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第13話 家族の話のついでに
午後の光は、同じ角度から入ってくるのに、毎回違う匂いがする。
今日は乾いた日だ。
窓を少し開けると、石畳の温度がそのまま風に乗って入ってくる。
冷たいわけじゃない。ひんやりと澄んでいる。
焼き菓子の甘さが、その澄んだ空気の上にふわりと重なる。
『午後の窓』の看板が、きし、と鳴った。
その音はもう、クラリスにとって日常の拍子だ。
チリン。
鈴の音。
扉の向こうには、いつもの影が立っていた。
シルヴァンは敷石で靴底を軽く払ってから入る。
所作は整っているのに、いちいち見せびらかさない。
整っていることがこの人の“普通”の動き。
「こんにちは」
「こんにちは」
挨拶が揃う。
この揃い方が、クラリスには少しだけ嬉しい。
同じ温度の言葉が返ってくると、今日の自分が乱れない。
シルヴァンは当然のように窓辺の席に座った。
当然のように座るのに、当然のように“気づかないふり”をしている。
そのふりが、今では少し可笑しい。
クラリスはクッキーを皿に並べ、カップを用意する。
今日はバタークッキーと、少しだけ紅茶の葉を練り込んだもの。
細かく砕いたアールグレイを生地に混ぜた。
香りが鼻に触れた瞬間、胸の奥がすっと静かになる。
湯を沸かす音。
薪がぱちりと鳴る音。
カップを温める湯気が、窓の光に白く縁取られる。
シルヴァンはいつもの茶葉を出した。
同じ布袋。紐。香り。
ベルガモットがふわりと立ち上がる。
「今日の匂いは、少しだけ落ち着いてますね」
クラリスが言うと、シルヴァンはわずかに目を細めた。
「湿度が低い」
「当たり。窓を開けたら、風が乾いてました」
「乾いた日は、香りが立ちすぎることがあります」
「だから今日は、クッキーに茶葉を混ぜました」
シルヴァンの視線が皿へ落ちる。
“読む”目。
一枚取って、ひと口。
次に紅茶をひと口。
目を閉じる。
しばらくの沈黙。
沈黙は重くない。
静けさがただ、テーブルの上に座っている感じがする。
「……喧嘩しない」
シルヴァンが言った。
クラリスは肩をすくめる。
「それ好きですね」
「事実が好きです」
「美味しいは」
「美味しいです」
即答ではなく、少しだけ間があった。
その間が、丁寧に見える。
言葉を雑に投げない人の間。
クラリスはカップを手元に寄せた。
両手では持たない。片手。
ソーサーはテーブルに置いたまま。
自分の所作も、少しずつ整ってきた。
整うことは、母の支配の中では窮屈だった。
でも今の整いは、自分が選んだ形だから気持ちいい。
二人のティータイムは、いつの間にか“いつもの時間”になっていた。
店の忙しさが落ち着いた頃に、窓辺の席にカップが並ぶ。
そして会話は多くない。
多くないのに、今日は妙に言葉を足したくなった。
理由は分からない。
ただ、ハインツの件以来、シルヴァンの輪郭が少しだけ濃くなった気がしたから。
守られた、というより、守る人の背中を見た気がしたから。
クラリスはふと、思いついたように聞いた。
「……ご家族は、どんな方なんですか」
質問を口にした瞬間、胸が少しだけ熱くなる。
踏み込んだ。
踏み込んだのに、怖さよりも好奇心が勝っている。
シルヴァンはカップを置いた。
その音が、かつん、と小さく鳴る。
彼は少し考えた。
考える顔が、いつもより人間っぽい。
紅茶を読む顔ではなく、言葉を選ぶ顔。
「兄がいます」
「お兄さん」
「はい。……王位を継ぐ予定でして」
クラリスの手が止まった。
止まったことに、自分で驚く。
止まる理由が、頭では分かっている。
王位。
その単語は、日常のテーブルの上に置くには重い。
重すぎて、皿がきしむ。
カップの縁に置いていたスプーンが、触れて小さく鳴った。
ちり、と音がして、クラリスの心臓がそれに反応する。
「……王位?」
声が薄くなる。
聞き返すのがやっとだった。
シルヴァンは肩をすくめる。
誇らない。隠す気もない。
ただ、それくらいの話として言う。
「ええ。兄が継ぐので。私は城に向いていないですし、あまり戻りません」
