「地味で役立たず」と言われたので村を出たら、隣国で神扱いされました ──ヒトとして愛を掴みます──

タマ マコト

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第1話「追放の鈴が鳴る夜」

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 朝霧が畑に薄く張りついていた。

 収穫祭を明日に控えたロウエン村は、どこもかしこも忙しなく、人の声が風よりも先に走っていく。

 圧搾機小屋の戸ががらりと開き、油と果実の匂いが外へ吐き出された。

「ユリウス! 手を離せ、危ない!」

 大人たちの怒鳴り声。
 次の瞬間、鈍い音が木壁に跳ね返り、悲鳴が続いた。

 リセル=フィーネは反射的に駆け出していた。

 裾を摘んで小屋へ飛び込むと、圧搾機のレバーに挟まれた青年がうずくまり、顔を真っ青にしている。
 領主の息子、ユリウスだ。

 手の甲には深い傷。血が果汁に混ざって、甘い匂いを増幅させていた。

「どいてください」

 彼女は膝をつき、震える呼吸を整える。
 肩口から吊した小さな革袋から布と薬草を取り出し、傷口を押さえた。

「痛い、痛い、痛い……!」

「痛いね。いま布を当てる。呼吸、ゆっくり。吸って、吐いて」

 彼の目が焦点を失って揺れる。
 恐怖が体の奥で暴れているのが、手に伝わってわかる。

 リセルは自分の手の温度を意識し、彼の手首に掌を重ねた。

「ここにいるよ。目を閉じて、音を数えて。私の声だけ聞いて」

 外では誰かが走り、誰かが怒鳴り、誰かが泣いている。
 圧搾機の木枠が軋み、濁流のようなざわめきが青年の鼓動をさらに煽る。

「フィーネ、やめろ。そんな慰めで傷が塞がるか」

 長老のグラースが背後で吐き捨てた。
 リセルは顔を上げない。

「血を止める布がいるわ。清潔なものを貸して」

「清潔? 笑わせるな。お前の手を離せ」

 肩を乱暴に引かれ、リセルは半歩よろめいた。
 だがユリウスはその瞬間、子どものような声で彼女の袖を掴んだ。

「……離れないで」

「離れない」

 リセルはそっと微笑む。

 薬草の匂いに、果実の甘さと油の重さが重なる。
 彼女は深く息を吸い、声の調子を落としていく。

「波を思い出して。畑の向こうの川。水面、風で揺れてたよね。
 吸って……吐いて。そう、うまい」

 脈が、ほんの少し落ち着く。
 傷は深いが、致命ではない。問題は恐怖だ。

 恐怖が痛みを増殖させ、体を固める。
 リセルの力は、そこに触れることができる。

 けれどそれは、目に見えない。

 長老の舌打ちが空気を切る。

「領主様にはどう申し開きする? 収穫祭の前日だぞ。おい、薬師を呼べ!」

「ここにいるわ」

「お前など見習いの、しかも治せぬ女だ!」

 言葉は刃物だ。
 だがリセルは、その刃の冷たさを受け入れ、心の内に置く。

 刃は中空に漂い、重さを失っていく。

 彼女は再びユリウスの手首に触れ、低く数えた。

「一、二、三。吸って。四、五、六。吐いて」

 ユリウスの呼吸が整いはじめる。震えが小さくなる。
 リセルは布を巻き直し、圧搾機のレバーから距離をとらせる。

 彼の瞳に、ようやく焦点が戻ってきた。

「……大丈夫。生きてる」

「あぁ……」

「氷水を少し。誰か、持ってきてください」

 返事はない。沈黙が重く落ちた。

 長老は腕を組み、唇の端を歪める。

「目に見える癒しを見せてみろ、リセル。
 お前が“本当に”役に立つなら、いま傷を塞がるようにしてみせよ」

 リセルは首を振る。

「私の力は、傷口を閉じるためのものじゃない」

「結局、慰めしかできぬ地味な女か」

 ユリウスがまた震えはじめた。
 彼は他の視線を恐れている。責める声を、期待を、失望を。

 リセルは彼の耳元に囁く。

「誰も見ていない。いまは私とあなただけ。大丈夫だよ」

 彼はこくりと頷き、瞼を閉じた。

 リセルはその手を包み、血の匂いの向こうに、畑の土の匂い、新鮮な林檎の酸味を思い描くよう誘った。

 数分後、ユリウスの呼吸は眠りのそれに変わっていた。

 沈黙が崩れたのは、そのときだった。

「こんな茶番、時間の無駄だ!」

 長老の怒声とともに、大人たちの目が一斉にリセルへ向く。

 彼女は立ち上がり、布に滲んだ赤を見下ろし、指先をそっと拭った。

「手当ては終わりました。あとは安静にさせて。恐怖が戻らないよう、家族の人は——」

「黙れ!」

 その日の夕刻、村の広場に人々が集められ、
 黄昏に鈴の音が干からびたように響いた。

 追放のときに鳴らす古い鈴——よそ者に戻ることを記す音だ。

 焚き火の赤い粒が、冷たい空気に揺れている。
 長老が立ち、杖で地面を叩いた。

「リセル=フィーネ。お前は見習いを名乗りながら、一つの傷も治せぬ。
 慰めだけで村の役に立たない。本日の件で、収穫を遅らせ、皆に不安を与えた。
 ゆえに——追放とする」

