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第20話「流星の下で」
しおりを挟むそれから、いくつかの朝と夜が過ぎた。
会見の日から数週間。
SNSの炎上は、別のニュースに主役の座を渡し、テレビで取り上げられることも減っていった。
世間は忙しい。昨日の事件は、今日の片隅に押しやられていく。
でも、《アーク・シグマ》の中では、ひとつのものが静かに形を取っていた。
被害者支援基金──仮称だった名前に、正式なタイトルがついた。
〈Re:Step〉
「もう一度、踏み出すための一歩を」という意味だと、RUIは説明した。
ロゴは、誰の名前も含まない。
光を背負った女の輪郭も、王家の紋章も、どこにも描かれていない。
ただ、小さな四角形が一段だけ高くなっているグラフのようなマーク。
「落ちた先から、もう一段上げる」そのイメージだけが、ひっそりと記号化されていた。
Coreの別棟に、基金専用のチームが立ち上がった。
弁護士と心理士と、事務と、データアナリスト。
そこに、匿名のアドバイザーとして、“ある人物”からのコメントが届く仕組みが密かに組み込まれている。
差出人欄には、名前はない。
ただ、IDの末尾に小さく「L」とだけ記されていた。
最初の支援先は、意外なほど早く決まった。
奨学金の不正運用を告発しようとして、学校から「内々に処理しよう」と圧力を受けている大学生。
校内のいじめを匿名で通報した結果、クラスで孤立させられた高校生。
教師と理事会に対してメールを送ったら、「空気を乱すな」と言われた奨学生。
――どれも、どこかで見た構図だった。
RUIは、Coreのダッシュボードに並ぶケースIDを見つめていた。
ID_001:奨学金関連構造不全
ID_002:校内ハラスメント匿名告発者サポート
ID_003:寄付者と生徒の力関係に起因する不利益是正
画面の向こうには、まだ顔の見えない「誰か」がいる。
彼らのログは、彼女にとってどこか懐かしくて、どこか痛かった。
「……承認」
ひとつ、決裁ボタンを押す。
画面上で数字が動く。
支援費用の上限と、割り当て。
決裁文言は、あくまで事務的だ。
〈当基金の支援ポリシーに合致するため、一次支援を承認〉
〈並行して、メンタルケア担当者への橋渡しを実施〉
〈教育機関側との対話は、外部弁護士に委任〉
すべて、「神崎瑠衣」ではなく、「Re:Step事務局長」の名前で記録される。
そこへ、メールが一通届いた。
差出人:匿名
件名:ありがとうございました(※返信不要)
開いてみると、短い文が並んでいた。
〈誰にも届かないと思っていた話を、「構造」として扱ってもらえたことに驚きました〉
〈私は弱いままですが、弱さを「間違い」と言われない場所があると知ってしまったので、多分もう以前の私には戻れません〉
〈どうか、あなた方が正しくなくてもいいので、「見ている」だけは続けてください〉
署名はなかった。
名前も、学校名もない。
ただ末尾に、こんな一文だけがあった。
〈地面に伏したままの私に、もう一度「立てるかもしれない」と思わせてくれて、ありがとう〉
RUIは、指先を止めた。
画面のテキストが、少しだけ滲んで見える。
それが疲労のせいか、別の何かのせいかは、自分でも判別しないことにした。
大きく、息を吸う。
肺の奥まで、空気が入ってくる。
これまでしていた呼吸が、どれだけ浅かったのか、そのときようやく気づく。
吐き出す息が、少しだけ重い。
その重さを、彼女は「生きている」という単語と結びつける。
いつのまにか、胸の内側を満たしていた雨音は、小さな水たまりくらいの大きさになっていた。
まだ完全には乾いていない。
けれど、そこに映る空は、二年前の灰色ではなくなっている。
***
その夜。
屋上の扉を開けると、もう風の匂いは変わっていた。
季節はひとつ、進みかけている。
コンクリートの冷たさはまだ残っているが、その上に薄く、春の気配が重なっていた。
街が、無数の窓で瞬いている。
高層ビルのガラス。
マンションのベランダ。
コンビニと、コインランドリーと、まだ明かりの消えないオフィス。
一つひとつの窓の向こうに、誰かの日常がある。
今日、支援の決裁を押した「誰か」の部屋も、その中に紛れているかもしれない。
フェンスに手をかけて佇んでいると、背後の扉がきぃと軋んだ。
