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第5話 死の間際で目覚めるもの
しおりを挟む森の闇は、さっき見た村の夜よりずっと濃かった。
月明かりなんて、木々の天蓋に全部奪われている。
頭上を覆う枝と葉が、光を細い糸みたいに細切れにして、地面に落としている。
目を凝らしても、先はよく見えない。
土は湿っていて、靴が沈むたび、ぐじゅ、といやな音がした。
腐葉土と苔と、どことなく鉄の匂いが混ざった空気。
その中を、私とライアンは全力で走っていた。
「エリア、足元見ろ!」
「っ、わかってるけど見えないの!」
木の根っこが、蛇みたいに地面を這っている。
引っかからないように飛び越えたつもりが、かかとを軽く擦ってバランスを崩した。
「うわっ──」
倒れかけた瞬間、すぐ後ろのライアンが腕を掴んで引き寄せる。
背中が木の幹にぶつかって、肺から変な音が出た。
「げほっ……!」
「大丈夫か」
「だいじょ……ぶじゃないけど、だいじょうぶにする!」
息は荒いし、心臓は爆音だし、足はもう棒だ。
それでも止まれない。
だって──
ドウ、ドウ、と地面が低く唸る。
私たちの背後で、何か巨大なものが動く音。
黒い霧をまとった魔獣が、森の木々をへし折りながら追ってきている。
さっき村の外れで見た影。
赤い目、異様に長い爪、ぐつぐつと煮えたぎるような黒い靄。
あれが一歩踏み出すごとに、地面ごと揺れる。
肺の奥に溜まった空気が震えて、呼吸のリズムが乱れる。
「なんで森の中まで追ってくんのよアイツ……!」
文句を叫んだところで、返事をするように咆哮が響いた。
耳が割れそうな声。
鼓膜の裏側をガリガリ爪で引っかかれたみたいな不快感。
「うわ、最悪……!」
思わず耳を塞ぎそうになる手を、歯を食いしばって抑え込む。
「エリア」
前を走るライアンが、短く名前を呼んだ。
「もうすぐ、開けた場所がある。そこまで、もつか」
「もたせる!」
今さら「無理」なんて言えなかった。
喉が焼けるほど苦しくても、足が鉛みたいに重くても。
ライアンも、呼吸は荒い。
額には汗、背中は上下に激しく波打っている。
それでも、振り返ってばかりの私とは違って、彼は前しか見ていない。
その背中だけが、この即席の地獄で唯一の「まっすぐ」だった。
枝が顔を掠める。
頬に細い傷ができて、そこに冷たい汗が流れ込んでヒリッとする。
足元の土が突然沈んだ。
「え?」
次の瞬間、視界がぐるんと回る。
滑りやすい斜面に足をとられて、前のめりに転がり落ちた。
「きゃ──っ!」
体が宙を舞い、背中から地面に叩きつけられる。
肺の空気が全部押し出されて、一瞬呼吸が止まった。
「……がっ……!」
視界の端で、ライアンが急ブレーキをかけるように止まり、そのままこちらへ滑り込んでくる。
「エリア!!」
彼は地面に膝をつき、私の肩を掴んだ。
「どこか打ったか」
「だ、だいじょぶ……たぶん……」
全身痛いし、多分あざだらけになる。
でも、骨は折れていなさそうだった。
そう思った矢先。
ドン、と地面が揺れた。
さっきまでとは比べものにならない衝撃。
土が跳ねて、乾いた枝がぱきぱきと折れる音が重なる。
ゆっくりと振り向いた先に、それはいた。
さっきよりも近くで見る魔獣は、悪夢みたいだった。
犬とも狼ともつかない四足のシルエット。
ただ、その身体は普通の獣の何倍も大きい。
盛り上がった筋肉のラインが、黒い霧に半分飲み込まれて、輪郭を揺らしている。
口を開けば、鋭い牙が何本も並んでいて、そこからはどろりと黒い液体が垂れていた。
それが地面に落ちるたび、草がじゅっと音を立てて溶けていく。
「……なに、あれ」
怖い。
怖いなんて言葉じゃ足りない。
膝が震えて、立ち上がるのさえ難しい。
その横で、ライアンが静かに立ち上がった。
剣を構える手が、ゆっくりと上がる。
「エリア、下がれ」
いつもより、ずっと低い声。