 ざわめきは短く、ため息は長かった。
 誰も止めない。彼女を庇う声はない。

 幼い頃から共に育ってきた顔が、みな遠くに見えた。

 ミーナが唇を噛んでいた。
 彼女の目だけが、泣きそうに揺れている。

 リセルは火の粉を見つめ、胸の奥にある薄い灯りを確かめた。
 恐怖はあった。悔しさも、少し。
 けれど、折れる感じはしない。折れるための関節が、そこにはない。

「リセル。言い分があれば聞こう」

 長老が食い気味に言う。

 リセルは首を横に振り、皆の顔をゆっくり見渡した。
 暗い瞳の海。彼女は一歩前に出る。

「言い分はありません」

 ざわ、と空気が動く。

「ただひとつ、お願いがあります」

「何だ」

「この村に、“痛い”と声に出せる場所を、ひとつだけ残してください。
 怪我でも、怖さでも、悔しさでも。
 黙って飲み込むと、心の中で腐って、体まで悪くなります。

 誰かが話せば、別の誰かが楽になります。
 私がいなくても、そういう場所は必要です」

 沈黙。炎のはぜる音。遠く、犬が吠える。

 長老は冷ややかに肩をすくめた。

「祭りの前に湿っぽい話をするな。お前の“慰め”など、酒一杯にも劣る」

 笑いが起き、すぐに消えた。
 ミーナが小さく首を振る。

 彼女の隣で、ユリウスの姿はなかった。
 きっと家で寝かされているのだろう。

 彼の母親は、人混みの後ろで目を逸らした。

「以上だ」

 鈴がまた鳴った。
 乾いた金属の音が、夕焼けから夜へ橋を架ける。

 リセルは頭を下げ、背筋を伸ばす。

「今夜のうちに発ちます。お世話になりました」

 誰も止めない。誰も近づかない。

 風が焚き火の煙を押し、彼女の髪を撫でる。
 髪に、煙と果汁の匂いが絡みつく。

 家に戻ると、荷は少ないことに改めて気づいた。

 布袋、薬草、清潔な布、母の形見の小さな鈴。

 机の上の記録帳は、ほとんど白紙のまま。

 彼女はそれを手に取り、最初のページに短く書いた。

〈きょう、追放を言い渡された。私は、明日も誰かの痛みに触れたい〉

 字は震えず、紙は乾いている。
 蝋燭の火が小さく泣いた。

 リセルはそれを吹き消し、戸を閉めた。

 家の中の空気は、終わりの匂いがした。
 けれど同時に、始まりの匂いもした。

 湿った土の匂い。夜露の匂い。

 外は、もう雪が混じっていた。
 星は薄く、雲は重い。

 村の外れに伸びる細い道は、踏み跡が少ない。

 彼女はその道に足を乗せ、背中の荷を確かめる。

「ミーナ!」

 か細い声。振り向くと、ミーナが息を切らせて走ってきた。
 赤いマフラーが夜気を裂いている。

「……ごめん。止められなかった」

「ミーナのせいじゃないよ」

「違うの。ねえ、これ。パン。冷めてるけど、道で食べて」

 紙包みの温度は、ほとんど残っていない。
 それでも重さが温かい。

 リセルは受け取り、笑った。

「ありがとう」

「リセル……」

 ミーナは言葉を探し、結局、抱きしめてきた。
 彼女の肩が震える。リセルは背中を撫でた。

「痛いって言って」

「……痛い。ぜんぶ、痛い」

「うん。痛いね」

 そのやりとりに、特別なものはない。
 けれど、それこそが彼女の力だとリセルは思っている。

