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第15話:無関心の選択、治さないという天罰
しおりを挟む救護所の夜は、昼より明るい。
灯りを落としたはずなのに、誰かの咳が火花みたいに跳ね、誰かの泣き声が針みたいに刺さって、眠りという概念が遠ざかる。
エリ――フードの影の中のエリシアは、鍋の湯気を見つめていた。
薬草の匂いが言葉になり、手の動きが無駄なく繋がる。
結果だけを積む。
結果だけが、この場で正義になる。
それなのに、今日の空気は違った。
違う匂いがする。
病の匂いではなく、秩序の匂い。
名門の匂いが、苛立ちとともに膨らんでいる。
布の向こうから足音。
揃った足音。
担架が軋む音。
護衛の鎧が擦れる音。
それらが区画Cの中心へ向かってくる。
「道を開けろ!」
誰かが叫んだ。
叫びは命令の匂いを持つ。
救護所に一番似合わない匂い。
人が左右に避ける。
避けさせられる。
避けたくなくても、避けさせられる。
名門の力は、病の呻きの中でもまだ残っている。
担架が運び込まれた。
白布の上に横たわる女。
セラフィーナ・ラウフェン。
母が、エリシアの“目の前”に置かれた。
近い。
近すぎる。
匂いが刺さる。
『痛い』
『刺す』
『暴走』
『壊れてる』
『助けて』
母の身体は小刻みに震えていた。
光が痛い。音が刺す。匂いが刃になる。
神経が焼けるように悲鳴を上げる病。
感覚過敏性崩壊症――抑制が反転した末路。
母のまぶたが揺れ、開いた。
瞳孔が震え、焦点が定まらない。
そして、その目がエリシアの影を捉える。
――だが、その目は娘を見ていなかった。
助けてくれる“薬師”を見ているだけ。
水を求めるように、藁を掴むように。
そこにあるのは、血でも、愛でもなく、ただの要求。
「……お願い……」
母の唇が震えて、声になる。
その声は弱い。
弱いのに、どこか当然みたいに響く。
名門の妻として、救われるのが当然だという空気が、まだ残っている。
その後ろで、グレゴールが立っていた。
父の目は、威圧の目だ。
救護所の人々を見下ろす目。
自分の家名が、まだ世界の中心だと信じている目。
「治せ」
父は短く言った。
命令。
頼みではない。
感謝の匂いもない。
命令だけがある。
ルーカスもいる。
兄は顎を固くし、唇を噛んでいる。
リーナは少し離れた場所で、青白い顔をして立っている。
涙はもう武器にならないと知った目。
罪悪感で呼吸が浅くなっている目。
救護所の空気が、張り詰めた。
患者たちが息を止める。
治療師たちの手が止まりかける。
“無名の薬師が名門の妻を救うかどうか”
その瞬間に、物語が生まれそうになる。
物語は危ない。
物語は人を酔わせる。
エリシアは、その酔いを拒む。
彼女はフードの影のまま、淡々と母を見下ろした。
見下ろした、というより――線を引いた。
心臓は鳴っている。
胸の奥の鈴も鳴っている。
チリン。冷たく澄んだ音。
でも顔には出さない。
出した瞬間、これは復讐劇になってしまう。
だから、声を平らにする。
事務的にする。
ただの線引きにする。
「治せます」
母の瞳が少しだけ明るくなる。
希望の光。
その光が、次の言葉で凍る。
「でも、治しません」
怒号でもない。
復讐宣言でもない。
恨みをぶつける言葉でもない。
ただの、選択。
ただの、業務連絡みたいな口調。
救護所が静まり返った。
咳の音すら遠のいた気がする。
世界が一瞬だけ、息を止める。
母の目が見開かれた。
それは恐怖の目じゃない。
理解の目だ。
理解してしまった者の目。
(ああ、そうか)
その目が言っている。
救われるのが当然じゃない。
命が、値札で守られる世界じゃない。
救えるのに救わない者がいる。
その現実が、母の皮膚を初めて刺した。
母の唇が震える。
声が掠れる。