「ここから先は、俺が──」
言い終わらないうちに、魔獣が咆哮とともに飛びかかってきた。
「ライアン!!」
反射的に腕を伸ばす。
でも、その手が彼に届くより早く、彼は前に踏み込み、剣を横薙ぎに振るった。
金属の軋む音。
剣が、魔獣の体の一部をかすめる。
火花が散った。
──はじかれた。
刀身が手から跳ね返りそうなほどの衝撃。
ライアンの腕がびりっと痺れるのが、見ているだけで伝わってくる。
「硬っ……!」
彼が低く唸る。
魔獣は、ほんの少し体勢を崩しただけで、傷ひとつ負っていない。
黒い靄が、その体表を分厚い鎧みたいに覆っている。
そんなの、聞いてない。
「エリア、走れ!」
ライアンが怒鳴った。
「森を抜けろ! 村まで戻って、他の人を──」
「無理だよ!!」
叫び返す。
「今戻ったって、村の人たちだって危ないだけじゃん! ここで止めなきゃ──」
会話の途中で、魔獣の前足が叩きつけられた。
地面が爆発したみたいに土が舞い上がる。
ライアンが私の前に飛び出して、腕で庇う。
衝撃。
「っ……!」
横から吹き飛ばされるように地面に叩きつけられて、視界が白く弾けた。
耳鳴りがして、何も聞こえない。
ぼやけた視界の中で、ライアンの体が宙を舞うのが見えた。
彼は木の幹に背中からぶつかり、そのままずるずると崩れ落ちる。
「ら、いあん……さん……?」
声が出ない。
喉が焼ける。
肺が空気を欲しがっているのに、うまく吸えない。
それでも、私は必死に喉を震わせた。
「ライアン!!」
擦れた悲鳴が、やっと外に出る。
彼の口元から血が垂れていた。
赤い線が顎を伝って、土に黒く染みていく。
嫌な色だ。
ありえないくらい嫌な光景だ。
「いや……やだ、やだやだやだ……っ」
必死で体を起こす。
腕に力が入らなくて、何度も土を掻いた。
爪の間に泥が入り込んで、じんじん痛い。
そんなこと、どうでもいい。
魔獣は、倒れたライアンを一瞥しただけで、すぐにこちらへ向き直った。
赤い目が、私を捉える。
冷水を頭からぶっかけられたみたいに、背筋が冷たくなる。
(……狙い、私?)
頭のどこか冷静な部分が、最悪の分析をした。
魔獣は、私に向かって、ゆっくりと一歩を踏み出す。
そのたびに土が抉れ、地面が震える。
逃げようとしても、足が言うことをきかない。
膝がカクカクと震えて、立ち上がれない。
「なんで……なんで、何もできないの」
喉の奥から、しぼんだ声が漏れる。
王都でも、ずっとそうだった。
魔力量測定器に反応しなくて。
魔法陣のひとつも満足に扱えなくて。
雑用しかできなくて。
笑われて、見下されて、追放されて。
ここまで来て。
それでもまだ、私は「何もできない」のか。
ライアンが命懸けで守ろうとしてくれてるのに。
森の向こうで震えている村の人たちだっているのに。
何一つ守れないまま、終わるのか。
「いやだ……」
声に出した瞬間、喉が焼けるように痛んだ。
それでも、私は叫んだ。
「いやだ!!」
魔獣が、一気に距離を詰めてくる。
目の前に、巨大な爪が迫っていた。
振り下ろされる──その瞬間。
世界が、スローモーションになった。
音が遠のく。
木々のざわめきも、魔獣の唸り声も、自分の叫び声さえも、水の底から聞こえてくるみたいに遠くなる。
色が、白く飛んでいく。
森の緑も、血の赤も、霧の黒も。
全部が一度、真っ白な光に飲み込まれる。
胸の中心で、何かがひび割れる感覚がした。
ぱきん、という小さな音。
ガラス玉に入ったひびが、一瞬で全体に広がるような感覚。
(あ……)
ずっとそこにあったのに、ずっと見ないふりをしていたもの。
それが今、音を立てて壊れていく。
嫌われないために。
足手まといと言われないために。
「できるふり」をして誤魔化してきた殻。
無能だと言われ続けて、
自分でも「そうなんだ」と信じ込もうとしていた鎧。
全部、意味を失って砕け散る。
その瞬間、視界いっぱいに光の粒子が溢れ出した。
