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第14話:妹の嘘が剥がれる、愛玩子の檻
しおりを挟む救護所の空気は、泣き声に慣れている。
呻きも、祈りも、怒号も、全部が同じ天井に吸い込まれていく。
だからこそ――“ただの涙”は、ここではもう武器にならない。
それを知らずに、リーナは泣きながら走り込んできた。
髪は乱れ、頬は濡れ、扇子も香水もない。
社交界の花は、救護所の泥に足を取られて、ようやく本当の匂いを出し始める。
「お願い、聞いてください……! 母が、母が……!」
彼女は周囲の治療師たちにすがるように叫ぶ。
声が震える。涙が光る。
今までなら、それだけで空気が動いた。
“可哀想な子”という物語が、勝手に組み上がった。
でも救護所は、物語より現実が強い。
リーナの視線が、区画Cの奥――フードの影に向いた。
エリシアの存在を、彼女はまだ“誰か”としてしか認識していない。
ただ、効く薬を作る“無名の薬師”。
そして、母の発症を前にして、何もしない“冷たい薬師”。
リーナはその“悪役”に、泣きながら指を突きつけた。
「あの無名の薬師が……母を見殺しにしようとしてる!」
言い切る声は、震えているのに鋭い。
涙を刃に変えるやり方。
それがリーナの生き方だった。
周囲がざわめく。
治療師たちが視線を向ける。
患者たちも顔を上げる。
リーナは、勝てると思った。
涙はいつも効いた。
「お姉さま可哀想」と言えば距離を取れた。
「私、味方です」と言えば自分が善人になれた。
泣けば誰かが守ってくれた。
だから彼女は、泣きながら訴えた。
泣けば正義になると信じて。
でも――最初に動いたのは、患者たちだった。
「見殺し? 違う!」
ベッドの上の若い男が、掠れた声で叫んだ。
汗で髪が額に張り付いている。
数時間前まで熱で朦朧としていた男だ。
「この子のおかげで熱が下がったんだ! 俺、死ぬとこだった!」
「そうよ!」
咳で苦しんでいた女が身を起こし、荒い呼吸のまま言った。
顔色はまだ悪い。それでも目に力がある。
生き返った目だ。
「ラウフェンの薬じゃ何も変わらなかったのに、この子の薬で息が入ったの! この子がいなかったら今頃――!」
“この子”。
その言葉が何度も飛ぶたび、リーナの眉がぴくりと動く。
無名の薬師が“子ども”だと、周囲が無意識に感じ取っている。
リーナは一瞬だけ怯んだ。
泣いているのに、誰の気も引けない。
誰も「可哀想」と言わない。
誰も膝をつかない。
救護所では、“救われた経験”が一番強い。
涙より強い。
身分より強い。
名門の印より強い。
リーナの声が少し高くなる。
「でも! 母は倒れてるの! 母はラウフェン家の――」
「ラウフェン家がどうした!」
別の患者が吐き捨てるように言った。
老人だ。目が充血し、唇が割れている。
それでも声は低く響く。
「名門の薬を飲んでも治らなかった! 俺の隣の奴はそれで死んだ! 名門だろうがなんだろうが、効かないもんは効かない!」
救護所が一瞬、静まり返る。
死んだ。
その言葉は重い。
誰も否定できない。
リーナは、その重さに初めて触れた。
社交界の噂は、誰かを傷つけても“死”には繋がらない。
ここは違う。
言葉の先に、本当に命がある。
彼女の涙が、軽く感じられてしまう場所。
リーナは唇を震わせた。
泣いているのに、胸が冷える。
泣いているのに、世界が動かない。
――涙が効かない。
それを知った瞬間、リーナの中の何かが崩れた。
崩れたのに、彼女はまだ立っていなければならない。
立たないと、守られないから。
その時、背後から低い声が囁いた。
「リーナ」
振り向くと、ルーカスがいた。
兄は救護所の騒ぎの中でも白衣を乱さず、目だけが氷みたいに冷たい。
歯噛みする怒りを、完璧に隠している顔。
「こっちだ」
兄はリーナの腕を掴み、人の影に引きずり込んだ。
誰にも見られないように、布の裏、棚の陰。
病の呻きが遠くなる場所。
「……兄さま、お母さまが……!」
「母上のことはどうでもいい」
ルーカスは淡々と言った。
その一言で、リーナの息が止まる。
どうでもいい――?
母上のことは?