「やっぱりいた」
翼の声が、夜風に混じる。
「……GPS、埋めた?」
「まだ言う? 埋めてない。
ただ、“基金の初回決裁が通った夜に屋上に行きたくなる人間”の行動パターンを読んだだけ」
「やめて、人間取扱説明書みたいに言わないで」
「誉めてるんだけどなぁ」
翼は隣に立ち、フェンスにもたれかかる。
肩が触れるか触れないかの距離に、自然と収まる。
「どう? 初仕事の気分は」
「疲れた。
……でも、息がしやすい」
「それは、いいことじゃん」
RUIは、街の光を見下ろした。
「匿名のメール、読んだ」
「うん。俺も見た」
「“見ているだけでいい”って、あの子は書いてた」
「うん」
「でも、見ているだけじゃ嫌だから、動いた」
「うん。それも知ってる」
会話は短く、リズムはゆっくりだった。
翼は夜空を見上げる。
雲は少ない。
都会の空にしては、珍しく星がいくつか顔を出していた。
「なぁ、RUI」
「なに」
「君さ」
彼は、軽く笑って言った。
「光になったわけじゃないよな」
「……褒めてる?」
「むちゃくちゃ褒めてる」
RUIは、目を細める。
「じゃあ、なにになったって言いたいの?」
「光のスイッチを配ってる」
その言葉が、夜風の中で形を取った。
「自分が一番眩しく光る場所に立つんじゃなくてさ。
“ここにもスイッチがあるよ”“ここにも灯りを置けるよ”って、いろんな場所に配って回る人」
フェンスの向こうを指さす。
「さっきのメールを送ってきた子の部屋にも、
今日決裁したケースの、まだ気づいてない誰かの机の上にも。
そういうとこに、スイッチがひとつずつ増えてく」
RUIは、しばらく黙っていた。
光になれ、という言葉より、ずっとたちの悪い誉め言葉だと思った。
責任の範囲が、一気に広がっていく気がするから。
でも同時に、それはどこか楽だった。
「自分が輝き続けなきゃ」という呪いからは、少しだけ解放される。
「……スイッチ、配りすぎて手首折れたら、責任取ってね」
「そのときはギプスにサインしてやるよ」
「役に立たない」
「気持ちの問題」
軽口を叩いていると、視界の端で何かがスッと動いた気がした。
「……あ」
RUIは、空を指差した。
「見て、流れた」
高層ビルの隙間をかすめるように、白い線がひとすじ滑っていった。
星というには短く、でも確かに空を横切った光。
「流星?」
「たぶん。人工衛星じゃないと思う」
「願い事、言えた?」
「言えないよ、あのスピードで」
「訓練不足だな」
「あなた、言えたの?」
「“今日も生きててよかった”って言った」
「絶対嘘」
「ごめん、嘘。心の中で“見えた”って思っただけ」
ふたりの笑いは、小さくて柔らかかった。
さっきまで感じていた“沈黙の圧”は、ここにはない。
あるのは、“言葉を足さなくても良い”という種類の沈黙だった。
RUIは、フェンスから手を離し、両肘を乗せる形で夜景を眺めた。
彼女の横顔を、翼は横目で見る。
頬に流れる風が、少しだけ髪を乱している。
「……ねぇ、翼」
「ん」
「私、まださ」
街の光を見たまま、彼女は言う。
「自分を赦せたわけじゃないんだよね」
「うん。知ってる」
「リリアのことも、“完全に分かり合えた”とか思ってない」
「うん」
「でも、“もう誰か一人を地に伏せさせるためだけに生きる”のは、やめたいと思ってる」
その宣言は、風よりも静かに流れていく。
「そのためのスイッチを配ってるわけか」
「うん。
……多分、自分のために、一番配ってる」
翼は、心の中で「それが聞きたかった」と小さくつぶやいた。
RUIが初めて、自分の行動を“自分のため”だと言ったのだ。
遠くで、救急車のサイレンが小さく聞こえる。
その方向には、病院がある。
***
同じころ。
××総合病院の七階の窓辺で、ひとりの女が空を見上げていた。
リリア・フォン・エヴァレット──いや、“ただのリリア”は、病室のカーテンを少しだけ開けて、夜空を覗いている。
母は、今日は眠りが深い。
呼吸器の音だけが、規則正しく続いている。
窓の外には、街の光。
遠くのビル群。
そして、その上に広がる、都会の薄い夜空。
「……あ」
RUIと同じタイミングで、リリアも声を上げた。
空を横切る、ひとすじの白い線。
流星の正体が本当に流れ星かどうかなんて、どちらでもよかった。
ただ、その刹那が、彼女の胸のどこかを刺した。