淡い金色と、柔らかな白。
細かい砂鉄みたいにきらめきながら、空中を漂う。
「……なに、これ」
息を呑む。
恐怖よりも先に、理解の追いつかない光景に圧倒された。
私の周囲に、幾何学的な紋様が浮かび上がる。
円と直線、三角形と六芒星。
それらが複雑に組み合わさって、巨大な時計の歯車みたいな輪を形作っていく。
カチ、カチ、と。
どこか遠くで、時計の針が進む音。
でも、それは時計じゃなかった。
歯車の輪が、ひとつ、またひとつと現れて、私の周囲を取り囲む。
大きいもの、小さいもの、重なり合い、噛み合いながら回転を始めた。
魔獣の爪が、ゆっくりと降りてくる。
その動きさえ、光の中ではスローモーションだ。
一本一本の毛の流れまで見える。
私は──何もしていない。
意識して魔法を発動しようとしたわけでもない。
呪文を唱えたわけでもない。
ただ、心の底から「いやだ」と叫んだだけ。
なのに、世界の方が私に合わせて変わり始めている。
光の歯車が、一斉にカチリと音を立てた。
その瞬間、魔獣の爪が止まった。
空中で、まるで見えない檻に囚われたみたいに。
歯車の輪が、爪の周囲を幾重にも取り囲む。
まるで巨大な金属の檻。
いや、金属じゃない。
これは──
「歯車の、檻……?」
自分の口から出た言葉に、自分で驚く。
手を伸ばす。
触れたわけじゃないのに、歯車の回転速度が変わった。
魔獣の動きが、さらに鈍る。
まるで、世界の時間の一部だけ、私の手で「遅くしている」みたいだった。
胸の奥で、誰かの声がした。
──《魂装適性(ソウルギア・アフィニティ)》
知らないのに、知っている言葉。
耳から入ったんじゃない。
心臓から直接、脳に届いたみたいな感覚。
(これが……私の……?)
理解が追いつかない。
でも、身体はわかっていた。
私の魂は、世界の「機構」にアクセスしている。
歯車。
時間。
因果関係。
それらを、ほんの少しだけ「ずらす」ことができる。
その事実だけが、光より熱く胸に刺さった。
同じ瞬間。
ライアンの世界も、変わっていた。
*****
頭の中が、うるさかった。
さっき木に叩きつけられた衝撃で、視界がぐにゃぐにゃ歪んでいる。
耳鳴りがひどくて、森の音も魔獣の咆哮もまともに聞こえない。
味が、鉄っぽい。
舌の上に広がる血の味。
(ああ、やっちまったな)
そんな場違いな感想が、どこか冷静な自分から漏れる。
動かない体を無理やり起こすと、視界の中に光が溢れていた。
「……なんだ、あれ」
エリアの周りに、光の歯車。
あり得ない光景だった。
魔獣の爪は空中で止まり、見えない檻に囚われている。
あれは、さっきまでの“ただの彼女”じゃない。
何かが、目覚めた。
そう直感した。
そのとき。
世界が、線だらけになった。
視界の端から端まで、無数の線が走る。
細い糸みたいな線。
太いロープみたいな線。
それらが、森の木々、人間、魔獣、光の歯車──あらゆるものに繋がっていた。
「……なんだ、これ」
混乱する。
頭の中に直接流れ込んでくる情報。
一本の線に触れるだけで、脳裏に映像が流れ込んでくる。
村が燃えている未来。
魔獣が増えて森が真っ黒に染まっている未来。
エリアが泣きながら村を離れる未来。
そして──
一本、他のどれよりも太くて、真っ黒な線があった。
エリアの胸から伸びている。
先は、地面。
そこには──動かなくなった彼女が倒れている。
血の色さえ、鮮明だった。
「……ふざけるな」
口の中で、ドロドロした何かが煮えたぎる。
こんな未来、誰が望んだ。
王都に雑に扱われて、追放されて、
それでも必死に笑いながら、生きようとしていた彼女が──
こんなところで、こんな化け物の餌みたいに死ぬ未来なんて。
「要らねえよ、そんなの」
吐き捨てる。
その瞬間、頭の奥で何かが引き攣れた。
線が、ざわりと揺れる。
目の前に浮かぶ無数の線。
その中から、俺は迷わず一本を掴んだ。
真っ黒な線。
エリアが死ぬ未来。
「そんな未来、いらない」
