婚約破棄から始まる、異世界スローライフと年下魔王の本気恋

タマ マコト

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第18話:謝罪と、触れられる許可

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 夜の庭から戻った後、アリアはひとつだけ確信していた。

 自分の中の“熱”は、もう絶望だけのものじゃない。
 壊すためだけの燃料じゃない。
 育てる方向にも流せる。

 それでも、胸の奥に残っているものがある。
 黒い煤みたいに、こびりついて取れないもの。

 ――迷惑をかけた。
 ――危険に巻き込んだ。

 それは疲労でも安堵でもなく、
 もっと粘ついた罪悪感だった。

 謝らなければ、と思う。
 謝れば許されると思っているわけじゃない。
 ただ、謝らないまま隣にいるのが怖い。
 怖いから謝る。

 その癖を、アリアはまだ捨てられない。

 ティータイムの時間は、今日も同じに訪れた。
 湯気の上がる音。
 カップの縁に光が当たる音のない煌めき。
 この儀式は、心の縫い目だ。

 ミリィは珍しく置き逃げをしなかった。
 菓子を置いて、アリアの顔を見て、唇をもごもごさせる。

「……今日、魔王様来るよ」

「……うん」

「……ちゃんと、話してね」

「……うん」

 ミリィは頷いて、ようやく出ていった。
 背中が小さい。
 小さい背中が、頼もしいのが悔しい。

 ヴァルグリムはいつも通り湯の温度を整えた。
 今日の香りは、少しだけ甘くて、少しだけ冷たい。
 心臓が暴れないように。
 言葉が詰まらないように。

 アリアはカップを両手で包んだ。
 温度が指先から胸へ伝わる。
 その温度が、逃げ道を作る。

 ノック。

 控えめで、硬いノック。
 迷いがあるふりをして、迷いがないノック。

「……入る」

 ルシフェルの声。

 扉が開く。

 ルシフェルは、いつもの黒い外套を纏っていた。
 髪は先日ほど整えすぎてはいない。
 でも乱れてもいない。
 彼なりの“自然”に戻してきたのが分かる。
 表情はいつも通り薄い。
 薄いけれど、目だけが少し柔らかい。

