を吐いた。

「……よかった」

 その“よかった”の言い方が、不器用で、だから本物に聞こえた。
 ラウフェン家の「家のためよ」とは違う。
 何かを正当化するための言葉じゃない。
 ただの、感情。

 ミラが辺りを見回し、壁際に置かれた古い籠を指さした。

「祠の前に置かれてたのよ。雨の中。誰かが……捨てたのか、それとも」

「捨てた、って言うな」

 ライルが、少し強く言った。
 その強さが、怒りではなく拒絶だった。

「置いていった。そう言え」

 ミラが瞬きをした。
 そして、ゆっくり頷いた。

「……うん。置いていった」

 置いていった。
 その言葉に、胸の奥の鈴が鳴った。
 置いていく。
 追放。
 処刑。

 言葉の形が違っても、やってることは同じ。
 そう思った瞬間、赤子の身体の内側で、冷たい火が灯る。

(私は、死んだはずなのに)

 思考はある。記憶もある。
 雨の石畳。毒の甘味。家族の目。
 全部、まだ鮮明だ。

 なのに身体は小さい。
 手は握れない。足は動かない。
 視界もぼやける。
 声も出ない。

 でも、胸の奥の鈴だけは鳴る。

 ライルは赤子を抱いたまま、部屋の中を歩き、暖炉の火の近くに座った。
 木の椅子がぎし、と鳴る。
 その音が生活っぽくて、なぜか怖い。
 “生きる”って、こういう音なんだ、と突きつけられているみたいで。

「……この子、どうする?」

 ミラが小声で言った。
 どうする。
 その問いは、命に向ける言葉として残酷だ。
 でも、この部屋の貧しさが、その残酷を必要にしているのも分かる。

 壁の板は隙間だらけ。
 床は冷たく、敷物は薄い。
 棚の瓶は少ない。
 薬草も、きれいに揃っているわけじゃない。
 薬師の家なのに、薬が足りない。
 治療師なのに、余裕がない。

 没落寸前。
 そういう空気が、部屋中に漂っている。

 ライルは赤子の顔を覗き込んだ。
 その目はまっすぐで、逃げない。

「……育てる」

 短く言った。
 決定の音がした。
 当主の椅子の宣告とは違う。
 家の論理じゃなく、個人の意思の音。

 ミラが息を呑んだ。

「ライル、私たち……」

「分かってる」

 ライルはすぐに言った。
 分かってる。
 貧しい。余裕がない。
 抱えたら沈む。
 それでも。

「分かってるけど」

 ライルは赤子を抱く腕に力を込めた。
 火傷跡のある右腕を、隠さずに。

「……この子、泣かない」

 ミラが呟いた。

「普通、泣くのよ。怖いんだから。寒いんだから。お腹だって……」

「泣かないのに、目が」

 ライルが言った。
 その声は少し震えていた。

「……生きてる目だ」

 エリシアは、心の中で笑いそうになった。
 生きてる目。
 それは、死にたくない目だ。

(私は、生きたい)

 それが本音なのか、復讐のためなのか、まだ分からない。
 でも、鈴が鳴る。
 鳴る限り、私は終わらない。

 ミラが、そっと赤子の頬を撫でた。
 手の温度が、あまりにも優しくて、逆に痛い。
 こんな温度を知らなかった。
 知らなかったから、身体が拒否しそうになる。

「名前……どうする?」

 ミラが言った。

「名もなく育てるわけにはいかない」

 ライルは少し考えた。
 その間、暖炉の火がぱちぱち鳴る。
 雨が屋根を叩く音が遠くで続いている。
 雨。
 雨は、追放の夜を思い出させる。
 石畳の冷たさ。毒の味。
 その記憶が胸の奥で疼く。

 でもここは、違う雨だ。
 屋根がある。火がある。手が温かい。

 ミラが赤子の顔を覗き込んで、ふっと笑った。

「……この子、変な顔してる」

「変な顔って何だよ」

「ううん、変じゃない。なんていうか……」

 ミラは言葉を探す。
 探して、ぽつりと落とす。

「エリシア、って顔」

 その瞬間、エリシアの胸の奥の鈴が、少し強く鳴った。
 名前。
 その名前は、前世の自分のもの。
 奪われたはずのもの。
 紙の上で消されたはずのもの。

 偶然。
 偶然だ。
 でも偶然にしては、刺さりすぎる。

 ライルが眉を上げた。

「エリシア?」

「うん。なんか、そう呼びたくなる顔してるの。……変かな」

「変じゃない」

 ライルが言った。
 それは肯定だった。
 誰かが自分の名前を、肯定の形で口にする。
 その事実だけで、胸の奥がきゅっと縮む。

 エリシアは泣かない。
 泣けない。
 泣く代わりに、胸の奥で鈴が鳴る。
 冷たく小さい音が、これからの人生の拍動になる。

 ミラが布を取り、赤子を包み直す。
 布は古いけれど、丁寧に洗われている。
 貧しさの中の誇りみたいに。

「ミルク……ないわね」

 ミラが顔を曇らせる。

「山羊の乳、明日なら手に入る」

 ライルが言う。

「明日まで、この子……」

 ミラの声が揺れる。
 揺れの中に、恐怖が混ざる。
 抱えた命が、簡単に消える世界の恐怖。

 ライルは黙って立ち上がった。
 そして部屋の隅の棚を開き、瓶をいくつか取り出した。
 薬師の家というより、治療師の小屋。
 それでも彼は、残り少ない資源を迷わず差し出す。

「糖水を作る。薄く。少しずつ」

「……ライル、それ、貴重でしょ」

「今は、こっちが貴重だ」

 ライルは赤子――エリシアを見て言った。
 その言葉が、胸の奥に落ちる。
 価値がないと言われ続けた少女に、「貴重だ」と言う声。

 エリシアの中で、何かがほんの少しだけ、溶けた。
 溶けたのに、鈴は鳴る。
 復讐心は消えない。
 消える必要もない。
 それは生き延びた証だから。

 ミラが、ぽつりと呟いた。

「……神さまが、うちに落としたのかな」

「落とした、じゃない」

 ライルはまた言った。

「戻ってきたんだろ」

 戻ってきた。
 その言葉が、妙に正しい気がした。

 エリシアは目を閉じた。
 眠気がくる。赤子の身体が勝手に眠りへ引きずる。
 意識の端で、暖炉の火の音。
 二人の呼吸の音。
 雨の音。

 雨はまだ降っている。
 でも石畳の冷たさではなく、屋根の上の雨だ。
 終わりの雨じゃなく、始まりの雨。

 胸の奥で鈴が鳴る。
 冷たく小さい音。
 でもそれは、もう“終わりの合図”じゃない。

 これからの人生の、拍動になる。
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