歯を食いしばる。
手に力を込める。
噛み千切るように、握り潰すように。
線が、バツン、と音を立てて千切れた。
耳鳴りが、別の音に変わる。
低い震え。
世界のどこかで巨大な歯車が回転方向を変えたみたいな感覚。
視界の中で、エリアの背後にあった未来図が、ぐにゃりと歪んだ。
倒れていたはずの彼女の姿が、煙みたいに消えていく。
同時に、魔獣の爪が降りていたはずの軌道が、すっとずれる。
そこには、もう「エリアが殺される」という結果は存在していなかった。
未来そのものが、書き換えられた。
頭の中に、言葉が浮かぶ。
──《因果断ち切り(カット・オブ・フェイト)》
ガキの頃から意味もわからず背負い続けてきた、不幸の連鎖。
誰かの怪我を代わりに受けて、
誰かの失敗を肩代わりして、
自分ばかりが貧乏くじを引いてきた。
全部、これのせいか。
無自覚に「他人の悪い未来」を切っていたから、代償を自分の体で払っていたんだ。
だったら。
「今くらい、ちゃんと自覚して使ってやるよ……!」
声に出した瞬間、胸の中に熱が走った。
線が、ざわざわと騒ぎ始める。
無数の未来。
その一部を、俺は選び、切った。
エリアが死ぬ未来は──ない。
*****
時間が、再び動き出す。
止まっていた爪が、軌道を大きく逸れる。
私の頭上をかすめ、背後の木を真っ二つにした。
「──っ!」
風圧に煽られて、体がぐらりと揺れる。
倒れかけた私を、別の力が支えた。
光の歯車。
私の足元から伸びた小さな歯車が、踏み台みたいに体を押し返してくれる。
「すご……何これ、マジで何……」
自分の能力に自分で混乱しながら、必死で体勢を立て直す。
魔獣が、光の檻の中で狂ったようにもがいていた。
爪も牙も、歯車の輪に阻まれて、うまく私に届かない。
でも、このままじゃ長くはもたないのもわかった。
檻の一部が、既に軋んでひび割れている。
(どうする……どうしたら……)
魔法の基本だってろくに知らない。
攻撃呪文なんて、教科書の文字でしか見たことがない。
だけど、この光の歯車は、私にとって当たり前みたいに馴染んでいた。
まるで、ずっと前からそこにあって、ただ目を閉じていただけみたいに。
手を前に突き出す。
光の輪が、私の意識に応えるように回転を変えた。
「……動かないで」
魔獣の四肢の周りに、小さくて細かい歯車が集まる。
それらが鎖のように絡み合って、関節をがちがちに固めていく。
カチ、カチ、カチ──
歯車同士が噛み合う音が、鼓動のリズムに重なる。
魔獣が暴れるたび、歯車が悲鳴を上げる。
でも、そのたびに別の歯車が空中から現れて補強していく。
“歯車の檻”は、私と魔獣の間に存在する「時間」と「動き」の流れを調整している。
──動くな。
そう願えば、動きは鈍り。
──ここで止まれ。
そう命じれば、そこから先へ進めなくなる。
世界の流れを、ほんの少しだけ、自分にとって都合のいい形に変える。
それが、私の《魂装適性》だった。
「エリア!」
背後から、ライアンの声がした。
振り返ると、ボロボロの彼が、剣に体を預けるようにして立ち上がろうとしていた。
額から血が流れているのに、目だけははっきりと開いている。
その瞳の中に、私の姿と──
無数の線が映っていた。
私には見えない何かを、彼は見ている。
「……行くぞ」
ライアンが、ふらつきながらも一歩前に出る。
「待って! まだ体──」
「今しかない」
短い言葉の中に、確信があった。
彼の周りの空気が変わる。
さっきまでただの「運の悪い騎士」だった彼が、今は世界の何かを握っているように見えた。
ライアンは魔獣を見据え、静かに呟く。
「お前が暴れ続ける未来も、村を壊す未来も、エリアを殺す未来も──」
その手が、空中の何もない場所を掴む。
「全部、いらない」
ぎゅっと握りしめる。
空気がバツンと弾けた。
私の《歯車の檻》の外側で、目に見えない何かが断ち切られる音がした気がした。