「……なぜ……?」
なぜ。
その問いは、今さらすぎて滑稽だった。
でも滑稽であることが、残酷でもある。
エリシアは答えない。
答えたら、物語になる。
“娘が母に復讐した”という物語に。
そんな甘い形で終わらせたくない。
これは裁きじゃない。
これは因果だ。
天罰は裁きではなく、因果。
管理する薬は、壊す毒へ反転する。
人を管理した者は、管理されない現実に壊れる。
父が一歩踏み出した。
「貴様……何者だ!」
声が大きい。
救護所の天井が震えそうな怒号。
威圧で現実をねじ伏せようとする声。
「協会の命令に従って治療しているのだぞ! 貴様の勝手な感情で――!」
勝手な感情。
エリシアは心の中で笑った。
自分が感情で動いているなら、もっと前に叫んでいる。
泣いている。殴っている。
でも今の自分は、ただ線を引いているだけ。
エリシアはフードを外さない。
正体を明かす必要がないから。
名を名乗る必要もない。
この場で必要なのは、結果か、選択か、そのどちらかだけ。
「治療は、優先順位があります」
エリシアは淡々と言った。
正論の形にする。
そうすれば、相手は怒りをぶつける場所を失う。
「今、救護所には命が尽きかけている人が何十人もいます。あなたの奥さまは――まだ死なない」
残酷な言い方。
でも事実。
事実は冷たい。
冷たいからこそ、揺らがない。
父の顔が赤くなる。
「貴様ァッ……!」
ルーカスが父を制するように言った。
「父上、ここで揉めれば協会の目が……!」
兄の声は焦っている。
名門の体裁を守るための焦り。
母を救いたい焦りじゃない。
リーナが小さく声を漏らした。
「……お願い……やめて……」
その声は、初めて“自分の罪”を抱えた声だった。
でも誰もそれを拾わない。
救護所は、個人の懺悔を受け止める余裕がない。
母は、震えながらもエリシアの影を見上げ続けた。
目はまだ娘を見ていない。
でも今、初めて“この影が拒絶している”という事実を理解した。
拒絶される痛み。
それは彼女がずっと他者に与えてきた痛みだ。
「……私は……私は……」
母の声が崩れる。
言葉が続かない。
続けたら、真実が溢れる。
自分が何をしたか、何を混ぜたか、何を見ないふりをしたか。
それを言ったら、もう完璧な妻ではいられない。
だから彼女は、震えながら、ただ繰り返す。
「……助けて……お願い……」
助けて。
その言葉が救護所の空気に落ちるたび、エリシアの胸の奥の鈴が鳴る。
冷たく、澄んだ音で。
チリン。
それは心の中の扉が閉まる音でもあった。
復讐心が刃になる音ではない。
無関心の線が引かれる音。
治せる。
救える。
それでも救わない。
その現実が、ラウフェン家の誇りを粉々にする。
名門は救えない。
薬も、威圧も、涙も、役に立たない。
救えるのに救わない者がいる。
その事実だけが、彼らの世界を静かに崩していく。
母の身体が小さく痙攣し、呻きが漏れた。
匂いが刃になり、音が刺さり、光が痛む。
崩壊は続く。
誰も止められない。
グレゴールは拳を握りしめた。
怒りで震えているのに、何もできない。
命令が通じない相手を前に、当主の椅子の力がただの木に戻っていく。
ルーカスは歯を噛んだ。
理解できない。
理解できないから、憎む。
憎むしか、自分を保てない。
リーナは、目を見開いたまま立ち尽くした。
涙が効かない世界で、初めて本物の恐怖を知った目。
そしてエリシアは、フードの影のまま次の患者へ向かった。
名門の崩壊を背中で聞きながら、淡々と手を動かした。
天罰は、裁きではない。
ただの因果。
壊したものが、壊れ返ってくる。
救われるはずだと信じていた者が、救われない現実に触れる。
それが、治さないという天罰。
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