 痛みを存在させること。否定しないこと。
 痛みの居場所を作ること。

 離れると、ミーナは鼻をすすった。

「……行かないでって言いたいけど、それは私のわがままだから言わない。
 戻ってきてとも言わない。あなたが決めることだもん」

「またいつか、どこかで会えるよ」

「うん」

 ミーナは小さな鈴を取り出した。

「お母さんの?」

「形見。持っていく」

「鳴らして。あなたの音、覚えておく」

 リセルは鈴を軽く振った。

 控えめな音が、夜の皮膚を撫でていく。
 ミーナの目が潤んだまま笑う。

「気をつけて」

「ミーナも」

 別れは短い方がいい。

 リセルは踵を返し、村の外へ歩き出す。
 足音は雪に吸われ、世界は静かになっていく。

 彼女は歩調を崩さず、呼吸を深くした。
 吐く息が白い花のように開き、すぐにしぼんだ。

 村の明かりが背後に小さくなる。
 畑の並びが闇に溶け、遠くの森が黒い塊として立ちふさがる。

 冷えが足先から上がってくるたび、掌の中心にさざ波のような温かさが広がった。

 それは、いつからそこにあるのだろう。
 子どもの頃から、泣いている友だちの背中に触れると、自分の手の中だけ少し春になる、あの感じ。

 誰もそれを“魔法”とは呼ばなかった。
 役に立つとも言われなかった。
 けれど、なくなったことは一度もない。

 リセルは歩きながら、そっと掌を開いた。

 闇の中、見えるはずのないものが見える気がした。
 灯芯のない小さな灯。色のない火。風が吹いても消えない弱さ。

「大丈夫」

 自分に言ったのか、夜に言ったのか、わからない。
 言葉は白い息になり、すぐ消えた。

 彼女は笑う。

 笑う理由は、道の先にある。

 誰も知らない隣国セレノア。王都。神殿。人混み。

 未知は恐ろしいが、未知にしか、あの場所はない。

 ——“痛い”と声に出してもいい場所。

 森の入口で、雪がふいに強くなった。
 夜の匂いが濃くなり、梢が軋む。

 リセルは一歩を止め、周囲を見回した。

 帰るなら、いま。

 戻れば、明日はいつも通りの朝。
 収穫祭の音楽、笑い声、焼き菓子の匂い。

 だけどそこに、彼女の居場所はない。

 選ぶのは一度でいい。
 彼女は足を踏み出した。

 その瞬間——掌の中心で、微かな温度がふっと強まった。

 手のひらが、雪の冷たさを忘れる。

 リセルは指を握り、足元を見た。

 薄く積もった雪の上に、丸い跡がひとつ、濡れたように溶けている。
 そこだけ春が、点のように降りている。

 息を呑む。足跡ではない。足跡の脇だ。

 雪が一筋だけ細く溶け、黒土が露わになっていた。

 彼女が膝をつくと、黒土の真ん中に、小さな芽が顔を出している。

 冷たい空気が頬を撫で、髪の先を鳴らした。

「……どうして、いま?」

 芽は震え、殻を破った。

 つやのある緑が広がり、つぼみが、夜のくちびるのように閉じたまま、ゆっくりと膨らんでいく。

 空気が凍りついているのに、その一点だけが春の匂いを持っていた。

 リセルは息を止めた。

 風が、遠い鐘の音のように森を渡っていく。
 彼女の掌の中で、柔らかな温度がじんわりと広がっていった。