魔獣の動きが、唐突に鈍る。
赤い目が、わずかに揺らいだ。
ライアンの視界の中で、無数の線が一斉に位置を変える。
魔獣がこのまま突進してくる未来。
私たちを噛み砕く未来。
村を蹂躙する未来。
それらに繋がっていた線が、片っ端から切り捨てられていく。
残ったのは──
魔獣が、ここで力尽きて倒れる未来。
「……倒れろ」
そのライアンの一言が、合図になった。
私の歯車の檻が、一斉に回転を変える。
ガチン、と大きな音。
拘束されていた動きと歯車のエネルギーが、一方向に解き放たれた。
まるで、止めていた時間を一気に流し込むみたいに。
魔獣の体が、自重に耐えきれず崩れ落ちる。
バキバキ、と骨の折れる音。
黒い靄が一瞬だけ濃くなり、次の瞬間にはぷつりと糸を切られたみたいに霧散した。
どろりとした黒い液体が地面に広がり、それもまたゆっくりと蒸発していく。
森の空気が、一気に軽くなった。
息が、やっとまともに吸える。
「はぁ……はぁ……っ」
膝が勝手に折れた。
その場に座り込む。
全身から一気に力が抜けていく。
光の歯車たちも、役目を終えたのか、ひとつ、またひとつと透明になって消えていった。
「……勝った……?」
信じられなくて、思わず声に出す。
目の前には、動かなくなった魔獣の残骸。
さっきまでの圧が嘘みたいに、この場所は静まり返っている。
風が吹いた。
枝のざわめき。
遠くで、フクロウの鳴く声。
世界が、元の音を取り戻していく。
「やった……の、かな……」
震える笑いがこぼれた。
その直後。
「っ……!」
頭の奥に、激しい痛みが走った。
脳みそを内側から鷲掴みにされて、ぐいっと捻られたみたいな衝撃。
「いっ……たぁ……!」
思わず頭を押さえる。
視界がぐにゃりと歪む。
同時に、全身の力が抜けていく感覚。
さっきまで動いていた歯車も、全部止まってしまった。
ライアンの方を見ようとする。
彼は、魔獣の倒れると同時に、糸が切れたように膝から崩れ落ちていた。
「ライアン!」
這うようにして近づく。
彼の顔色は、さっきよりさらに悪い。
唇は青白く、呼吸も浅い。
さっき、未来の線を切っていたとき、彼の中から何かが削れていく感じがしていた。
代償。
きっと、あれは彼の体力とか、生命力とか、そういうものだ。
「やだ、やだやだ……」
自分でも子どもみたいだと思うほど、同じ言葉が口から出てくる。
彼の肩を揺さぶった。
「ライアンさん、起きて、ねえ……」
返事はない。
胸が締め付けられる。
息が苦しくなって、視界が滲んだ。
「そんなの……やだよ……」
声が震える。
森の空気は、さっきまでの戦いとは別の意味で冷たい。
さっきまでそこにあった命が、すっと消えるかもしれない予感。
喉が焼けるように痛いのに、私はまだ叫んでいた。
「ライアン!!」
そのとき。
かすかな温度が、指先に触れた。
彼の手。
泥と血で汚れているのに、その下にはちゃんと人の温もりがあった。
冷たくなりきっていない。
まだ、ここにいる。
「……まだ……生きてる……」
ぽろり、と涙が落ちた。
彼の手の甲に小さな水玉を作る。
ぼやけた視界の中、光の残滓がふわふわ漂っている。
私の《魂装》も、ライアンの《因果断ち切り》も、今はきっと休眠状態。
全てを使い切って、限界まで削られて。
それでも。
この手の温もりだけは、確かだった。
「よかった……」
安堵と疲労が一気に押し寄せて、体が言うことをきかなくなる。
意識が、ゆっくりと沈んでいく。
眠りというより、落ちていく感じ。
最後にもう一度、彼の手をぎゅっと握りしめた。
「あったかい……」
そう呟いたところで、世界が完全に暗くなった。
こうして──
“無能令嬢”と“役立たず騎士”だったはずの二人は、
死の間際で、自分たちの本当の力に触れた。
その代償に、意識という名のすべてを手放しながら。
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