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第11話:王都召喚、偽名の薬師
しおりを挟む流行病が“前兆”のままで終わることは、たぶん、最初からなかった。
火種が風を待っていただけで、風が吹いた瞬間、村も街も同じ色に染まる。
秋の終わり。
王都の匂いが、変わった。
咳の匂い。
熱の匂い。
湿った布と吐瀉物の匂い。
薬草で誤魔化しきれない、“身体が壊れていく匂い”。
村にまで、風が運んできた。
旅商人が目の下に濃い影を作って言った。
「王都、やばいぞ。救護所が人で溢れてる。道端で倒れるやつもいる。咳が止まらなくて、血を吐くのも見た」
その言葉だけで、村の空気が一段冷えた。
病気は見えないのに、噂は見える。
噂は人の背中を丸め、火を節約させ、扉を閉めさせる。
そして、その翌日。
ラベルのない封筒が一通、ライルの家に届いた。
封蝋は薬師協会の印。
紙は硬く、文字は細く、命令の匂いがする。
ライルが開封した瞬間、ミラが顔をしかめた。
「……嫌な紙の匂い」
「俺もそう思う」
ライルの声は低い。
封筒から出した書状を読む目が、みるみる鋭くなる。
エリシアは干し棚の陰から、その横顔を見ていた。
もう十歳に近い。
言葉も増え、動きも速くなった。
でも胸の奥の鈴は、あの夜からずっと同じ音で鳴っている。
冷たく小さい音が、時々強くなる。
ライルが書状を読み終え、机の上に置いた。
「……王都召喚だ」
その言葉が落ちた瞬間、ミラが息を呑んだ。
「召喚って、あの“各地の治療師を集める”やつ?」
「そう」
ライルは短く答えた。
淡々としているのに、目の奥が怒っている。
命令されることへの怒り。
そして、命令に従わなければ“罰される”理不尽への怒り。
ミラが書状を覗き込む。
「……『流行病拡大に伴い、各地治療師は王都救護所へ参集せよ』……やっぱり。これ、命令じゃん」
「命令だよ」
ライルは椅子の背に手を置いた。
右腕の火傷跡が、布の下で少し引き攣る。
以前ほど痛まない。エリシアの調合が効いている。
それでも“戦場”を思い出す時、傷は勝手に疼く。
「……来いってこと?」
ミラが声を落とす。
恐怖は、言葉を小さくする。
「来い、ってことだな」
ライルは言ってから、目を閉じた。
ほんの一瞬だけ、疲れが見えた。
彼は“助けたい”人間だ。
でも“助けに来い”と命令されると、話が変わる。
助けるのは意思であって、義務の鎖じゃない。
エリシアの胸の奥で鈴が鳴った。
チリン。
命令の匂いに反応する音。
王都。薬師協会。前世の鎖。
それらがまた、自分の人生に手を伸ばしてくる。
「……ライル、行くの?」
エリシアが聞くと、ライルは少しだけ目を柔らかくした。
「俺は……行かないといけない」
言い方が悔しそうだった。
“行きたい”じゃない。
“行かないといけない”。
ミラが唇を噛む。
「じゃあ……私も」
「ミラは残れ」
ライルの声が鋭くなる。
「村に治療師がゼロになる。ここにも病人は出る。お前が残ってくれ」
「でも……」
「頼む」
その一言で、ミラは黙った。
頼む、という言葉は、ライルが滅多に使わない。
だから重い。
エリシアは、そのやり取りを聞きながら思った。
(……私が行けばいい)
考えが浮かぶのは自然だった。
流行病が広がれば、救える命がある。
それは嘘じゃない。
でも、その奥に別の感情が絡む。
(王都に戻る)
あの家がいる場所。
自分を殺した場所。
紙の上で人生を消した場所。
胸の奥が冷たく撫でられる。
怖い。
でも、逃げ続けたくない。
エリシアは一歩前に出た。
「……私が、行く」
空気が止まった。
ミラが真っ先に声を上げる。
「は!? 何言ってんの! エリシア、あなた子ども――」
「子どもでも、できる」
エリシアは言い切った。
言ってしまってから、心臓が跳ねる。
怖い。
でも止まれない。
ライルが、エリシアをまっすぐ見た。
「行くな」
短い。
でも、その短さに全部が詰まっている。
守りたい。危ない。失いたくない。
言葉にすると壊れそうな感情。
「……なんで」
「王都だぞ」
ライルの声が少し低くなる。
「病気の中心だ。人が死んでる。治療する側も倒れる。そこは戦場だ」
戦場。
ライルがそれを言う時、目の奥に影が落ちる。
彼は本当に戦場を知っている。
衛生兵として、血と土と呻きの中で生きた人だ。
「戦場なら」
エリシアは思わず言ってしまった。
言ってから、喉が苦くなる。