戻らない。
向いていない。
その言い方は軽いのに、軽く聞こえなかった。
城。
王位。
それが“家族の話のついで”に出てくる世界。
クラリスは自分の中で、何かがひとつだけ冷たくなりかけるのを感じた。
——遠い。
この人は、やっぱり遠い。
遠い人だから、あの所作なのか。
遠い人だから、あの距離の取り方なのか。
遠い人だから、あんなに「踏み込まない」を守れるのか。
でもクラリスは、その冷たさを育てなかった。
育てたら、また自分の居場所が凍る。
凍るのは嫌だ。
凍るくらいなら、火を守る。
クラリスは呼吸を整えた。
頬の筋肉をいつも通りに戻した。
自分の声の温度を、いつも通りに保った。
態度を変えない。
変えないことを選ぶ。
「では、紅茶は城よりここの方が美味しいですね」
口にした瞬間、自分でも少しだけ可笑しかった。
城と比べていいのか、という滑稽さ。
でもそれ以上に、“比べるならここ”と言えた自分が誇らしい。
シルヴァンの呼吸が、一拍だけゆるんだ。
ほんの一拍。
でも確かに、彼の肩の硬さがほどける。
目の奥の力が抜ける。
「……ええ」
短い返事。
それだけなのに、湯気の向こうで表情が柔らかい。
クラリスはその変化を見逃さない。
王位の話をしたのに、クラリスが態度を変えなかった。
驚いたけれど、距離を取らなかった。
特別扱いもしなかった。
怖がって持ち上げもしなかった。
ただ、紅茶の話に戻した。
その“いつも通り”が、シルヴァンをほどいた。
クラリスは気づく。
この人は、肩書きに慣れているのに、肩書きで扱われることに疲れている。
疲れている、というより、息が詰まることを知っている。
だから、ここがいい。
午後の光がいい。
焼き菓子の匂いがいい。
何でもない会話がいい。
クラリスはクッキーをもう一枚皿に足した。
「今日は茶葉入りなので、少しだけ香りが残ります」
「残るのが良い」
「苦くないですか」
「苦いのも良い」
シルヴァンはカップを持ち、ひと口飲む。
その横顔が窓の光に縁取られて、少しだけ遠い世界の人に見える。
でも、その遠さは今、怖くなかった。
クラリスは言う。
「城の紅茶って、どんな味なんですか」
シルヴァンは少し考える。
そして淡々と答えた。
「整いすぎています」
「……整いすぎ?」
「間違いがない。だから、驚きも少ない」
クラリスは思わず笑う。
「それ、紅茶に言う言葉じゃない」
「紅茶にも、あります」
「じゃあ、ここの紅茶は?」
シルヴァンは一拍置いて言った。
「間違いがある。だから、驚く」
クラリスは目を瞬かせた。
それは褒め言葉の形ではない。
でも、胸の奥にすっと入る。
間違いがある。
驚く。
自分の焼き菓子は、完璧ではない。
でも、その完璧じゃなさが誰かの心を動かすなら、それでいい。
ティータイムが終わりに近づく。
窓の光が少しだけ傾く。
シルヴァンは立ち上がった。
長居はしない。いつも通り。
「ごちそうさまでした」
「また来ますか」
「来ます」
短い。
でももう、その短さが寂しくない。
玄関まで見送ると、風が少し冷たくなっていた。
看板がきし、と鳴る。
シルヴァンは扉の外に出る前に、ちらりと看板を見た。
『午後の窓』の文字が、午後の光をまだ少しだけ抱えている。
「……ここは、午後が似合う」
いつか言われた言葉が、また落ちた。
同じ言葉なのに、今日は少し違う温度だ。
クラリスは笑って返す。
「あなたも、ですよ」
シルヴァンは一瞬だけ目を見開いて、それから小さく息を吐いた。
「……そうですか」
その声は、ほんの少しだけ軽い。
扉が閉まる。
足音が石畳に遠ざかる。
クラリスは台所に戻り、窓辺の席を見た。
カップの輪がテーブルに残っている。
湯気は消えた。
でも温度だけが残っている。
王位。
城。
遠い世界。
それでも、ここは変わらない。
午後の光は差す。
焼き菓子は甘い。
紅茶は香る。
そして、自分は態度を変えなかった。
その事実が、クラリスの背骨をまっすぐにした。
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