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第1話 笑顔の癖と、天蓋の影
しおりを挟む帰り道のコンビニは、いつも同じ顔をしている。
白すぎる蛍光灯。冷えた空気。レジ横の揚げ物の匂い。
その全部が、今日の私にはやけに刺さった。
「温めますか?」
店員の声が、遠い。
私は反射で笑って、頷く。
「お願いします」
自分で言った言葉なのに、どこか他人の声みたいだった。
温められた弁当の湯気が、ビニールの内側で曇っていく。
それを見ていると、なぜだか胸がきゅっと縮む。
……ああ、私、今日も帰ってきたんだ。
“帰る場所”というより、“戻る箱”に。
袋の持ち手が指に食い込む。
軽いはずの弁当が、妙に重い。
重いのは弁当じゃなくて、きっと、今日一日だ。
駅から自宅までの道は短い。
なのに、歩くたびに疲れが靴底から身体に上がってくる。
背中の中央に見えない荷物を背負っているみたいで、肩がいつも痛い。
スマホが震える。
画面には、会社のグループチャット。
【明日の資料、急だけど直しお願いできる?】
【助かる!ほんと頼りになる】
【いつもありがとう~】
私の指が勝手に動く。
【了解です。やりますね】
送信してから、少し遅れて気づく。
……私、明日も早いんだよ。
でも「無理です」って言うと、空気が変わる。
空気が変わると、私の居場所が変わる。
居場所。
それは、与えられるものじゃなくて、奪われないように守るものになってしまった。
部屋の前に着く。
鍵を差し込んで、回して、ドアを開ける。
「ただいま」
誰もいないのに口に出す。
出した瞬間、部屋の静けさが私の声を吸い込んで、余計に虚しくなる。
靴を脱ぐ。
玄関の鏡に、一瞬だけ自分の顔が映る。
口角が上がっている。
……え?
誰もいないのに。
誰にも見られていないのに。
私は、微笑んでいた。
その事実が、背筋をぞくりと冷やした。
笑顔は“顔”じゃない。癖だ。
無意識に、自分を守るために貼り付けた薄い膜。
喉の奥が、痛い。
言葉が詰まっているみたいに、熱い。
私、いつからこんなふうになったんだろう。
いつから、傷つかないために笑うようになったんだろう。
部屋の灯りをつける。
小さなワンルーム。
白い壁。
乾いた空気。
洗濯物の匂いと、昨日の柔軟剤。
弁当をテーブルに置き、鞄を床に投げる。
投げた瞬間、自分の荒っぽさにびっくりする。
普段なら丁寧に置くのに。
丁寧に、丁寧に、壊れないように。壊さないように。
私はレンジで温め直す気にもなれず、弁当の蓋を開ける。
湯気がふわっと立って、醤油の匂いが鼻をくすぐる。
……食べなきゃ。
生きるために。
箸を取る。
一口、口に運ぶ。
味がしない。
いや、味はある。
ただ、私の方が空っぽで、味を受け止める場所がない。
スマホがまた震える。
【ごめん!ついでにこっちも見て!】
【ほんと助かる~】
助かる、助かるって。
誰が?
私は?
口の中のご飯が、紙みたいに乾く。
飲み込むのに時間がかかる。
喉が狭くなっている。
私は箸を置いて、ソファに倒れ込んだ。
背中が沈む。
天井が白い。
まぶしいほど白いのに、冷たい。
このまま目を閉じたら、明日が来ないんじゃないか。
そんなことを思った瞬間、怖くなる。
怖いのに、どこかでほっとしてしまう。
その自分が、いちばん怖い。
私はベッドに向かってよろよろ歩く。
上着も脱がないまま、布団に倒れた。
枕が少し湿っている。昨日の涙か、今日の汗か、わからない。
息を吸う。
吐く。
吸う。
吐く。
胸の奥が、じわじわと焼けるみたいに痛む。
そこに言葉が溜まっている。
吐き出したいのに、吐き出す相手がいない。
私は天井に向かって、ひとつだけ呟いた。
「……もう、頑張れない」
言った瞬間、涙が出ると思った。
でも涙は出ない。
代わりに、頭の中の糸がぷつんと切れる感覚がした。
音が遠のく。
身体が重くなる。
視界が薄くなる。
――眠い。
ただ眠い。
そして、意識は、ふっと途切れた。
*
最初に戻ってきたのは、匂いだった。
甘い。
花と木と、知らない香りが混ざったような、重たくて優雅な匂い。
次に感じたのは、布の感触。
肌に触れるシーツが、いつもの安い綿じゃない。
滑らかで、ひんやりして、触れた指が贅沢に沈む。
……ここ、どこ?
目を開けた。
天井が高い。
白い天井に、金色の装飾。
天蓋が、柔らかな布で揺れている。
え、なにこれ。ホテル?
いや、ホテルにしては、空気が古い。
歴史の匂いがする。
木の香りと、蝋燭の煤の残り香。
「お嬢様……? お目覚めでございますか?」
声がした。
驚いて身体を起こそうとした瞬間、自分の腕が視界に入る。
……細い。
白い。
指が長い。
爪が整っている。
私の腕じゃない。
「……え?」
声が、違う。
少し高い。
若い。
心臓がどくん、と跳ねる。
怖い。
怖いのに、目が離せない。
私はベッドから降りようとして、足が布に絡まった。
足首に触れた布は、絹みたいに滑る。
慌てて起き上がり、周囲を見回す。
大きな鏡がある。
真っ直ぐ立って、全身が映る、豪奢な鏡。
私は、ふらふらとそこへ近づいた。
鏡の中にいたのは――
少女だった。
銀に近い淡い金髪が、ゆるく波打って肩に落ちている。
瞳は薄い青。
頬は柔らかくて、唇は小さい。
肌は陶器みたいに白い。
十五歳くらい。
……誰?
