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第20話:新しい均衡、追放の終わり
しおりを挟む春は、音で来た。
雪解けの水が石畳の隙間を走る音。
屋根から落ちる雫の音。
市場に戻る笑い声の、少しだけ丸い音。
王都の空気はまだ傷だらけなのに、匂いだけが先に変わった。
冬の終わりの湿り気。
焦げた薪の匂い。
それに混じる、土の匂い。
芽の匂い。
結界の歪みは、完全に消えたわけじゃない。
でも、収まった。
“割れる音”が、聞こえなくなった。
耳じゃなく胸で聞いていた音が、胸から退いていった。
それは派手な奇跡じゃない。
誰かが空に光を放ったわけでもない。
ただ、毎日少しずつ、縫い直した。
言葉と行動で。
拒否権と責任で。
更新制という釘で。
境界局の小さな庁舎は、最初は倉庫みたいだった。
机は軋み、書類は乱れ、文官は寝不足で目が赤い。
でも、その“みっともなさ”が、逆に本物だった。
綺麗に整った制度は、だいたい嘘を隠している。
この制度は、まだ嘘を隠せるほど器用じゃない。
それがいい。
畑では、芽が戻った。
芽は、誰の正義にも媚びない。
祈りの言葉にも、王の言葉にも、貴族の看板にも媚びない。
ただ、土が生き返ったから伸びる。
風が縫い目を取り戻したから育つ。
均衡が、少しだけ整ったから呼吸する。
市場の端で、パンを焼く匂いがした。
まだ高い。
まだ足りない。
でも“ゼロ”じゃない。
ゼロじゃないことが、生活にとっては最初の救いだ。
セリアは、勝者の笑みを浮かべなかった。
浮かべた瞬間に、誰かの怒りを煽るからじゃない。
浮かべた瞬間に、自分が“物語の主人公”になるからだ。
セリアは主人公になりたくないわけじゃない。
でも、主人公という肩書きに閉じ込められたくない。
選ばれたことは、誇示するものじゃない。
生活に落とし込むものだ。
だからセリアは、静かに歩いた。
石畳を踏む足音を、わざと小さくした。
自分が踏むたびに、誰かが怯える街だから。
王城の門の前。
かつて追放された門。
そこに、元貴族となった者たちが並んでいた。
顔が違う。
衣装はまだ立派だ。
でも、立派さが空っぽに見える。
人は、奪ったもので生きているときほど、立派に見せたがる。
ヴェルディス侯は、以前より背が低く見えた。
いや、背は変わっていない。
支えていた“上にいる理由”が消えたから、影が短くなっただけだ。
彼は、新しい税の監査に文句を言いに来たらしい。
声を荒げて、文官に詰め寄っている。
「我が家がどれほどこの国に尽くしてきたと――」
「更新が拒まれたのは誤解だ!」
「妖精に誑かされた制度だ!」
叫ぶ言葉は相変わらず“正義”の形をしている。
でも、その正義はもう、周囲の空気を動かせなかった。
民が見ているから。
そして、妖精の沈黙がこの国の底に残っているから。
文官は淡々と答える。
「更新は選び合いです」
「拒否権は明文化されました」
「それに、税の透明化は全領に適用されます」
「あなたの家だけ特別にはできません」
特別。
その一言が、元貴族の喉を締めた。
特別でいられない。
それが彼らの“死”だ。
セリアはその光景を、遠くから見ただけで通り過ぎた。
勝ち誇らない。
指を差さない。
「ざまぁ」と言わない。
言わなくても、現実が言っている。
奪ったものでは、生きられない。
それが、いちばん残酷で、いちばん公平な裁定だった。
城を出て、セリアは境界局へ向かった。
途中、民の小さな家の前で、子どもが転んで泣いていた。
母親が慌てて抱き上げ、頬の泥を拭う。
セリアは足を止めた。
泣く子ども。
泣くことが、生存の一部になっている世界。
泣けるのは、まだ終わっていない証拠でもある。
母親がセリアに気づいて、固まった。
目に怯えが混じる。
恐れ。
それでも、母親は小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
母親が言った。
声が震えている。
感謝というより、祈りみたいな声。
セリアは首を振った。
「私じゃない」
嘘じゃない。
「みんなが、少しずつ縫ったんだよ」
母親は目を丸くして、うまく言葉が出ない顔をした。
