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第15話 クラリスは揺れない
午後三時。
窓から差す光が、いつもの角度で台所に落ちる。
粉が光を纏って舞う。
その白い粒が、空気の中で一瞬だけきらめいて、すぐに沈む。
クラリスはその動きを見て、呼吸を合わせるように生地をこねた。
とん、とん、とん。
木の台に響く音は、心臓の音と似ている。
一定で、無理がない。
無理がないことが、最近は嬉しい。
『午後の窓』は忙しくなった。
忙しくなっても、クラリスの手は荒れない。
焼ける数だけ。笑える分だけ。
その線を守ることが、店を守ることだと分かっているから。
チリン。
鈴が鳴った。
胸の奥が小さく動く。
その動きはもう、驚きではない。
「来た」と分かる動きだ。
扉の向こうに立っていたのは、シルヴァンだった。
いつもの外套。いつもの涼しい顔。
でも今日は、光が彼の輪郭を少しだけ強く縁取っている気がした。
「こんにちは」
「こんにちは」
挨拶が揃う。
その揃い方が、クラリスには救いになる。
違う世界の人でも、今ここで同じ言葉を使ってくれる。
それだけで、距離が少しだけ縮む。
シルヴァンは敷石で靴底を軽く払ってから入る。
店の床を汚さないための、控えめな礼儀。
その仕草を見て、クラリスは胸の中でそっと笑う。
——城の床は、もっと綺麗だろうに。
その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥に小さな棘が刺さった。
城。
その単語は、紅茶の湯気の向こうに置いておきたいものだった。
置いておきたいのに、シルヴァンがさらりと言った。
「昨日、兄から手紙が来ました」
クラリスは指先を止めないまま返す。
「王位を継ぐ予定の、お兄さんですか」
「はい。……城に戻れ、と」
その言い方は軽い。
軽いのに、言葉の背中が重い。
クラリスの手が、ほんの一瞬だけ止まりかけた。
止まりかけて、すぐに動かした。
止めると、棘が深く刺さる気がしたから。
「戻るんですか」
「戻りません」
即答。
揺れのない返事。
その返事を聞いた瞬間、胸の奥がほどける。
安心が先に来てしまう自分が、少し恥ずかしい。
でも、次の瞬間。
——戻らないって、言える人なんだ。
城に戻れと言われても戻らない。
王位を継ぐ兄がいても戻らない。
そういう世界の人が、そうやって“選べる”のは、どうしてだろう。
選べるから、戻らないと言える。
選べるから、今ここにいる。
その当たり前の事実が、クラリスの胸に小さな影を落とした。
——私は、選べた?
実家を出たのは、自分の意思だ。
自分で言った。
「私はもう、比較されない場所で生きます」と言った。
言った。出た。ここに来た。店を作った。守っている。
でも。
城という言葉が出た途端、
自分が“この人に釣り合わない”と、一瞬思ってしまった。
言葉にしない、ほんの一瞬。
呼吸が薄くなる程度の、一瞬。
焼き菓子の匂いが、急に自分だけの匂いに思える。
この人の世界に比べたら、あまりに小さい。
石畳の端っこの小さな台所。
粉とバターと、午後の光だけ。
——釣り合わない。
そう思った瞬間、心の中に、昔の声が混じった。
「控えめでいいのよ」
母の声。
甘い毒。
クラリスを小さくするための優しさ。
クラリスは、わずかに奥歯を噛んだ。
噛んで、思考を止める。
違う。
それは母の言葉だ。
それは私の言葉じゃない。
クラリスは生地を台に打ち付ける。
とん。
少し強い音が出た。
自分で驚く。
でもその音が、胸の中の棘を折るような気がした。
——釣り合わない?