自分の言葉が残酷だと分かったから。
「……私、もう死んでる」
静かに言った。
でもその言葉は刃だった。
自分に向けた刃。
ライルに向けた刃。
ミラが目を見開く。
「エリシア……」
ライルの顔が、ほんの一瞬だけ歪んだ。
怒りでも悲しみでもない。
“理解してしまった”顔。
「……お前、まだあの夜を持ってるのか」
エリシアは答えない。
答えられない。
持ってるに決まってる。
あの夜は、胸の奥で鈴になって鳴っている。
ライルが椅子から立ち上がり、エリシアの前にしゃがんだ。
大人の目線が、子どもの目線に降りてくる。
その距離が近い。
「聞け。俺は、お前を守りたい」
守りたい。
その言葉が、胸の奥を熱くする。
でも熱いほど、怖い。
守られてしまったら、自分はまた“無力”になる気がする。
「でも、守りたいだけじゃ守れない時がある」
ライルは続けた。
声が少し震えている。
必死さが滲む。
「王都は、お前にとって――」
そこで言葉が途切れた。
“何か”を言いかけて、飲み込んだ。
たぶん、彼はエリシアの過去を全部知らない。
知らないけど、匂いで感じている。
痛みの匂い。
逃げたい匂い。
それでも戻ろうとする匂い。
エリシアは、ゆっくり息を吸った。
「逃げ続けたくない」
それが本音だった。
復讐のために行く、とは言わない。
言ったら、ここが壊れる。
ライルが自分を止める理由になる。
「私は行かないと、ずっと……」
ずっと、影のまま。
ずっと、奪われたまま。
ずっと、殺されたまま。
言葉にできない続きを、エリシアは目で伝えた。
ライルは目を閉じ、長く息を吐いた。
そして顔を上げた。
「……条件がある」
「うん」
「俺が一緒に行く」
ミラが叫びそうになった。
「ちょっと! それ、私一人で村を回せってこと!?」
「回せる。お前なら」
ライルは即答した。
ミラが睨む。
でもその目の奥に、信頼があるのが分かる。
「……真面目に最悪」
ミラは悪態をつきながらも、最後はエリシアの頬に手を当てた。
温かい手。
「死ぬなよ。絶対」
エリシアは頷いた。
頷くしかない。
“死ぬな”という言葉は、重い。
前世で誰も言ってくれなかった言葉だから。
*
旅支度は最低限だった。
薬草を小さな袋に詰め、瓶をいくつか包み、布と針と消毒用の酒。
ミラが無言で包帯を束ね、ライルが馬車の手配をする。
そして、名前。
「王都で本名は名乗るな」
ライルが言った。
その声は低い。
“危険を知ってる”声。
「……エリシア、って?」
ミラが小声で聞く。
エリシアの胸の奥で鈴が鳴る。
チリン。
名前は、鎖にもなる。
「名乗らない」
エリシアは即答した。
即答できるほど、その答えは前から用意されていた。
「偽名。……エリ」
口にすると、少しだけ喉が痛んだ。
エリシアから削った名前。
自分を薄くする名前。
でも今は必要だ。生き残るために。
「エリ、ね」
ミラが繰り返す。
その言い方が、優しい。
偽名でも、呼んでくれる温度がある。
エリシアはフード付きの外套を被った。
深く被る。
顔が影になる。
影は怖い。
でも今は、その影が盾になる。
*
馬車が揺れる。
車輪が泥を踏む音。
馬の吐息。
遠ざかる村の匂い。
窓の隙間から、畑の土の匂いが最後に流れ込んだ。
薪の匂い。
ミラの手の温度。
ここは“生き直し”の場所だ。
だからこそ、離れるのが怖い。
向かう先は王都。
咳と熱の匂いで満ちる街。
薬師協会が命令を出し、名門が軋む街。
そして――ラウフェン家がいる街。
馬車の揺れの中で、鈴の音が強くなる。
チリン、チリン、チリン。
小さく、冷たく、胸の奥を叩く。
“あの家がいる場所へ戻る”という事実が、胸の奥を冷たく撫でる。
撫でられるたびに、皮膚の下に鳥肌が立つ。
怖い。
でも、目を逸らさない。
エリシアはフードの影の中で、手を握った。
指先が冷たい。
それでも、心の芯は熱い。
「エリ」
ライルが呼ぶ。
偽名で。
守るために。
「大丈夫か」
エリシアは頷いた。
声は出さない。
声を出すと震えがバレる。
震えは、今は弱さになってしまう。
馬車は王都へ向かって進む。
遠くに、黒い雲みたいな街の輪郭が見え始める。
その輪郭の中に、過去がいる。
毒の味がいる。
家族の目がいる。
エリシアは胸の奥の鈴の音を、拍動として受け入れた。
逃げない。
今度は、逃げない。
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