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第2話 常連のふりをする客
ぱり、と軽い音がした。
その音が妙に澄んでいて、クラリスの胸の奥まで届く。
男は目を閉じた。
——閉じた、というより、耳を澄ませるみたいに顔の筋肉が静かになる。
食べるというより、読む。噛むというより、確かめる。
クラリスは思わず息を止めた。
褒められるのが怖い。けれど、けなされるのも怖い。
昔の家は、どっちも「比較」の材料にされるから。
男は一口を飲み込み、目を開けて、淡々と言った。
「焦がしていない。火が怖くない焼き方ですね」
背筋が、少しだけ硬くなる。
——当てられた。
火が怖かった。焦がした日々があった。
でも今日は怖くなかった。怖くないふりじゃなく、本当に。
クラリスは皿を持ったまま、男を見つめた。
「……あなた、何者ですか」
声が思ったより鋭くなった。
自分の心の奥を勝手に触られた感じがして、警戒が先に出る。
男は眉ひとつ動かさず、涼しい顔のまま答える。
「通りすがりです。……紅茶が好きなだけの」
通りすがり。
そんな言葉が似合う姿じゃない。布地の質も、指の動きも、視線の落ち着きも。
クラリスが黙っていると、男は外套のポケットに指を差し入れた。
取り出したのは、小さな茶葉の袋。
紙ではなく薄い布で包まれていて、口が紐で結ばれている。
軽く振ると、かさ、と乾いた音がして、次の瞬間——
ふわり。
柑橘の香りが立ち上った。
甘さとは別の、透明な香り。ベルガモットの輪郭が、午後の空気を一瞬で変える。
クラリスは眉をひそめる。
「……それ、アールグレイ?」
男は口元だけで笑った。
「分かりますか」
「……香りが、柑橘っぽいので」
「正解です」
領都の端の家の玄関先で、上等な茶葉を“通りすがり”が出す。
やっぱりおかしい。
クラリスは、言葉を選びながら探る。
「紅茶が好き、って言いましたけど……普通、持ち歩きます?」
「持ち歩きます」
即答。
あまりにも当然の顔をされて、逆にこちらが変な質問をしたみたいになる。
「それは……常に飲むから?」
「常に飲みたいからです」
「同じじゃないですか」
クラリスがつい言うと、男は少しだけ首を傾げた。
「飲むのは手段です。香りを確かめたい」
言い方が、変わっている。
変わっているのに、気取っていない。
“そういう人”として生きている感じがする。
クラリスは、玄関先に立たせたままでは落ち着かないと思い、視線で台所の方を示した。
「……中、どうぞ。立ち話は落ち着かないので」
男は一拍置いてから、軽く頷く。
「失礼します」
玄関の敷物で靴底を拭う。
この家の狭い玄関でも、空気を乱さない人だった。
台所に入ると、午後の光が男の肩に落ちた。
窓辺の粉がまだ漂っていて、彼の外套に触れそうで触れない。
男はまず周囲を見回さない。
見回す人は、値段を探す。優越を探す。あるいは弱みを探す。
この男は違う。
窓を見た。
光を見た。
それから、テーブルの上のクッキーを見た。
「良い台所ですね」
「……そうですか?」
「火が生きてる」
褒め方が変。
でも、嫌じゃない。
火のことを「生きてる」と言う人は、火を怖がらないし、火を侮らない。
クラリスはカップを出した。
貴族の家にあったような薄い磁器ではない。厚めで、欠けても悲鳴を上げなくて済む、日常用のカップ。
「紅茶、淹れますか?」
男は首を横に振る。
「今日はやめておきます」
「……持ち歩いてるのに?」
「香りが強いので。あなたの焼き立ての香りを邪魔したくない」
“あなたの”。
言葉の距離はあるのに、意外と踏み込んでくる。
クラリスは眉を上げる。
「通りすがりの人にそこまで気を遣われるの、なんだか落ち着きません」
男は淡々と返す。
「落ち着かないのは、悪いことですか」
「……悪い、っていうより」
クラリスは言い淀む。
落ち着かないのは、心が動くからだ。
心が動くのが怖い。動くと、昔の家みたいに誰かに奪われる気がする。
男は追及しない。
その代わり、視線をクッキーに落とした。
「この厚み、狙いました?」
「え?」
「厚さが均一でない。少しだけ揺れてる。でも、食感が良くなる揺れです」
クラリスは思わず反論する。
「それは……均一にできなかっただけです」
男は頷いた。
「そういう“できなかった”が、良い方向に転ぶこともある」
「……慰めですか」
「事実です」
言い切る。
慰めの甘さがない。
なのに、胸の奥が少しだけ温かくなる。
男はクッキーをもう一枚手に取り、また一口かじった。
ぱり。
ほろ。
噛み砕く音が小さく、上品だ。
口を大きく開かない。
それでも味を逃さない。
「砂糖、増やしましたね」
クラリスは目を瞬かせた。
「……分かるんですか」
「分かります。前の一枚より、後味が少し長い」
「一枚しか出してませんけど」
男は肩をすくめる。
「香りで、だいたい」
怪しい。
怪しすぎる。
でも彼の言葉には、嘘の粘りがない。
クラリスは慎重に聞く。
「……あなた、いつもそんな風に食べるんですか。分析みたいに」
「癖です」
「仕事ですか」
男は一瞬だけ間を置く。
「……趣味です」
答え方が、少しだけ薄くなった。
そこだけ布を一枚かけたみたいに。