釣り合うかどうかなんて、誰が決める。
母が決めた。
姉が決めた。
家が決めた。
だから、私は苦しかった。
今は違う。
釣り合うかどうかじゃない。
欲しいかどうかだ。
招きたいかどうかだ。
隣に座ってほしいかどうかだ。
クラリスは息を吸って、吐いた。
焼き菓子の匂いが肺に入って、ゆっくりと温まる。
——私は、この人をここに招きたい。
それだけだ。
それだけでいい。
それだけが強い。
揺れた。
でも揺れた自分を責めない。
揺れた後に戻ってくる場所があるのが、今の自分の強さだ。
クラリスは顔を上げて、いつもの温度で言った。
「……城って、そんなに落ち着かないんですか」
シルヴァンは少し考える。
考えてから、淡々と答える。
「整いすぎています」
「またそれ」
クラリスが呆れると、シルヴァンはわずかに口元を緩めた。
「間違いがないので」
「間違いがある方が好きなんですね」
「……驚きがある」
クラリスは小さく笑った。
「じゃあ、今日は驚かせます」
そう言って、焼き上がったばかりのクッキーを皿に並べる。
いつものバタークッキー。
でも焼き色を少しだけ濃くした。香りが強くなるように。
シルヴァンが席に座る。
もちろん窓辺の席。
当然のように。気づかないふりをして。
クラリスは紅茶を淹れる湯を沸かしながら、窓辺の席を一度だけ見た。
そこに座る彼は、店の空気に馴染んでいる。
馴染みすぎて、最初からそこにいたみたいに。
——それが、不思議で、嬉しい。
でも、嬉しさを言葉にしない。
言葉にした瞬間、彼の理屈の壁を壊してしまいそうだから。
壊したいわけじゃない。
壊れた後に、彼がどこへ行くか分からないのが怖い。
だから積み上げる。
湯気。
香り。
焼き色。
同じ温度の会話。
クラリスはカップを二つ温め、ソーサーを置いた。
かつん、と小さな音。
その音が好きになっている自分に気づく。
「紅茶、どうぞ」
「ありがとうございます」
シルヴァンは香りを一度吸い込んでから、ひと口飲む。
目を閉じる。味を読む。
その顔を見ていると、クラリスの胸が柔らかくなる。
柔らかくなるのに、崩れない。
依存じゃない。
依存は、相手がいないと自分が壊れること。
でもクラリスは壊れない。
彼がいなくても火は起こせる。粉は量れる。クッキーは焼ける。
自分の生活は自分で回せる。
それでも——
この人がここにいると、午後の光が少しだけやさしくなる。
やさしくなることを“欲しい”と思うのは、依存ではない。
選択だ。
選んで、招きたい。
私の世界に、あなたを入れたい。
クラリスは、窓辺の席の向かいに立ったまま、さらりと言った。
「常連さんの席は、今日も空いてますよ」
言ってから、少しだけ胸が熱くなる。
これは冗談の形をした、本音だ。
シルヴァンは一瞬だけ瞬きをして、それからいつもの顔で返す。
「……いつも、空いていますね」
「そうですね。なぜでしょう」
クラリスが肩をすくめると、シルヴァンはカップを持ったまま、ほんの一拍だけ呼吸をゆるめた。
その一拍で分かる。
彼は“城の自分”を、ここで脱いでいる。
鎧の紐をほどき、肩の力を抜いている。
ここでは、肩書きがいらない。
ここでは、王位の話も、城の命令も、外に置いてこられる。
シルヴァンは何でもないように言った。
「ここは……落ち着きます」
クラリスの心臓が、少しだけ跳ねた。
でも顔は変えない。
変えないことが、今の自分の矜持になる。
クラリスは微笑んで返す。
「それなら良かったです」
窓から差す光が、粉の粒を淡く照らす。
湯気が光に溶けて、二人の間を柔らかく満たす。
クラリスは心の中で、静かに決めている。
彼が気づくのを待つ、と。
言葉にしなくてもいい。
急がなくていい。
この店は奪われない。
この時間は奪われない。
そして、何より。
自分の気持ちも、奪われない。
好きだと確信している。
でも、その好きは弱さじゃない。
——私の世界に招きたい。
その選択が、クラリスをまっすぐ立たせていた。
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