鏡の中の少女が、私と同じ動きで瞬きをした。
背筋を氷でなぞられたみたいに、ぞわっと寒気が走る。
「……私、誰……?」
声が震える。
喉が乾く。
後ろから、足音。
すぐ近くに人の気配が寄ってくる。
振り返ると、メイド服のような服を着た女性が立っていた。
二十代前半くらい。
黒髪をきっちりまとめていて、表情は穏やか。
けれど、その穏やかさが“仕事の顔”だと、なぜかわかってしまう。
前世で何度も見た、感情を丁寧に隠す顔。
「お嬢様、どうかなさいましたか? お顔色が……」
彼女は心配そうに言う。
心配そう、という形をしている。
「……ここ、どこ? あなた、誰?」
現代の言葉が出た。
自分でも驚くほど、直球だった。
女性は一瞬だけ目を見開いて、すぐに膝を折った。
「恐れながら……わたくしは侍女のアドミラ・スピナでございます。
ここはアヴェニス家の屋敷。お嬢様のお部屋でございます」
……アヴェニス家?
お嬢様?
頭の中が真っ白になる。
でも、その白の端っこから、じわじわと黒い文字が浮かんでくるみたいに、言葉が湧いてくる。
リュミエール。
アヴェニス。
王太子。
婚約者。
社交界。
聖女候補。
知らないのに、知っている。
初めて聞くのに、喉が覚えている。
「……リュ、ミエール……?」
自分の口から名前が落ちた瞬間、胸の奥が少しだけ静まった。
鍵穴に鍵が入る感覚。
合ってしまうことが怖い。
アドミラは、ほっとしたように微笑む。
「はい。リュミエール・アヴェニス様。
……よかった。お名前を思い出されたのですね」
その言い方が引っかかった。
“思い出された”。
まるで、忘れることが前提みたいな言い方。
「私……さっきまで、別の場所に……」
言葉が途切れる。
現代日本。会社。コンビニ。弁当。
全部が、急に遠い。
夢だったみたいに、輪郭が溶ける。
でも、あの重さだけは残っている。
胸の奥の、炭みたいに黒い疲れ。
アドミラは、鏡越しに私を見て、静かに言った。
「お嬢様。本日も、王太子殿下の御前へ参られます。
お支度を急ぎましょう。……遅れれば、よくない噂になります」
“よくない噂”。
その言葉が、妙に現実味を帯びて突き刺さる。
私は鏡の中の少女――リュミエールの顔を見つめた。
瞳が揺れている。
怖い。
でも、泣きそうで泣かない。
この顔は、きっと“泣かない練習”をしてきた顔だ。
そして、その泣かない顔が、前世の私の笑顔と重なった。
誰にも見られていないのに笑ってしまう癖。
誰にも見られていないのに泣けない癖。
逃げたはずなのに、
私はまた“役割”の中に立っている。
「……王太子、殿下……」
口にすると、胸が冷える。
会ったことがないのに、なぜか怖い。
怖いのに、同時に“認められなきゃ”という焦りが湧く。
その焦りがいちばん嫌だった。
また、同じことをするの?
また、空気を読んで、期待に応えて、笑って――?
アドミラがドレスを持ってくる。
白い布に淡い金糸の刺繍。
美しい。
美しすぎて、息が詰まる。
「こちらをお召しくださいませ。殿下がお好みの色でございます」
殿下がお好み。
その一言で、ドレスが鎖に見えた。
私は唇を噛んだ。
噛んだのに、痛みが遠い。
現実感が薄い。
でも、香りと布の感触だけはやけに鮮明だ。
「……私、今……生きてるの?」
思わず漏れた声は、幼い。
情けないほど弱い。
アドミラは一瞬だけ目を伏せ、すぐにいつもの穏やかな顔に戻った。
「はい、お嬢様。
……生きていらっしゃいます。だからこそ、今日を乗り越えましょう」
乗り越えましょう、だって。
まるで、今日が何かの壁みたいに。
私はふっと笑いそうになった。
癖で。
自分を守るための、薄い膜で。
でも、今回は止めた。
喉の奥が痛くなる前に、呼吸を深くした。
「……アドミラ」
「はい」
「私、ちょっとだけ、深呼吸していい?」
アドミラは驚いたように瞬きして、すぐに頷いた。
「もちろんでございます」
私は窓辺に近づき、カーテンの隙間を開けた。
外の光が差し込む。
眩しい。
でもコンビニの蛍光灯みたいな冷たさじゃない。
朝の光だ。生き物の匂いがする光。
庭には噴水があり、鳥が鳴き、遠くに街の屋根が見える。
世界が広い。
そして、私はそこに“居る”。
息を吸う。
香木と、草の匂い。
吐く。
胸の奥の黒い疲れが、少しだけ薄くなる。
それでも、怖い。
怖さは消えない。
でも――
私は鏡に映る自分を、もう一度見た。
十五歳の顔。
若い皮膚。
新しい身体。
でも、目の奥にいるのは確かに私だ。
人生が、別の皮膚をまとって再起動した。
その事実は、恐怖と同時に、ほんの少しの可能性を連れてくる。
もし、ここが二度目なら。
もし、私がまたやり直せるなら。
今度は、笑顔の癖じゃなく、
自分の意志で、笑ってみたい。
アドミラが背後で言う。
「お嬢様。支度を始めましょう。
本日も王太子殿下の御前へ」
私はゆっくり頷いた。
頷きながら、胸の中で小さく呟く。
――大丈夫。
私は、私のまま。
そして、まだ何も知らないまま、
“王太子殿下”という名の扉へ向かって、歩き出した。
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