 アリアの胸が、きゅっと縮んだ。

 恋の痛みじゃない。
 罪悪感の痛み。
 言わなければいけない言葉が、喉の奥に棘みたいに刺さっている。

 ルシフェルは椅子に座らず、テーブルの前で止まった。
 逃げ道を塞がない距離。
 あの人はいつも、距離で優しさを作る。

「……体調は」

「……大丈夫」

 反射で言ってしまった。
 言った瞬間に、昨日の自分を思い出して、恥ずかしくなる。
 大丈夫じゃない時に大丈夫と言う癖。
 でも今日は、別の言葉を続けた。

「……じゃない。まだ少し、震える」

 言えた。
 それだけで、胸の奥が少し軽くなる。

 ルシフェルの目が一瞬だけ揺れた。
 揺れて、すぐ落ち着く。

「……そうか」

 それだけ。
 それ以上踏み込まない。
 踏み込みたいのに踏み込まない顔をしている。
 その自制が、痛いほど分かる。

 アリアはカップを置いた。
 指先が少し震えている。
 震えが魔力の暴走ではなく、言葉の震えだと理解できる。

 言う。
 今言う。
 逃げたら、また癖に戻る。

「……ルシフェル」

 名前を呼ぶと、彼の瞳が少しだけ鋭くなる。
 戦場の鋭さではなく、聞くための集中の鋭さ。

「……迷惑をかけた」

 声が掠れた。
 喉の棘が動く。

「あなたを危険に巻き込んだ。みんなを巻き込んだ」

 言葉が増えるほど、胸が痛い。
 痛いのに止まらない。
 謝罪は麻薬だ。
 謝ると、責任を自分の中に閉じ込められる気がする。

「……ごめんなさい」

 最後に出てしまった。
 最短距離の鎖。

 ルシフェルは、首を横に振った。

 ゆっくり。
 確実に。
 その否定は揺らがない。

「謝るな」

 短い。
 でも冷たくない。

「俺が選んだ」

 言葉が、石みたいに落ちる。
 重い石。
 でもその重さは、押し潰すためじゃない。
 支えるための重さだ。

「お前が謝ることじゃない」

 アリアの胸が、きゅっと痛む。

 優しい。
 優しいのに、責任を取り上げない言い方。

 “俺が全部背負うから黙ってろ”じゃない。
 “お前は弱いから守ってやる”でもない。

 彼は、対等として言っている。

 ――俺が選んだ。
 ――お前が謝ることじゃない。

 つまり、アリアにも“選ぶ権利がある”という前提だ。
 アリアが物ではないという前提だ。
 それが、痛い。

 アリアはそこで、理解してしまった。

 人間界で謝罪は、処刑台の花束だった。
 花束を渡せば、少しだけ綺麗に死ねる。
 謝れば許されるのではなく、謝らないともっと酷く殺される。

 だから謝ってきた。
 生き残るために。

 でもここで謝ると、
 “自分は悪い存在”という位置に、自分で座ってしまう。
 ルシフェルが作ってくれた対等な椅子を、自分で蹴飛ばしてしまう。

 その気づきが、胸を刺した。

「……でも、私が」

 言いかけた瞬間、声が震えて途切れた。
 胸が熱い。
 熱いのに、嫌な熱じゃない。

 目の奥が、じんわり熱い。
 涙が出そうな熱。
 出ないはずの涙。

 アリアは瞬きをした。

 ぽとり。

 頬に、何かが落ちた。
 温かい。
 驚くほど温かい。

「……え」

 自分の声が幼い。
 幼いほど、心が裸だ。

 もう一滴、落ちる。
 次に、落ちる。
 止まらない。

 涙だ。

 涙が、出た。
 出たことに、自分が一番驚いてしまう。

「……出た」

 呟いた瞬間、涙がさらに増える。
 驚きが、解放になってしまう。

 泣けないと思っていたのに。
 泣くと裂け目が開くと思っていたのに。
 泣くことが怖くて抑え込んでいたのに。

 今日は違う。
 涙が魔力の暴走に変わらない。
 涙がちゃんと涙として落ちる。
 それが怖くて、嬉しくて、また泣く。

「……っ、う、」

 声が詰まり、喉が痛む。
 嗚咽が出る。
 出てしまう。
 出てしまっても、世界が壊れない。

 ルシフェルが固まった。

 魔王の固まり方じゃない。
 年下の、どうしたらいいか分からない固まり方。

 目が泳ぐ。
 指が少し動く。
 動いて、止まる。

 彼は泣く人に慣れていない。
 泣かれることに慣れていない。
 慣れていないのに、逃げない。

 ルシフェルは息を吸って、吐いて、言った。

「……触れてもいいか」

 その問いが、胸を撃った。

 触れる、ではない。
 触れてもいいか。
 許可を求める。

 触れられることは、アリアにとって怖いことだった。
 触れられる=奪われる。
 触れられる=所有される。
 触れられる=支配される。

 でも今の問いは、真逆だ。

 支配しないための問い。
 奪わないための問い。
 嫌なら拒める、という前提の問い。

 アリアは涙で滲む視界の向こうで、ルシフェルを見た。
 彼の瞳は揺れている。
 揺れているのに、押し込まない。
 近づきたいのに、勝手に近づかない。

 アリアの胸の奥が、ひゅっと痛む。

 痛いのは、怖いからじゃない。
 嬉しすぎる痛みだ。

 アリアは小さく頷いた。
 頷き方が、子どもみたいに小さい。

「……うん」

 許可。
 自分の口から出た許可。
 それが、世界で一番怖くて、世界で一番温かい。

 ルシフェルはゆっくり手を差し出した。
 急がない。
 逃げる時間を残す速度。
 彼はずっと、距離で優しさを作る人だ。

 アリアは震える手を持ち上げた。
 涙が指先に落ちる。
 落ちても、裂け目は開かない。

 掌が重なる。

 彼の手は温かい。
 温かいのに熱すぎない。
 現実の温度。
 人の体温。

 その温度が、アリアの中の冷たい部屋に届く。

 ずっと心の中にあった、冷たい部屋。
 窓もない。灯りもない。
 拍手の音だけが鳴っている部屋。

 そこに、ぽっと灯りがともった。

 小さな灯り。
 でも確かに見える灯り。
 灯りがあると、部屋は“牢屋”ではなく“部屋”になる。
 部屋なら、いつか出られる。
 部屋なら、誰かを迎えられる。

 アリアは涙を流しながら、初めて息を吐いた。
 深い息。
 生きている息。

「……私、ずっと謝ってばかりだった」

 声が震える。
 でも言える。

「謝ると、楽だった。悪いって言えば、全部終わる気がした」

 ルシフェルの指が、ほんの少しだけアリアの掌を包んだ。
 握り潰さない。
 逃げられないほど強くしない。
 でも離さない。

「終わらせるな」

 ルシフェルが小さく言った。

「お前は、生きてる」

 生きてる。
 またその言葉。

 アリアは笑いそうになって、泣いているから笑えなくて、また泣いた。
 泣けることが嬉しくて泣くなんて、意味が分からないのに、胸は理解している。

 掌の温度が、灯りの油になる。
 涙が、心の床を洗う。

 世界が拒まない。
 触れられることが、奪われることじゃない。
 許可が、鎖じゃない。

 アリアはその夜、
 謝罪ではなく、許可で誰かと繋がった。

 その繋がりは、まだ細い。
 でも細い糸ほど、切れないように大事に扱えば、強くなる。

 ルシフェルの手は、そういう扱い方をしていた。
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