クラリスはその薄さを感じ取って、そこ以上は踏み込まない。
踏み込まない、という距離感が、この男にもある。
それが、妙に救いだった。
クラリスが皿を下げようとすると、男は言った。
「あなたは、ここで一人ですか」
心臓が小さく跳ねた。
過去を聞かない人だと思ったのに、家の事情に触れた。
クラリスは笑いそうになって、笑わない。
「ええ。一人です」
「寂しくは」
「寂しいかどうか、考える暇がないだけです」
嘘ではない。
毎日やることが多すぎる。火を起こし、掃除し、買い物し、配合を考え、焼いて、片付ける。
その繰り返しが、自分を支えている。
男は頷いた。
「忙しいのは、良い」
「そう言われると……ちゃんと生きてる気がします」
「生きてます」
断言。
まるで味を判定するみたいに、揺らがない。
クラリスは、思わず笑ってしまった。
「……あなた、変な人ですね」
男は表情を変えずに返す。
「よく言われます」
「自覚があるんだ」
「自覚がない変人は、危険です」
真顔で言うから、余計におかしい。
クラリスは喉の奥で笑いを押し殺す。
——笑うの、久しぶりかも。
そう思った瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
痛いのに、嫌じゃない。
久しぶりの感情の摩擦。
男はカップに手を伸ばさない。
砂糖もミルクも、ここには出していない。
それでも、彼は満ち足りた顔をしている。
クラリスはふと気づく。
この人、褒めないんじゃない。
“褒め言葉”を投げないだけだ。
代わりに、事実を置いていく。
それが、妙に重い。
「焦がしていない。火が怖くない焼き方ですね」
あの言葉が、頭の中でもう一度鳴る。
火が怖くない。
それは、今のクラリスが一番欲しかった言葉かもしれない。
クラリスは気になって聞く。
「……あなた、火って怖くないんですか」
男は少しだけ目を細めた。
「怖いですよ」
「え」
「怖い。だから、敬う」
静かに言う。
その言葉が、紅茶の香りみたいにすっと入ってくる。
クラリスは無意識に頷いた。
怖いから遠ざけるんじゃなくて、怖いからちゃんと扱う。
その発想が、今の彼女に必要だった。
男は窓の外をちらりと見た。
石畳の上に光が流れ、影が伸びている。午後の時間がゆっくり傾いていく。
そして、ぽつりと呟く。
「午後の光って、甘さが映えますね」
それは評価でも、感想でもない。
ただの事実。
でも、なぜか胸に引っかかった。
クラリスは言葉を探す。
「……光で、味が変わるわけじゃないのに」
男は淡々と言う。
「味は変わらない。でも、感じ方が変わる」
「それは……あなたの感じ方が、ってことですか」
「ええ」
あまりにも自然に言うから、クラリスは少し驚いた。
“あなたの感じ方”を肯定される経験が少なかったから。
実家ではいつも、“正しい感じ方”が決まっていた。
母の感じ方が正しく、姉の感じ方が華やかで、自分の感じ方は……控えめであるべきだった。
男は立ち上がった。
長居する気配がない。踏み込まない距離を最後まで守る。
「ごちそうさまでした」
「……どういたしまして」
クラリスが言うと、男は玄関の方へ向かう。
扉の前で男は一度だけ振り返った。
「また、もし香りに負けたら来ます」
クラリスは反射で返す。
「……香りのせいにしないでください。来るなら、あなたの意思で来てください」
言った瞬間、自分でも少し驚いた。
そんなことを言うタイプじゃなかったはずなのに。
男は一拍置いて、口元だけで笑った。
「それは、難しい」
「どうして」
「香りは、嘘をつかないから」
そして扉が閉まる。
外の足音が石畳を離れていく。
クラリスはしばらく玄関に立ったまま、台所の甘い匂いを吸い込んだ。
夕方が近づいて、光が少し赤くなる。
窓辺の粉が、さっきよりゆっくり落ちる。
不思議な客だった。
名乗らない。肩書きも言わない。
なのに、こちらの火加減や砂糖の量だけは当ててくる。
おまけに上等な茶葉を持っている。
怪しい。
でも、嫌じゃない。
——むしろ、心が少し軽い。
クラリスは台所に戻り、空になった皿を洗う。
水の音が、昼の余韻をさらさらと流していく。
夜。
火を落とした台所は静かで、窓の外は暗い。
クラリスはテーブルにノートを広げ、次の配合を書き始めた。
バターを少し増やすか。
砂糖はこのまま。
厚さを均一にするか、それとも少し揺らすか。
——揺れた方が、食感が良くなる。
あの男の言葉が、指先に残っている。
「そういう“できなかった”が、良い方向に転ぶこともある」
クラリスはペンを止めて、ふと笑う。
「……変な人」
言いながら、心のどこかが確信していた。
また来る。
あの人は、また香りに負けたふりをして、きっと来る。
理由は分からない。
でも午後の光が、嘘をつかないように。
焼き菓子の香りも、嘘をつかない。
クラリスは窓の方を見る。
暗闇の向こうに、今日の午後の光の残像がまだ漂っている気がした。
そして、もう一度だけ小さく呟く。
「……次は、もっと美味しく焼こう」
それは誰かのためじゃない。
でも、誰かが来てもいいように。
そんな気持ちが、ほんの少し混ざっていた。
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