ベッドの脇の丸椅子に戻る前に、ナーステーブルの一角に置いてあるスマホが目に入る。
画面には、昨日まで開いていたSNSのタイムライン。
〈RUIかっこよすぎ〉〈リリアやっぱり悪役ムーブうまい〉〈Re:Stepいいね〉
そんな文字列がまだ残っている。
リリアは、スマホを手に取り、一瞬だけ映った自分の顔を見た。
疲れている。
でも、どこか満足してもいる。
舞台をやりきったあとの顔だ。
その画面を──彼女はそっと伏せた。
テーブルの上に、画面を下にして、置く。
鏡を封印する、みたいに。
ステージのライトを映し返す鏡。
SNSのタイムライン。
Coreの冷たいログ。
それらはすべて、“自分がどう見えるか”を教えてくれる鏡だった。
今は、それを一度、静かに閉じておく。
「……次に光るのは」
リリアは、母の指を包みながら呟いた。
「どこかの机の上、かしらね」
Re:Step事務局から、さっき共有が来た。
第一号支援の決裁が通り、担当者が動き始めたと。
その誰かが、自分の机に置かれた小さな資料のファイルを開く。
そこには、「あなたの声は届いています」という文字がある。
スポットライトの代わりに、卓上スタンドの光。
拍手の代わりに、深呼吸。
そういう光も、悪くない。
窓の外の流星の残像が消える。
代わりに、病室の天井の薄暗い光が戻ってくる。
リリアは、スマホの画面を伏せたまま、椅子に腰を下ろした。
「……ねぇ、お母様」
眠っている母の手を、そっと撫でる。
「私、たぶん、もう“完璧な娘”には戻れないわ」
言葉は届いているのか、いないのか。
それでも構わない。
「完璧じゃない仕事をして、
完璧じゃない人たちと組んで、
完璧じゃないやり方で、誰かを支えることを覚えちゃったから」
それを、後悔していない。
昨日までの自分なら、「不良品になった」と嘆いていたかもしれない。
「でも──」
リリアは、薄く笑った。
「不良品のほうが、案外、光を通すのよね」
割れ目から漏れる光。
歪んだガラス越しに見える景色。
それらは完璧な鏡より、ずっと人間らしい。
流星はもう見えない。
でも、どこかで誰かが同じ空を見上げていた、という事実だけが、彼女を少しだけ温めた。
***
再び、Ark-Sigmaの屋上。
風が頬を撫でる。
昼間より、幾分やわらかい風。
RUIは、空を見上げたまま、口の中で小さく呟いた。
「……散々見下してくれて、ありがとう」
翼が、横目で彼女を見る。
「誰に?」
「いろんな人に。
聖ルミエラのあの子たちにも、
理事たちにも、
寄付者たちにも、
リリアにも」
風が、言葉をさらっていく。
「見下されてた時間がなかったら、
“地に伏す”痛みも、“立ち上がる”苦しみも、知らずに済んだ」
「知らないほうが幸せだったかもしれないけどな」
「そうかもね」
RUIは、目を閉じた。
「でも、知ってしまったから、
もう誰も、地に伏さなくていいように、って考えられる」
誰も、とは言い切れない。
世界から不公平が消えることはない。
転ぶ人は、これからも出る。
それでも。
「せめて、“見下されて終わり”の物語の数を減らしたい」
肩の力を抜きながら、彼女は続ける。
「そのために、スイッチを配り続ける」
翼は、空を見上げた。
「いいね、それ」
「でしょ」
「偉そう」
「CEOだから」
「そうだった」
二人の沈黙は、もう固くない。
ここから落ちる怖さより、ここから見える景色の温度のほうが勝っている。
遠くで、また一台、救急車のサイレンが鳴った。
どこかの病院に向かっている。
そのどこかの窓辺で、誰かが夜空を見上げているかもしれない。
その誰かの机の上に、
いつか小さなスイッチが置かれる夜が来ることを願いながら。
RUIは、目を開けた。
街の光は、相変わらず忙しなく瞬いている。
でも、その光のひとつひとつが、前より少しだけ愛おしい。
風が頬を撫でる。
肌に触れる空気は、冷たいだけではなかった。
物語は、静かに次の朝へと歩き出している。
まだ終わっていない。
むしろ、ここからが本編かもしれない。
けれど、“散々見下されていた少女”の章は、
ようやく一度、ページを閉じられようとしていた。
その背表紙には、小さな文字でこう刻まれている。
――もう誰も、地に伏さなくていいように。
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