ルーカスは続ける。
「今は“あいつ”だ。あの薬師。あいつのせいで、ラウフェンの薬が無力に見える」
「でも……助けてるのは事実で……」
リーナが弱く言うと、ルーカスの目が細くなる。
「だから厄介なんだよ」
笑っていないのに、声だけが笑っている。
恐ろしい笑い。
「お前は役に立て」
ルーカスの指が、リーナの顎を持ち上げた。
社交界で男が女の顎を上げるあの仕草。
可憐な遊びじゃない。支配だ。
「泣くだけじゃなく、動け。あいつの正体を暴け」
正体。
その言葉が、リーナの背中を冷たくなぞる。
「……正体?」
「フードを被ってる。名を名乗らない。なのに効く薬を作る。協会の奴らも気にしてる。つまり、隠してる」
ルーカスの声は低く、速い。
焦りが混ざっている。
理解できないから、憎むしかない焦り。
「隠してるなら暴け。暴いたら潰せる」
潰す。
その言葉の軽さに、リーナはぞっとした。
兄は“潰す”に慣れている声だった。
まるで虫を踏むみたいに。
「私……そんな……」
「できるだろ」
ルーカスは当たり前みたいに言う。
「お前は今まで、泣いて、笑って、場を動かしてきた。そういう役だ。お前はそうやって家を守ってきた」
守ってきた。
その言葉が、リーナの胸を締めた。
守ってきた?
本当に?
彼女はふと、思い出してしまう。
追放の日。
あの夜の空気。
当主の間の灯り。
父の平坦な声。
母の目を伏せる仕草。
兄の笑い。
自分の涙。
『お姉さま、私、味方です』
あの言葉を吐いた舌の感触まで、今は生々しい。
そして――最後の食事。
包みのパン。
母が焼いたと言って、自分が手渡した。
温かかった。
優しいふりをした温度。
あの時、リーナは本当に“優しくした”つもりだった。
でも、思い出は続く。
母がパンを渡した瞬間の目。
妙に乾いた目。
父が厨房の奥で、瓶を傾けていた背中。
透明な液体が、光の中で糸みたいに落ちた。
兄がそれを見て、何も言わずに頷いた顔。
――見届けた。
リーナの喉が、ひゅっと鳴った。
息が浅くなる。
胸が締まる。
罪悪感が、喉を締め上げる。
「……私」
声が震えた。
「私、あの日……何を……」
ルーカスは、その震えを見て笑った。
優しくない笑い。
“使える”と判断した笑い。
「思い出したか」
囁きが、毒みたいに耳に入る。
「お前は何もしてない。渡しただけだ。父上が決めた。母上が従った。俺が見届けた」
淡々と並べる。
罪の分担。
分担してしまえば、罪は薄まる。
薄まるから、平気で生きられる。
「でも、渡したのは……私……」
リーナの声が、子どもみたいに小さくなる。
彼女は今初めて、“自分の手が誰かを殺した”という感覚に触れている。
ルーカスは冷たく言った。
「じゃあ償え」
「……え」
「役に立て、リーナ」
兄の指がリーナの腕を強く掴む。
痛い。
でもリーナはその痛みで、さらに現実に引き戻される。
「お前は愛されてるんじゃない。必要だから置かれてるだけだ」
その一言が、リーナの中の最後の柔らかい部分を裂いた。
愛玩子。
可愛いと言われるために、泣き、笑い、飾られてきた。
それを“愛”だと信じたかった。
信じるしかなかった。
でも違う。
愛されていたのではなく、使われていただけ。
檻の中で、可愛く鳴く鳥。
鳴けば餌がもらえる。
鳴かなければ捨てられる。
それがリーナの人生だった。
呼吸が浅くなる。
胸がきゅっと縮む。
救護所の咳の音が、今度は自分の肺に刺さるみたいに聞こえる。
「……私、どうしたら……」
リーナが絞り出すと、ルーカスは即答した。
「簡単だ。あいつを暴け」
兄はリーナの耳元で囁いた。
「泣きが効かないなら、次は“事実”で刺せ。フードの下を見ろ。声を聞け。癖を探せ。あいつの正体が分かれば、父上は潰せる」
潰せる。
またその言葉。
リーナは唇を噛んだ。
吐き気がする。
でも吐けない。
吐いたら、今度こそ捨てられる。
彼女は震えるまま、影の奥から区画Cを見た。
フードの影。
手を動かす小さな影。
患者に薬を渡し、汗を出させ、熱を引かせる影。
その影を庇う患者の声が、まだ聞こえる。
「この子は助けてくれた!」
「名門より、こっちが正しい!」
リーナの涙は、もう誰も見ない。
涙で作った物語は、ここでは通じない。
代わりに、胸の中で別のものが膨らむ。
罪悪感。
恐怖。
そして――初めての疑問。
(私は、誰の味方だったの?)
追放の日、握った手。
「味方です」と言った口。
渡したパン。
あの全部は、“家の役割”だったのか。
リーナの喉が詰まる。
息が浅くなる。
救護所の空気が重い。
彼女は今、初めて“自分の檻”を内側から触っている。
そして、檻に気づいた者は、もう元には戻れない。
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