“みんな”と言われるのに慣れていない顔。
今まで、上の誰かが全部決めて、下は従うだけだったから。
セリアは子どもに目を向けた。
泣き止んでいない。
でも、涙の合間に、じっとこちらを見る目がある。
好奇心の目。
未来の目。
セリアはしゃがんで言った。
「痛かった?」
子どもがこくんと頷く。
セリアは外套のポケットから、乾かした木の実を一つ出して渡した。
森で覚えた、小さな分け方。
「噛んでみて」
子どもが恐る恐る噛む。
顔がしわくちゃになって、でも泣き止んだ。
酸っぱいのだろう。
酸っぱさは、涙の塩味と混ざって、少しだけ世界を現実に引き戻す。
母親が何か言おうとした。
セリアは先に言った。
「ありがとうは、制度に言って」
母親は目を見開く。
セリアは少しだけ笑う。
勝者の笑みじゃない。
生活の笑み。
「制度が守れたら、それでいい」
「私の名前は、いらない」
そう言って、セリアは立ち上がり、歩き出した。
背中が軽いわけじゃない。
重い。
でも、この重さは鎖じゃない。
背負うと決めた重さだ。
春が深まる頃、セリアは境界へ向かった。
森の境界。
追放された夜に放り出された場所。
湿った土。冷たい風。遠い獣の声。
あの日は終点だった。
門が閉じて、人生が閉じて、世界が終わった場所だった。
今、そこは終点じゃない。
境界は、入口になった。
戻る道になった。
縫い直す道になった。
森の匂いがする。
土と苔と、若い葉の匂い。
王都の香水の匂いが、少しずつ薄れていく。
胸の中が、呼吸を取り戻す。
セリアは境界の木立の前で立ち止まり、振り返った。
王都が遠くに見える。
白い壁。
尖った塔。
そこに、まだ傷が残っている。
煙突の黒ずみ。
空き家の影。
でも、その影の間に、芽みたいな光がある。
市場の匂い。
パンの匂い。
子どもの声。
「……終わってないね」
セリアが呟くと、隣で静かな気配が立った。
フィオラル。
今日も王の威光ではない。
個としての静けさ。
並ぶと言った者の立ち方で。
「終わりではない」
フィオラルは短く言った。
「均衡は、更新され続ける」
更新。
その言葉が、春の風に混じる。
痛い言葉だったのに、今は救いにも聞こえる。
終わらない。
だから、修正できる。
だから、生きられる。
セリアは息を吐いた。
喉の奥に、覚悟の塩味が残っている。
でもその塩味は、もう苦くない。
海の味みたいに、遠くの広さを感じる塩味だ。
そのとき、風が少しだけ遊んだ。
葉が揺れる。
光が揺れる。
そして、声が混じった。
耳じゃなく、胸に落ちる声。
ルゥシェだ。
「最初に言ったよね」
風の中で、あの軽い声がする。
「生きたい?」
セリアは思わず目を閉じた。
胸の奥が熱くなる。
泣きそうになる。
でも泣かない。
泣かないまま、心が柔らかい。
それが今の自分の新しい形だ。
ルゥシェは続けた。
「……君は、生き方まで手に入れた」
その言葉が、胸を締めつける。
最初の手を取った者が、最後まで見届ける距離にいる。
引っ張らずに、支える距離にいる。
セリアは笑った。
声は小さい。
でも、本物の笑いだった。
「うん」
セリアは風に向けて言った。
「生きたいって言った」
「だから、手に入れた」
「……怖いままだけどね」
隣でフィオラルが短く言う。
「怖いままでいい」
その言葉はこの前の夜、塔で聞いた時と同じ重さで落ちる。
離れないと言った重さで落ちる。
セリアは頷いた。
追放は終わり。
終わりは、ただの幕引きじゃない。
終わりは、始まりの形をしている。
追放された場所は、もう終点じゃない。
境界は、選択の入口になる。
選び返す入口になる。
更新し続ける入口になる。
セリアはもう一度、王都を見た。
そして、森を見た。
二つの世界の間で、セリアは立っている。
並んで、立っている。
誇示じゃなく、生活として。
ざまぁじゃなく、事実として。
奇跡じゃなく、選択として。
春の風が、境界を縫う糸みたいに頬を撫でた。
セリアはその風を受け入れながら、静かに歩き出した。
新しい均衡へ。
新しい選択へ。
追放の終わりから始まる、終わらない物語へ。
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