 つぼみが、音もなく、ひらいた。

 青い、小さな花だった。
 光の粒を宿したような花弁が、夜の闇に淡く揺れている。

 青は冷たいはずなのに、不思議と胸の奥が温かくなる。
 涙ではない。泣いていない。
 ただ、そこに“生まれる”ということが、あまりに静かで、美しかった。

 リセルは掌を握りしめ、そして、そっと微笑んだ。

「——行くね」

 小さく、夜に言葉を置く。

 花は当然、答えない。
 けれど、風が頬を撫で、まるで「うん」と返すように揺れた。

 それだけで十分だった。

 リセルは立ち上がり、背負い袋の紐を締め直す。
 風が一段階冷たくなり、雪が舞い上がる。

 彼女の髪が、白い息と一緒に揺れた。

 青い花は足元に残ったまま。
 小さな灯りのように、雪の中で夜明けを待っている。

 その光景を一瞬だけ振り返り、彼女はまた前を向いた。

 遠くで、梢の間を渡る風が鈴のような音を立てる。
 それが村の鈴の音ではないと、リセルはすぐにわかった。

 あれは——はじまりの音。

 踏みしめた雪がきゅっと鳴る。
 一歩、また一歩。

 暗い森の中に、細い道が続いている。
 月明かりは雲に隠れ、世界は深い青に沈んでいた。

 それでも、怖くはなかった。
 掌の中に残る温もりが、彼女を導いている。

 風に溶ける息のひとつひとつが、祈りのようだった。

「誰かの痛みを、消すんじゃなくて——
 抱きしめられる手になりますように」

 声は雪に吸い込まれ、闇の奥へ流れていった。

 リセルの足跡が、まっすぐに伸びていく。
 その後ろで、ひと筋の雪が、細く細く溶けていた。

 まるで、彼女の歩いた跡を春が追いかけているみたいに。

 夜明け前の空に、わずかな明るみが滲む。
 空の色が灰から群青に変わっていく。

 リセルは一度だけ振り返った。

 村はもう見えない。
 焚き火も、鈴の音も、声も、すべて雪に包まれている。

 それでも、彼女の胸の中では、確かに何かが続いていた。

 あの花の青。
 ミーナの涙の温度。
 ユリウスの震える手。

 そして、「痛い」と言えた小さな勇気。

 それら全部が、彼女の中でひとつの灯になっている。

 風が強くなり、マントがはためいた。

 リセルは目を細め、深く息を吸った。

 寒さは刺すようだったが、どこか心地よい。
 それは、生きている痛みの証のようだった。

 雪の上を歩く足音が、森の奥へ遠ざかる。
 やがて、木々の間から一筋の光が差し込み、彼女の髪を照らした。

 雪の結晶がその光を反射して、ふわりと宙を舞う。

 リセルはその光を見上げながら、小さく呟いた。

「ありがとう」

 誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。

 けれど、確かに誰かが応えた気がした。

 森の奥から、鈴のような風の音がもう一度響く。

 その音を背に受けて、リセル=フィーネは歩き続けた。

 彼女の後ろで、雪が静かに溶けていく。
 そしてそこに、もう一輪、小さな青花が芽を出した。

 ——それは、彼女の旅の始まりを告げる花だった。
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