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第20話:鈴の音を抱いて、それでも生きる
しおりを挟む雨は、優しくない。
優しくないくせに、やけに丁寧だ。
屋根を叩く音の粒が、昔の記憶の輪郭をきれいに撫でて、起こして、整えて、こちらに差し出してくる。
――ほら、見て。忘れたふりしてたでしょ。
そんな顔をして、夜を濡らす。
エリシアは、喉の奥がひゅっと縮む感覚で目を覚ました。
暗い部屋。薪の匂いは薄く、湿った木の匂いが混じっている。
隣で寝息が聞こえるはずなのに、耳が雨音に支配されて、音の距離が分からなくなる。
石畳が、蘇る。
冷たい雨。
路地の壁。
濡れたパンの包み紙。
甘い後味――あの、最悪に甘い味。
喉の奥に、毒の記憶が貼りつく。
舌が冷たくなり、胃の底が熱くなって、それから一気に氷になる。
呼吸が浅くなる。
胸が狭くなる。
自分の身体が、十七歳の夜へ引きずられていく。
(やめて)
口に出せない。
出したら、今のこの部屋が割れてしまう気がした。
手が冷える。
指先の感覚が遠のく。
布団の温度が消えて、背中に石畳の冷たさが貼りつく。
胸の奥で鈴が鳴った。
チリン。
冷たく澄んだ音。
怒りの音じゃない。
泣きたい音でもない。
ただ、確かめる音。
「生き延びた」という証明の音。
エリシアは膝を抱えて、息を数えようとした。
一、二、三。
数えるほどに、空気が入らない。
呼吸が薄い布みたいに破けそうになる。
そのとき、隣の布が擦れた。
ライルが起きた。
寝返りの音じゃない。
起きる音だ。
迷いのない、でも焦りを含んだ音。
彼は何も言わずに立ち上がった。
足音が静かに床を踏む。
火打ち石の乾いた擦過音。
火がつく。
薪がぱち、と弾ける。
その音が、エリシアの胸に一本の杭みたいに刺さった。
“いま”を留める杭。
鍋に水を注ぐ音。
小さく揺れる水面。
沸くまでの沈黙。
雨音がその沈黙に入り込んで、また石畳を連れてこようとする。
エリシアの喉が震えた。
息が、また浅くなる。
次の瞬間、ライルの手が灯りの影から差し出された。
湯呑み。
湯気が、ふわりと形を持つ。
生姜の匂いが鼻の奥を叩いた。
刺激。
痛みではなく、輪郭を取り戻す刺激。
ライルは言わない。
「大丈夫」って言葉を使わない。
大丈夫じゃない夜を、彼は否定しない。
代わりに、短く言った。
「……いる」
それだけ。
主語も要らない。
約束も要らない。
ここにいる、という事実だけを差し出す。
エリシアは震える手で湯呑みを受け取った。
陶器の熱が指先に染み込む。
冷えた指が、少しずつ“今”の温度を思い出す。
湯気を吸う。
あたたかい。
雨の匂いが少し薄くなる。
石畳の冷たさが、ほんの一歩遠のく。
一口、飲む。
舌が生姜の刺激で目を覚ます。
二口。
喉が熱を覚える。
毒の記憶が、湯の熱に押されて奥へ退く――消えないまま、でも、いまは主役じゃなくなる。
エリシアは湯呑みを持ったまま、息を吐いた。
吐けた。
さっきより深い息。
胸の奥で鈴が鳴る。
チリン。
消えない。
消える気配もない。
この鈴は、私の中に根を張っている。
憎しみも、まだある。
許さない。忘れない。
あの夜を作った手も、目を伏せた顔も、笑った声も。
でも――。
エリシアは、ふと気づいた。
この鈴の音を「汚れ」だと呼んだ瞬間、また自分を捨てることになる。
前世でそうやって捨てられた。
“無能”だと納得させられて、自分で自分を折った。
折らない。
今夜は、折らない。
ライルは湯呑みを受け取って、火を弱めた。
火が落ち着く音。
雨音が、少しだけ背景に退く。
「……夢?」
ライルが小さく聞いた。
詮索じゃない。
診察でもない。
ただ、隣に立つ人の確認。
エリシアは頷いた。
言葉にすると喉が痛いから、頷きで十分だった。
ライルはそれ以上聞かなかった。
代わりに、布団を少しだけ引き上げて、エリシアの肩に掛け直した。
子ども扱いでも、看護でもない。
当たり前の手つき。
生活の手つき。
その手つきが、胸に残る。
怒りでも、復讐でもない温度が、胸の奥の鈴の音に混ざっていく。
エリシアは、ぽつりと呟いた。
「……消えないんだ」
鈴が。
記憶が。
毒の味が。
ライルは、少しだけ笑った。
笑うというより、息を柔らかくした。
「消えなくていい」
その言葉は慰めじゃない。
「忘れろ」じゃない。
「許せ」でもない。
ただの許可だった。
抱えたまま、生きろという許可。
エリシアの目の奥が熱くなる。
泣かない。
でも、泣かないことが強さじゃないと知っている。
泣いてもいい夜は、いずれ来る。
今日はまだ、湯の熱で十分だ。
*
朝。
雨は止んでいた。
濡れた土が黒く光り、空気が澄んでいる。
畑の匂いがする。
薪の匂いがする。
薬草を干した乾いた葉の匂いがする。
エリシアはいつも通りに起きた。
髪を結び、袖をまくり、棚を開ける。
薬草の束が並び、匂いが言葉になる。
『冷やせ』
『落ち着け』
『流せ』
『通せ』
鈴は鳴っている。
チリン。
胸の奥で、確かに鳴っている。
でもその音は、今日の手を止めない。
止めないどころか、支えになる。
これは汚れじゃない。
生き延びた証だ。
だから、抱いて動く。
戸を叩く音がする。
「エリシア! 子どもが熱で……!」
エリシアは返事をして、鍋に水を張った。
火を入れる。
薬草を選ぶ。
薄荷、炎症を抑える草、流れを作る刺激を少し。
匂いが“方向”を指さす。
調合して、飲ませる。
汗が出る。
熱が引く。
呼吸が戻る。
誰かの熱を下げるために。
誰かの痛みをほどくために。
そして何より――
自分が「生きる」と決めた理由を、今日も更新するために。
石畳の冷たさは、消えない。
雨が降る夜は、十七歳が蘇る。
鈴は鳴り続ける。
それでもエリシアは、その音を抱いたまま選び続ける。
冷たさの向こう側で、温度のある未来を。
奪われるためじゃない。
管理されるためでもない。
自分の手で、誰かを救うために。
そして――自分自身を、今日も捨てないために。
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